涙の理由
人込みをすり抜けるように足早に歩く。
花火なんて、もうどうでもよかった。断続的に上がっては視界を照らしてくれるけど、そんなことに意識を割ける余裕がない。
頭の中はさっき目にした光景を理解するので精いっぱいだった。
キスしてた。
はっきりと見たわけではないけど、あれは絶対そうだ。
思い出すとなぜだろう、もやもやと胸に不快感を覚える。
ついさっきあたしにキスしようとしていたくせに、なにほかの人としちゃってるんですか。結局誰でもいいんだろうか。いいんだろうな。
じわり、とふいに視界がゆがむ。
ここで泣いたらだめだ。
動悸を抑えるようにゆっくりと深呼吸を繰り返し、大丈夫と言い聞かせる。大丈夫。別にあたしが泣くようなことじゃない。そもそも龍之介はただの同僚なんだから、誰とキスしようが付き合おうがあたしには関係ない。
関係ないのだ。だから、あたしが傷つく必要は、ない。
ドン、とひときわ大きく響く花火の音。それを合図に続けざまに数十発上がり、夜空を染め上げた。すべてが終わった後の余韻を味わうような間をおいて、そこかしこから拍手がわきあがる。
そうして帰り支度を始める人たちを縁石に腰かけたままぼんやりと眺めていると、また瞼が熱くなってくる。
なんでだろう。
本当はもう少し楽しむはずだったのに今すごく惨めな気分なのは。
通行の邪魔にならないよう膝を抱くような格好で携帯を見ているふりをしながら息を吸う。しばらくそのまま人の目をやりすごし、混雑していた道路の人の気配がまばらになった頃合いを見計らって顔を上げた。
人のいなくなった道路はがらんとしていて、ポツンポツンと街灯がさみしそうに並んでいる。そのほかは店じまいをしている露店の明かりだけで、さっきまでの人だかりはどこにいったんだろうと不思議になる。
帰らなきゃ、と思うけどどうしても帰る気になれなくて縁石に座ったままぼんやりとしていると、花火に照らされて見た光景が浮かんできて、ひくりと喉が震えた。
だめだ。
歯を食いしばってこらえようとしていたのに、瞬きの拍子に転がり落ちるともう止められなかった。次から次に湧いて出る涙を誰にも見られたくなくてうつむいて泣いた。
ふと、人の気配が近くにある気がして顔を上げると龍之介が立っていた。不機嫌そうな様子にあたしが顔を逸らすと、さらに不機嫌そうに息を吐いた。
「なかなか戻ってこないと思ったら。こんなところで何をしているんですか」
何をしているのか。
それはあたしの台詞だ。何事もなかったかの様な顔をして、あたしの前に立っているこの男。
人がいない間に何をしていたのか聞いてみようか。そう思って口を開いたとたんに涙がこぼれたせいで聞けなかった。
うつむいて鼻をすするあたしの様子が気になったのか、龍之介は膝をつくとこちらを覗き込んでくる。
「……泣いているんですか?」
なぜ、と言外に聞いてくる龍之介から逃げるようにうつむく。
「なんでもありません」
「なんでもないようには見えませんけど」
向けられる視線に圧力を感じて膝の上で拳を握る。それから鼻をすすって、
「サンダルで、靴ずれをおこして、い、痛くて」
「靴ずれ……?」
つぶやく龍之介の視線から逃げるように足をワンピースの裾で隠す。
「歩けますか?」
至極冷静な口調で龍之介が言うので、思わず顔を上げてしまった。
「えっと……」
「歩けますか?」
もう一度、まっすぐあたしを見てそう聞いてくる。
もしかして、心配してくれているのだろうか。靴ずれなんて見え見えの言い訳を信じているとか?
黙り込んでその顔を見つめていると、
「歩けないようだったら、そこの通りまで背負っていきますよ」
通りまで出たらタクシーで帰りましょうという。
「大丈夫です。歩けます」
タクシーを使うのは別にかまわないけれど、おんぶされるのはごめんだ。
「でも、泣くほど痛いんでしょう?」
からかわれているような気がするのは気のせいだろうか。気のせいじゃないかもしれない。
「大丈夫です」
繰り返すと立ち上がる。そうしてしゃがんだままの龍之介を見下ろした。
涙はすっかり引いていた。久々に泣いたせいで少し頭痛がするけれど、もう大丈夫だ。
少し間をおいて立ち上がった龍之介はまじまじとあたしの顔を見て、
「それで、なんで泣いていたんですか?」
「だから靴ずれをおこしたんです」
「それだけですか?」
龍之介が目を細めてこちらを見る。
嘘を見透かされているような視線に居心地の悪さを感じてつい目を逸らしてしまった。
なんで泣いたのか、正直なところよくわからない。別に泣くほどのことではなかった気がするけど、なんでだろう。
ただ一つわかっているのは、
「……鈴木さんなんて嫌いです」




