自動車に関する私的見解
自動車に関する私的見解
環境問題とくにCO2排出削減の観点から、自動車の風当たりが強い昨今ではあるが、車社会と言われるようになってから国民への普及度は高く、物流の主力ともなればこの先自動車が減少することはないであろう。
環境に配慮した電気自動車、ハイブリッド車等徐々にではあるが数が増えているし、卑近な例では暑い日、寒い日、雨の日など移動するのに自動車は快適である。
また家族にお年寄りや小さなお子さんがいる家庭などは彼らを乗せて遠距離移動するのは便利であり欠かせない道具といえよう。
(私と自動車の歴史)
私は自動車免許を取得して三十年近くになるが、一度は免許の取得をあきらめた人間である。というのも、通常免許を取得するためには自動車教習所に通うものであるが、そこの担当教官がとてつもなくヤクザのように恐ろしい人間だったのだ。
昨今の自動車教習所は生徒の減少により先生も優しく、サービス精神旺盛で担当教官も選択できるであろう。
ところが当時はヤクザまがいの教官が恐喝と何ら変わりない指導(指導らしきものはしていないが)で生徒を辞めさせ、前払いの教習料金を儲けるシステムが機能していた。
そうこうしているうちに私はストレスから十二指腸潰瘍に罹患し、その教習所を辞めた。
まあ一生自動車など運転しないだろうなと思っていたところ、ご近所のおじさんが別の教習所の先生をなさっており「僕が担当になってあげるからもう一度免許挑戦してみたら?」と申し出て下さり、そこで一度も実技単位を落とすことなく免許を取得することができた。
そのときはまだ大学生だったが「指導者として怒鳴ったり暴力的な言動をする人間は、ろくな指導者ではない」ということを実感した。
その後通勤途中で追突事故を起こされ、それが原因で頸椎ヘルニアとパニック障害を併発し、仕事を辞めることになったとはいえ、車との生活はたくさんの喜びとうるおいを私に与えてくれた。
ちなみに約三十年近く無事故無違反を続けていてひそかな自慢だったのだが、昨年生まれて初めて信号無視で違反を取り締まられてしまい、その記録は途絶えた。まあ慢心を戒める授業料と前向きにとらえたい。
また私は重度のアルコールアレルギーのため、お酒が一滴も飲めない。なので、コロナ前などは友だちと飲みに行ったり、カラオケに行ったりしたときは運転手役も兼ねていて、喜ばれたものである。
禍福あざなえる縄のごとし。「あの時免許を取っていなければ」病気やケガに悩まされず仕事を失うこともなかった、という考えもあろうが、今は自動車のおかげで大変公私ともに助かっている事実もあり、自動車を「酸っぱい葡萄」で終わらせなかったことに後悔はしていない。
愛車に関してはマツダ車が好きで、デミオを新旧二台乗り継いだ後(新型の方は追突事故で廃車にした)、初代アクセラスポーツに十八年乗り続けている。これはコンパクトなボディに二十三リッターのエンジンを搭載しており、ボルボとの共同開発した頑強なプラットフォームと相まって、安全性と運転する楽しさを提供してくれている。
もともとのボディ色はメタリックブルーだったのだが、十八年の間に塗装の剥離が頻繁に起こり、去年塗装専門業者にメタリックレッドに全塗装してもらった。そうしたところ、新品のように生まれ変わったようになり、友人や知り合いに「新車買ったの?」とまで言われるようになった。
走行距離はまだ七万キロ程度であるので、あと十年は軽く戦えると思っている。
(自動車所有者の二極化)
「車はあくまでも、快適に暮らす道具♪」とは奥田民生の歌であるが、大部分の自動車ユーザーにとって車は日常の利便性に供する道具としての認識ではなかろうか。
というのはコンパクトな軽自動車が多く普及し、普通自動車に比べれば車内が狭いものの、燃費が良く税金も安い、狭い街路をスイスイ乗り回せるなかなかのコスパの良さである。
一方で高価な外国車、スポーツカーとなるとお金に余裕がある人に加え、ちょっと街乗りするにはオーバースペックであることは否めない。言わば「趣味で選ぶ自動車」であろう。なかなか高価で趣味性の高い車を好む人は少なく、全体からすれば少数派であろう。
それどころか、都市に暮らす若者などは「自動車離れ」が進んでおり、自動車の維持費(車体代・駐車場代・ガソリン代・税金等)からしてコスパが良くない、電車バス自転車徒歩で充分であると考えている人も増えている。
知り合いなど近所のレンタカー屋さんにその都度自動車をレンタルしているというし、音楽配信サービスのように「自動車のサブスク(定額料金で新しい自動車を借り放題)」のようなシステムまである。CDやDVDのように所有にこだわらない今どきのサービス形態であるといえよう。
こう見てみると、かつての自動車所有者の二極化は「道具としての廉価な自動車と趣味としての高額な自動車」を持つ者であったかもしれないが、今や「自動車そのものを持つか持たないか」という二極化にまで変化しつつあるということだ。
というのも次に述べるように高齢化社会における自動車問題がこのような事態を促進しているようにも思えるのである。
(高齢ドライバーによる危険運転の増加)
人間だれしも歳を取る。そしていくら注意しても自動車事故はなくならない。この二つの現象の複合化は「高齢者による危険運転」として社会問題化している。
池袋での高齢ドライバーによる暴走事件では母子が死亡し大きな衝撃を与えた。その他にも誤動作によるパニックで自動車を暴走させてしまう高齢者が続出し、免許返納を推進する動きも活発化している。
自動車は安全運転をしているかぎりは快適な道具であるが、危険運転をする者にとっては走る凶器にもなりうる。
高齢になれば、とっさの判断力や運転動作が鈍るのは仕方がない。ドライバーにとっては自らの身の引き時を決断するのも、大事な時代になったということだ。
かつては運転免許証を身分証明書代わりに使っていた人も多い(現在もかなり多いけれども)。今はマイナンバーカードという実利を伴った身分証明書ができていることから、ペーパードライバーや運転から長く遠ざかったドライバーは免許を返納し、より自らの現状に近い身分証明書に変更することは自然なのかもしれない。
(MTかATか)
先述した高齢ドライバーの自動車事故に関して「高齢者にMT車(マニュアル車)を運転させれば誤作動させることがない」という意見があった。
たしかにAT車(オートマチック車)だとシフトレバーをバックに入れ間違えてしまうとそのまま後方に動き出す(注意音は鳴るにしても、だ)が、MT車だと左足の位置にあるクラッチペダルを踏まないとギアは変わらない。
ところが、現実は九割以上の自動車がAT車になっている現在、MT車をどこから探してくるのか、というところではある。
それより、今のAT車のシフトレバーはパソコンのマウスのような形状になっており、その操作間違いが事故の原因なのではないか?という指摘もある。
とくに池袋暴走事件で容疑者の老人が運転していたプリウスには、マウスのような形状のシフトレバーが装備されており、他の高齢ドライバー事故でもプリウスが多い見地からも、個人的には「あのシフトレバーが危険なのではないか」と推測している。
ところで、私はAT限定免許である。
免許取得当時AT限定免許が創設されたばかりで、AT限定免許を取得する男性は大変珍しかった。
大学の友だちにも「男がAT免許なんてみっともない」とからかわれたものだ。だが、今となってはどうか。若い男の子も女の子も人の目は気にしない世代だ。したがって男女ともにAT限定免許の割合は増えていき、MT免許を取得する人の割合を大きく超えた。
というのも、「運転すべきMT車がどこにも売っていない」ほどAT車が自動車市場のほとんどを占めているからだ。最近はスポーツカーや軽トラックでもAT車が多いし、やはり操作性の煩雑なMT車は自動車好きでなければあえて乗らない車種になってしまったのだろう。ネットの掲示板くらいでしか「AT限定免許者差別」は見られなくなった。
AT車とはかつての「ひらがな」だったのではないか、と感じることがある。ひらがながわが国で発明された当初は「ひらがなは女が使用する文字」との認識で、男性は相変わらず漢文を用いていたという。
そのうち男女問わず書きやすく便利なひらがなを使うようになっていき、今や漢文を読める人はかなり少ない。
AT車とMT車の関係がそこまで極端なものになるのかは微妙だが、MT車がAT車を逆転することはないであろう。
(自動車を運転するにあたって)
最後に免許取得から無事故の私が心がけていることを一つだけ書いておきたい。
それは、運転時に前の車との車間距離を充分にとっておくことである。
いつも車を運転するにあたって心身ともに絶好調ではありえない。たまには寝不足だったり、疲れていたり、気分がむしゃくしゃしている時もあるだろう。
そういった時、判断ミスや判断の遅れが出る。それでも車間距離さえとっていれば、前の車に衝突することは少なくなる。
言い換えれば車間距離は他のドライバーへの思いやりでもある。そうやって思いやりと余裕をもって安全運転を心がけるのが、遠いようで最短の運転のコツなのかもしれない。
終