最高の落とし穴
店を出るとまとわりつくような熱気が身を包む。自覚していた以上に酔っていたらしい。ふらふらと歩道を数歩進んだところでいきなり腕を掴まれた。反射的にそっちを向いて見知った顔を見つけると自分の記憶が飛んでるのかと一瞬思った。
でも視界に飛び込んでくるのは目に痛いネオンの光で、どう考えても事務所の近くではない。
どう言おうかとちょっと迷って出た言葉は、
「書類、見つかりました?」
と首を傾げた。
いや別に愛想を振りまいているつもりじゃなく、単に酔っ払ったせいで頭が重たいからなんだけど相手はどう思ったかちょっと眉を上げた、ように見えた。
そのまま何も言わずに腕を引かれて歩き出す。
千鳥足でついていくあたしの頭の中はハテナマークが飛び交っていた。今の状況は一体なんだろう。あたしはどこに連れて行かれるんだろうか。
「あの、書類は」
「嘘です」
龍之介は足を止めてこちらを振り返った。
「書類の話は嘘です。そもそも明日は日曜ですよ」
酔いの回った頭でその言葉を理解するのにたっぷり五秒はかかった。
理解したら、なんでそんな嘘をついたのかとかそもそもなんで龍之介がここにいるんだろうとか疑問がわいてきてぐるぐると頭の中を回りだす。そうするうちにだんだんと世界が回っているような感覚を覚えて龍之介の腕を掴んだ。揺れる地面と連動するように胃の内容物が撹拌されて今にも逆流しそうで。
「……気持ち悪い」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
朝起きたらホテルの一室で知らない男が隣に寝ていたとか、そういう始まり方の物語ってけっこうよく見かける。現実にはあり得ないシチュエーションだから重宝されるんだろうか。
だからこれもきっと夢だ。
目が覚めたらいつものベッドで、化粧も落とさず寝たからだるい身体を引きずってシャワーを浴びに行くんだ。だから起きよう。
三つ数えてゆっくりと瞼を上げる。カーテン越しの日差しが目に突き刺さって痛みを覚えたけど、それにこらえて開けた瞳に映るのはどう考えても龍之介の顔に見える。
おかしい。
あたしは夢を見ているんじゃないの? それとも起きたっていう今の状況がまだ夢の中なのか。
重たい瞼を必死で持ち上げて考えていたら、龍之介と目が合った。細めた瞳にうすら寒いものを感じて反射的に身を引いた拍子にベッドから落ち、したたかに頭をぶつけた。
痛い、なんてもんじゃない。目の前に星が散って、二日酔いの頭がぐわんぐわん揺れた。
しかも人が悶絶している様を見て噴き出す男はいるし。
最悪だ。
「そんなにおかしいですか」
睨みつけてやると、龍之介は笑いをおさめると肘枕をしてあたしを見下ろす。
「いい眺めですね」
その言葉につられるように視線を下したとたんに顔に血が上るのがわかった。
気が付いたらはぎ取ったベッドのシーツを頭から被っていた。シーツの下はほぼ素っ裸。かろうじて下着を着けている状態で、なんでこんな格好をしているのか必死で記憶をたどる。この状況はもしかしなくてもアレですか。使い古された恋愛小説の再現ですか。
いや、まだそうと決まったわけじゃない。気は進まないけど一応確認をしないと。
心の中で気合いを入れてシーツから顔を出した先で龍之介の視線とぶつかって決心が鈍った
いやいや、ここでくじけてなるものか。
「昨夜のこと、ですけど」
なるべく目を合わせないように視線を下に向ける。というか、なんで上半身裸で寝てるんだ、この男は。目のやり場に困るんだけど。
「覚えていませんか?」
「ええまあ」
覚えてないから聞いているんだと言いたい。だけどここは我慢だ。
じっと考え込んでいるような沈黙が長い。重たげなため息が恐怖をあおった。
「あのあと、アナタは気分が悪くて吐きそうだと言ったとたんに吐いて、そのまま気を失ったんです。そのまま放置するわけにもいかず、そこまでタクシーで帰ってきたんですが、アナタは起きないので仕方なくうちに連れてきたんです」
「あの、じゃああたしの服は?」
「失礼だとは思いましたが、汚れていたので洗いました」
もう乾いていると思うので取ってきます、と浴室に向かう龍之介の背を眺めてちょっとほっとした。
どうやら最悪の事態は免れたらしい。よかった、相手が常識人で。
ほんのり温もりが残る服を着るとお礼を言ってマンションを出た。朝食でもと言われたけどそこまで迷惑をかけられないし、食欲もない。それよりも二日酔いの身体を休めたかった。
アパートに帰ってシャワーを浴び、何気なく鏡を見る。
「なに、これ」
鎖骨の下あたりに一か所と胸元に一か所、赤い点が浮いていた。虫さされかと思って触ってみるけど、特にはれている気配はない。鏡に近づいてよく観察してみると、内出血しているようにも見えた。
これってアレよね。たぶん、いやおそらく、あたしの認識が正しければだけどいわゆるキスマークってやつだ。




