喫茶店にて
心地いいジャズのリズムが流れ込んでくる。
ともすれば酔うほどに濃厚なコーヒーの香りに思わず息を吐く。
仕事帰りに行きつけの喫茶店に寄ったのはあまりの疲労感のためだった。この状態では家に帰り着くことはままならないかもしれないと判断し、一休みしようと思ったのだ。
喫茶店、と述べたように、最近流行りのカフェではない。商店街の角にひっそりと佇む姿はよくいえば年季が入っていて、パッと見た限りでは営業しているかどうかも怪しい雰囲気を醸し出している。けれど中に入れば落ち着いた照明にセンスのいい家具が出迎えてくれるので意外とお客は多い。週末ともなればそう多くはない席数の店内はいつも一杯になるくらい。
カウンターの隅に座って買ってきた雑誌をぱらぱらとめくっていると、自分のペースが戻ってくる気がする。
ゆるりと湯気の立つコーヒーを一口。うーん、しみわたる。
ホッと嘆息してまた雑誌に目を落とす。
BGMに紛れてとある会話が聞こえてきたのは多分偶然だった。
「もう一回言って」
鋭い女性の声。周りに気を使って小声ではあるけれど、カウンターのあたしの席のちょうど後ろだったのでとらえることができた。
「別れよう、ってどういうこと」
ひょっとして修羅場ってやつ?
雑誌のページをめくり気にしていない様子を装いながら、後ろの会話に耳をすませる。
「言葉その通りの意味だけど?」
相手の男は面倒臭そうな調子で言う。彼女の気持ちなんて気にも留めてない風に。
どうして、と言う彼女の声がちょっと震えているような気がした。
「わ、別れて、それからどうするのよ」
「昔のように仕事上の関係に戻ればいいだろう」
どうやら元は仕事仲間のようである。それにしてもなに勝手なことをぬかしているんだ、この男は。
「そんなに簡単に割り切れるわけないじゃない」
彼女の声が段々と泣き声になっていっている気がする。きっと男のことがまだ好きなんだろう。聞いている限りでは男のほうがいきなり別れ話を切り出したっぽいし。
陶器が触れあう音が小さく響き、男がため息を吐く気配がして、ぼそぼそと何か言ったみたいだけどよく聞き取れなかった。まったく、もう少しハキハキと喋ればいいのに。
「……じゃあ、せめて理由くらい教えて」
しばらくの沈黙の後に彼女が言った。
理由も言わずに別れ話を切り出されたら、そりゃあまあびっくりするしショックだろう。
「恋愛対象としての興味を失ったから」
男の台詞が終わるのと同時くらいにパシャっという水音がした。
「最低」
そう吐き捨てて、彼女は店を出て行った。
……パシャッ?
振り返りたい衝動をこらえながら後ろでなにが起こったのか自分なりに想像してみる。多分彼女が水を男にぶちまけたんだろう。コーヒーだったりしたら結構ヒサンなことになりかねない。下手したら火傷するし、そうでなくても服にシミがつくし。それにしてもなんだか古いドラマにありそうなシチュエーションだ。現実にするか、普通。
我に返ったのは男が大きく息を吐いたからだ。
椅子から立ち上がる気配があって、ゆっくりと歩いて行く後ろ姿をそろりと盗み見る。すらりとしたシルエットになんとなく見覚えがあるような気がしたけれど、きっと気のせいだ。
男の知り合いなんて、数えるほどしかいないんだから。
ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。なんとなく興をそがれて雑誌を眺める気分じゃなくなってしまった。会計を済ませて店を出るとスーパーによって買い物をした。
夜、帰ってEメールのチェックをしたら、派遣会社からメールが届いていた。




