好きと嫌いと
茫然として千紗を見送ったあたしの頭の中は疑問符だらけだ。
恋って何よ、恋って。
あたしが龍之介のことを好きだなんて、なんでそんな話になるわけ?
そんなわけあるわけない。あんな失礼極まりない最低男。
……そんな話の流れだったかしら。
考え事をしていたあたしの右腕を誰かが掴んで引っ張る感覚で思案から現実に引き戻された。ほぼ同時にクラクションの音と光が目の前を通り過ぎる。
「自殺でもする気ですか」
龍之介が怒ったような、でも少し焦ったような声色で言うので、びくりと肩が震えた。
「ちょっと考え事をしていたので。すみません。ありがとうございます」
一応お礼を言いながらなんでここに龍之介がいるのかを考える。よりにもよってこのタイミングでと、ぐるりと街並みを見渡して理解する。ぽつぽつと街灯が並んだ見慣れた建物の並びはアパートの近所のものだ。
あたし、いつの間にここまで帰ってきたんだろう。考え事をしていたからか、全く記憶がない。
「赤信号にも気付かないほど何を考えていたんですか?」
「なにって……」
あなたのことです、とは口が裂けても言えない。そんなの恥ずかしすぎる。
「べつに、たいしたことじゃありません」
なんとなく気まずくてうつむいて応える。
一拍おいて龍之介が口を開いた。
「今朝は、すみませんでした」
思ってもみなかった言葉に反射的に龍之介を見上げる。その顔は真面目そのもので、とたんにぎくりと心臓が跳ね上がった。
「こちらこそ、むきになってすみませんでした」
言い終わるかどうかのタイミングで信号が変わり、龍之介は歩き出す。
二の腕を掴んでいたはずの龍之介の手がいつの間にかあたしの手を握っていたせいでつられるように踏み出した。
――その人のことが好きなんですね。
唐突に千紗の言葉が耳の奥によみがえってきた。
いや、いやいや。違うから。そういうんじゃないから。
頭では否定するのに、握られた手はまるでそこに心臓が移動したかのようにどくどくと脈打ちだす。異常に熱くなった掌が汗ばんでくるのを感じて、つい手を振りほどこうと引っ張った。
「なにか?」
「いえあの、手。手を離してもらえますか。……子供じゃないんですから、一人で歩けます」
「知ってますよ」
「じゃあ……」
「嫌です」
な、なによそれ。
愕然として龍之介の顔を見返すと目が合った。なぜか恥ずかしくなって視線を少し下げる。振りほどこうとしたせいなのか、龍之介の手に力が入ったのがわかる。
「からかわないでください」
「からかってなんていません」
じゃあさっさと手を離してよ。心の中でそう毒づく。
視線を逸らしていても龍之介がこちらを見ているのはひしひしと感じる。
「じゃあなんで離してくれないんですか」
力を込められているからって決して痛いわけじゃないけど、どう引っ張ってみたところで龍之介の手から逃れることはできなくて。それに自分のものじゃない体温を感じて心臓が痛いくらいにどきどきして、体中の血が沸騰しそうだった。
それなのに龍之介はしれっとした態度なものだからむしょうに悔しい。
「好きだからです」
お願いだから世間話でもするみたいに言わないで。告白ってそんなにさらっと言うものじゃないでしょう。
ひときわ大きく打った心臓をなだめるために深呼吸して視線を上げる。
「あたしは嫌いだって言いました」
「山田さん」
「な、なんですか?」
心なしかトーンを落とした声で呼びかけられてびくりと身体がすくんだ。何を言われるかと身を固くしてじっと待つけれど、龍之介は何を考えているのかつかの間黙り込んだあと、
「好意と嫌悪は似た感情だってご存知ですか?」
この男まで、なんで千紗と同じようなことを言い出すの。
「……なにが言いたいんですか」
睨みつけると龍之介はちょっと眉を上げ、フッと息を吐いた。唐突にあたしの手を解放して、
「いいえ、別になんでもありません。不快な思いをさせてしまってすみませんでした」
先に行きます、と会釈をして龍之介は歩いていく。
突然の龍之介の態度の変化にあたしは一瞬ぽかんとしてその背中を目で追った。汗ばんだ右手に残った感触と体温が混乱に拍車をかける。
なにそれ。というか、今はいったいどんな状況で、あたしはなにをどう思えばいいの?
去り際の龍之介の口元に意地の悪い笑みが浮かんでいた気がしたのは気のせいだろうか。
意味もなく泣きたくなってきてぎゅっと目を閉じた。




