後輩からの誘い
重くため息を吐いて目の前の扉を見つめた。
結局一睡もできなかった。
それもこれも鈴木龍之介、あの男のせいだ。
あたしはただ普通に社会生活を送りたいだけなのに、いきなり「結婚してください」だなんて。からかっているに決まってる。気にすればきっと馬鹿を見るに違いないのにどうしても頭から離れない。だって異性に告白されたのなんて生まれて初めてだもの。
いや待て、落ち着け、あたし。
気にしなければいいんだ。普通に。あくまでいつもどおりに過ごせばいい、はず。
だからこの扉をあけることにそんなに躊躇う必要はないんだ。
気合いを入れて扉を開き、そっと中をうかがう。
よーし、いない。ほっと胸をなでおろした時、
「あれ、どうしたの?」
背後から吉井さんの陽気な声がして思わず飛び上がった。
「い、いえ。なんでもないです」
おはようございます、とごまかして事務所に入ったところで会いたくない相手の顔とぶつかる。
「あ、龍くん、おはよう」
「おはようございます」
たったそれだけ。
挨拶だけしてさっさと自分の仕事を始める。
あたしなんて視界に入っていないような、気にもしていないような態度で。
昨夜のアレはやっぱり単なる冗談ですか。冗談にしても何かしらフォローがあってもいいと思うんだけど。それともあたしが考えすぎているだけなのか。
なんだろう、このもやもやした感覚。
「怖い顔して、どうしたの?」
「え、や。なんでもないですよ。大丈夫です」
慌ててそう取り繕ってロッカー室に向かった。
夕方、アパートの階段を上がるあたしの頭の中はぐっちゃぐちゃで、正直、泣きたいような気分だった。
昨日の今日で、なんでああも平然としていられるのか。こっちはいろいろ考えて頭パンク寸前なのに信じられない。
というかなんであたしがこんなにイライラしなきゃいけないのよ。
もう、今日はお風呂入ってすぐ寝よう、と思っていた。
階段を登りきったところで足を止めたのは、部屋のドアの足元に人影があったから。
「せんぱ~い」
立ち尽くしたあたしを認めて座り込んでいた千紗が駆け寄ってくる。
「ちょっと、大丈夫?」
と聞いたのは、千紗の瞼が赤くはれているように見えたから。そしてそれは見間違いじゃなかった。
「振られちゃいました」
「は? あんたつい最近彼氏できたって言ってなかったっけ」
「そうです、その彼氏に振られました」
そう言って子供のように泣き出す。
ちょっと待って。いくらなんでもここでそんなに泣かれると近所迷惑だから。
「ええと、とりあえずうちに入ろう。それから話聞くから」
しゃくりあげる千紗を抱え込むようにして部屋の鍵を開けて入ると奥のソファに座らせる。
千紗はしばらく泣き続けてちょっと落ち着いたのか、渡したタオルで顔を拭いてポツリポツリと話しだした。
「今日、彼氏とデートでどこに行こうかって話になって、映画を見に行ったんです」
千紗の話を聞きながらコーヒーを淹れる。コーヒー粉にお湯を注ぐとふんわりと香ばしい香りが立ち上った。
「見終わって、じゃあ何しようかってことになって、うちに来たいって彼氏が言いだして――」
部屋を見た彼氏が千紗の少女趣味を理解できなかった、ということらしい。
それってなんというか。
「理解力のない男だわね」
「やっぱりそう思います?」
湯気の立つマグカップからコーヒーをすすって千紗が言う。
「しかも顔が好みだったから付き合ったけど、ちょっとイメージと違ったから別れるって勝手過ぎません? あたしの顔しか好きじゃなかったのかって感じで」
「あー、まあ、ねえ」
しまった、なんかまたこの子のスイッチを押したかも。
「なんで男の人って顔とか外見でばっかり選ぶんでしょう。もうちょっと中身も見てほしいのに」
「う、うーん、そう、かな」
「そうですよ。今まで付き合った男全員同じこと言うんですもん。『君とは趣味が合わない』って。合わせる必要はないから、理解してくれれば十分なのに」
「あー、それはわかるかも」
確かに彼氏と同じ趣味を持つ必要はないと思う。というか、趣味くらいは好きにさせてほしい。……まあ、この子の趣味はまた別問題かもしれないけど。
「っていうことで、先輩、合コンしましょう」
「は? なんでそういう話になるの」
もしかしてもう失恋から立ち直ったとか?
それとも別に失恋の痛手なんてたいしたことなくて、単に話たかっただけなのかしら。
千紗は唇を突き出して、
「失恋の悲しみは新しい恋で忘れるんです。だから合コン行きましょうよ」
「いや、あたしは別に失恋とかしてないし……」
「だって先輩、恋してないじゃないですか。恋しましょうよ、絶対楽しいですって!」
「楽しいのかしらねぇ」
そうは思えないのはあたしが屈折しているだけなんだろうか。
なんだかなぁ。今まで恋愛と無縁で生活してきたからか、相手に合わせるっていうのがどうも面倒臭い気がするんだけど。
「それに二十も半ばを過ぎて処女だなんて、今の時代あり得ません」
「ほっといて」
軽く嘆息すると、ちょっと肩をすくめて見せた。
「わかったわよ。行けばいいんでしょ、合コンに行けば」
意地を張っても千紗は絶対に折れないだろう。
合コンは面倒だけど、飲み会と思えばなんということもない。
「やった。じゃあ早速メンツを集めますね。楽しみにしていてください」
グッと親指を立てる千紗。
「いい出逢いがあるといいですね」
「……お互いにね」
あたしは、力なく笑ってコーヒーを飲みほした。




