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皆が寝静まった屋敷は静かで、弱々しい暖色の灯りがうっすらと足元を照らしている。オレンジは意味もなく呼吸を浅くして、忍足で歩き出した。廊下を渡り、東の階段から上の階へと登っていく。灯りは各階の廊下に灯っているだけで、階段は足元も見えないくらいに暗い。いつも何も考えずに上り降りしている階段を、オレンジは転んでしまわないようにと一段ずつ、一段ずつゆっくりと踏みしめる。絨毯を踏みしめるたびに、つま先が数ミリセンチだけ沈み込むような感覚がする。明るい時間帯に見ると、明るく優雅な印象を与える絨毯の色彩も、真っ暗な屋敷の中ではおどろおどろしい印象を与えていた。
オリーブの部屋がある三階にたどり着いた時、オレンジは何かの違和感を覚えて天井を見上げた。階段は三階で終わっていて、天井に刻み込まれた幾何学模様が闇に透けてうっすらと見える。薄金色の手すりを握りしめながら、オレンジは首を傾げた。自分の記憶と感覚が、目の前の意識と少しだけずれている。この屋敷は三階建てだったか、それとも四階建てだったか、どっちだったっけ? しかし、オレンジは最初の目的を思い出し、それ以上深く考えることはしなかった。屋敷が元々は四階で、今は三階になっているからといって、それが自分の人生にとって何らかの重大な影響を及ぼすわけではない。オレンジは天井や壁、絨毯を暗闇に慣れた目で観察しながら廊下を歩いていく。そして、目的の部屋の前にたどり着くと、コンコンと扉を叩き、中にいる人物に合図をする。
「オリーブ。眠れないあんたのために可愛い妹が来てあげたわよ」
しばらくすると、部屋の中からペタペタという足音がしてきて、それから手すりをそっと握りしめる音が聞こえてくる。オリーブが中から扉を開け、その隙間から骸骨姿のシーグリーンがするりと廊下へと出る。シーグリーンは骨と骨をカチカチと鳴らしながら、一瞬だけ立ち止まり、眼窩でオレンジを見上げた。そして小さく頭を左右に揺らし、肉体に包まれていた時と同じような軽やかな足取りでその場から立ち去っていった。シーグリーンと入れ替わりに、オレンジがオリーブの部屋に入っていく。オリーブはレースが装飾されたオフホワイトのネグリジェを着ていて、薄い桃色をした肩がむき出しになっている。そして、暗い部屋の中でもわかるくらいに、オリーブの目は赤く腫れていた。
オレンジは何も言わずに部屋を突っ切って、天盤つきベッドの縁に腰掛ける。窓からは影が差し込み、部屋の隅は目を凝らさないと見えないくらいに暗い。オリーブがオレンジの横に座る。二人分の重みでベッドが軋み、天板から垂れるレースのカーテンが少しだけ揺れ、すぐに止まった。
「ねえ、オリーブ。この屋敷って何階建てだったっけ?」
オレンジが少しだけオリーブの方へと身体を動かしながら尋ねる。
「さあ、そんなこと考えたこともないわ。真上に天井がある階が最上階なんじゃないの?」
「この三階の真上が天井よ」
「だったら三階建てなのよ」
「本当にそうだった? この前まで四階があったような気がするんだけど」
「別に法律で決まってるわけじゃないんだから、昨日が四階建てで、今日は三階建てになっててもいいんじゃない」
オリーブは自分の頬にそっと手を置き、憂げな表情で言葉を続ける。
「そんなことよりも、オレンジ、私は寂しくて寂しくて仕方がないの。夜が来るたびにこのまま世界が終わってしまうんじゃないかという恐怖で泣いてしまうし、朝が来るたびにまだこの苦しい現実が続くのかという絶望で結局泣いてしまう。シエナが持ってきてくれた縁談だって、心のどこかで期待をしてるけど、きっとまた駄目なのかも知れないってどうしても考えちゃうの」
「申し訳ないけど、私にはオリーブの気持ちはわからないわ。別に誰かから必要とされなくても生きていけるでしょ?」
「オレンジはまだ子供だからそう言えるのよ。大人の女性になればきっとわかるわ」
「大人の女性になるって例えばどういうことよ」
「脚や腕とか色んなところから毛が生えてくるってことよ」
「そんなところから毛が生えてくるわけじゃないでしょ。獣じゃないんだから」
オレンジはそのまま後ろに倒れ込む。身体がベッドに沈み込む感触を確かめるように、オレンジは目をつぶった。耳を澄ませると、またオリーブがさめざめと泣く声が聞こえてくる。さっき年下のティールからまた愛してるだなんて言われたわ。オレンジが独り言のようにそう呟くと、オリーブは「きっとこの世界で私だけが誰からも愛されないのね」と答え、声を押し殺して泣き続ける。
「愛なんてないわ」
「愛がないことと、愛がないことを受け入れることは違うのよ、オレンジ」
窓から差し込んでいた影が意味もなく上下に伸縮する。じっと部屋の天井を見ていると、数センチ単位でゆっくりと下がってきているかのように見える。耳を澄ませると、眠ることのできないシーグリーンが廊下を往復する足音が聞こえてくるような気がした。眠れないから何か詩を歌ってとオレンジがオリーブにねだると、オリーブは頬についた涙を手で拭い、詩を詠みあげる。
石炭袋に難聴を詰め込む
凍りついた中指のアベニュー
眠れない夜はアイシャドウですか?
きっと誰もいない きっと誰もいない
オレンジは右手でオリーブのネグリジェの裾を掴みながら、じっと詩に耳を傾ける。そしてぽつりと相変わらずひどい詩ねと呟いた。
「そんなの……自分が一番よく知ってるわ!!」
おやすみ、オリーブ。オレンジがそう言って再び目を閉じる。おやすみ、オレンジ。ベッドが軋んで、オリーブが同じようにベッドに倒れ込むのがオレンジにはわかった。左目の時計の音はもう気にならず、沈むように夢の中へと入っていった。ただ、オレンジの右手はずっとオリーブのネグリジェの裾を掴んでいた。