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浴衣と花火と腹の虫

 ――浴衣姿を楽しみにしていますよ。

 極上の笑顔は、そのまま悪魔のほほ笑みに見えた。


 その笑顔の主は、今、あたしの目の前で冷めた目をしてこちらを眺めている。

「何か?」

 文句でもあるかと言外に告げてやると、龍之介は少しも表情を変えることなく、

「浴衣ではないんですね」

 ワンピース姿のあたしを見下ろしてひとり言のように低くつぶやいた。

 誰が浴衣なんぞ着ますか。

 いや、始めは着ようかと思ったのだ。まったく悩まなかったと言えば嘘になる。

 一応は浴衣を引っ張り出しはした。まだ学生だったころ、暇にあかせて縫った浴衣である。緑の地に黄色のケシの花と赤蜻蛉の染め抜かれた柄が気に入って、親に頼みこんで買ってもらった反物を二年越しで縫いあげたのだ。今でも気に入っているその浴衣を年に何度も着る機会がないから本当は着たかったんだけど、なんとなく、着ていかないほうがいい気がしてやめた。

「実家に取りに行く時間がなかったんです」

「そうですか」

 信じているのか微妙な答えである。

「残念ですね」

 という一言がなんとなく刺さった。

 本心から言っているのかしら。

 いやいや、そんなわけない。

「何か?」

 龍之介が眼鏡の奥の瞳を意地悪そうに細めるのを見て、なんとなく照れくさくなって視線を逸らした。

「いえ、別に。……伊達眼鏡がよくお似合いですね」

 黒縁の大きすぎない眼鏡は最近流行りのデザインで、いかにも胡散臭そうな感じがこの男に似合っている。

「それはどうもありがとうございます。伊達ではないですけど」

 そろそろ行きませんか、と妙に親切に言うと龍之介は歩き出した。

 斜め後ろをついて歩きながらその横顔を盗み見る。

 仕事では眼鏡姿を見たことなかったから伊達だと思ったけど、じゃあ普段はコンタクトなのかしら。目薬も差せないあたしにとってはコンタクトを入れるなんて考えただけで恐ろしい。

 そのまま会話は立ち消えになり、無言になってしまった。



 花火大会の会場は毎年のことながらすごい人の数で、歩行者天国になった道路はただ歩くことで精いっぱい。歩道にはたこ焼きや焼きそばなどの露店が並び、打ち上げが始まるまでに空腹を満たしておこうというのか、行列ができている。その状況のなか、龍之介の背を追って歩くのはなかなか難儀だった。

 この辺でどうでしょうと龍之介が立ち止まって振り返ったときには、歩き疲れてへとへとになっていた。おまけに履き慣れないサンダルのせいで足が痛いし。

 人の波から少し外れたその場所は花火が打ち上げられる川沿いではあるもののちょっとした公園になっているらしく小さなベンチとブランコ、それに柳が数本、川に向かって植えられており視界があまり良くない。きっとそのせいで人がまばらなんだろうけど、こんなところでちゃんと花火が見えるんだろうか。

「そろそろ始まりますね」

 時計を見て龍之介が言う。

 間をおかずにヒューッという音が聞こえ、次いで破裂音とともに漆黒の空に炎の花が咲く。

 こんな場所で花火見物なんてと思っていたけれど、打ち上げ場所からそう離れていないからなのか、花火は柳の木よりも高い場所に見えた。ここってもしかして花火見物の穴場なのかもしれない。

 全身を打ちつけるような音と赤青黄、とりどりの色が次々と夜空を染める様子にしばらくは言葉も忘れて見入っていた。

 ふいに肩を叩かれて龍之介の方を見ると何か言っているようだったけど、花火の音にかき消されて全く聞こえない。首をかしげると顔を近づけてきて、

「花火、お好きなんですか?」

 と聞いてくる。

「好きですよ」

 むしろ嫌いな人間に会ったことがないんですけど。花火嫌いな人っているのかしら。いや、きめつけはよくない。案外いるのかもしれない。

「特に好きなのは柳で、あ、これです」

 ドン、という音とともに咲いた星が尾を引いて広がりそのまま落ちていく、いかにも日本の花火という感じがして好きなのだ。

 そうしてまた花火に視線を戻そうとして、妙に龍之介の顔が近いことに気付く。というか、なんか近づいてません?

「……なんですか、この手?」

 それはこっちの台詞だ。

 吐息がかかるほどの距離で龍之介が半眼になっている。

「だ、だって、何するつもりですか」

 かろうじて手でさえぎっているけれども、そうしなかったら、きっ、キスとかできちゃう距離ですよ。

「何するって、キスしようと思ったんですが」

「きッ……!」

 一気に顔に血が上るのがわかった。夜でよかった。たぶん今、あたしの顔はリンゴより赤い。

「なっ、なんでそんなことっ。何考えてるんですか!」

「同じことを考えていると思ったんですけどね、まだ早かったですか」

 これ以上距離を縮めることも開けることもせず、龍之介はひとり言のように言う。そうして遮っているあたしの手を掴むと掌に唇を押しつける。柔らかく温かい感触に体中の血液が逆流しそうだ。

 あたしが黙っているのをいいことに龍之介の唇は掌から指先に移動するとその一本をくわえて軽く歯を立てる。

 そのとたん、背中に電気が走った気がした。動悸が激しくなって息苦しい。離してほしいのになんと言ったらいいか分からなくてただなすがままにされていたとき、救いの神が降りてきた。

 ぐう、と響く重低音。

 その音に龍之介は動きを止めると訝しげな視線を向けてくる。

 恥ずかしい。けどでかした、あたしの腹の虫。

「すみません、お腹すいてきたので何か買ってきます」

 龍之介の返事も聞かずに駈け出した。

 露店の並ぶ通りまで出てちょっと深呼吸をする。まだ動悸が打っている。

 び、びっくりした。あんな状況、生まれて初めてでどうしていいかわからない。

 とりあえず落ち着こう。それで何か食べて今後の対策を考えよう。

 来た道を戻るように歩きながら自分に言い聞かせた。

 断続的に明るく光る夜空を見て、そう言えばまだ花火の最中だったっけと思い至る。

 ときおり上がる歓声をよそに、露店をぶらぶら見て回る。結局買ったのはたこ焼きとあんず飴。花火を見ていた店のおばさんにお願いしてわざわざ焼いてもらった熱々のたこ焼きを手に、重い足取りで公園に戻る。

 本当は行きたくない。というか顔を合わせる勇気がございません。でもなぜか足が向くのよ。

 だってこのまま一人で帰ったら、明日からの仕事で余計顔合わせづらいじゃない。別に気にしてないって態度をとってればきっと何とかなると思うのよね。

 そう結論づけて視線を上げる。

 ちょうど花火が上がった瞬間で、照らされた公園に龍之介がいた。

 赤い浴衣の女の人と一緒に。

 一緒というか、あれはたぶん、キス、してた。


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