20
窓ガラスに小石がぶつけられる音がした時、あまりにも久し振りなことだったため、オレンジはそれが何の合図であるのかが理解できなかった。
それからようやくそれがティールからの合図だということに気がつき、オレンジはベッドから抜け出し、窓を開ける。下にはティールが立っていて、オレンジの部屋をじっと見つめていた。そして、オレンジが窓を開け、窓から身を乗り出すと、ティールは少しだけ驚いた表情を浮かべていた。
「何か用?」
「用がなくちゃ来ちゃ駄目?」
まだまだ幼かった頃とまったく同じやりとりを二人は無意識のうちに繰り返す。オレンジは少し迷った後で、上がっておいでとティールに告げた。ティールが心配そうな表情を浮かべると、嫌なら無理しなくてもいいけど? とオレンジがティールを煽る。そこでようやく決心がついたのか、ティールは幼い頃の記憶を頼りに納屋から梯子を持ってきて、それを使ってオレンジの部屋へと足音を立てないように慎重に部屋へと上がってくる。
オレンジは窓から離れ、ベッドに腰掛けた状態でティールが登ってくるのを待った。部屋の電気はつけないままで、窓から差し込む月明かりでぼんやりと部屋の輪郭が見える程度。なんで上がっておいでなんて言葉を言ってしまったのか不思議に思いながらも、心はいつになく落ち着いていた。ようやくティールの姿が現れ、身体を器用に動かして部屋の中へ入ってくる。そわそわとあたりを見渡すティールにオレンジがこっちに来るように促し、ティールがオレンジの横に腰掛ける。オレンジは今年で18歳になり、幼い頃は二歳年下だったティールは、精悍な顔立ちをした二十代半ばの青年になっていた。月明かりの影が足元の絨毯の模様を幻想的に浮かび上がらせている。時折吹く夜風が、開けっ放しの窓から部屋の中に入り込んでくる。
「まさか本当に出てくれるとは思ってなかった」
「どうして?」
「オレンジは知らないかもしれないけど、こういう夜にずっと合図を送り続けてきたけど、昔と違って何年も反応してくれなかったから」
「嘘よ。だって、そんなの全然気がつかなかったもの。何年くらい前からまた合図を送るようになったの?」
「何年くらい前からなんてのはない。僕は昔からずっと変わらず合図を送ってたよ。オレンジがそれに気が付いてくれなくなったっていう意味なら、それはオリーブが死んでから」
「今ではそのオリーブも生き返って、毎日てんやわんやだけどね」
オレンジはティールの言葉を聞き、無意識のうちに右目にはめた眼帯に手で触れた。右目の時計を抉り取ってから、時計の音に悩まされることがなくなって、夜はすぐに眠れるようになっていた。だから、ティールの合図に気がつかなくなったんだろうとオレンジは一人で納得した。でも、どうして何年も反応がなくなったのに、合図を送り続けたわけ? オレンジが呆れたように尋ねると、ティールはこういう夜にはオレンジの声を聞きたくなるからと答える。
幼い頃に何度も聞いたはずのその言葉が、なぜかオレンジの胸の中で反響する。自分の知らないその感情を、少し前の自分であれば、きっと品のない悪態で誤魔化していただろう。しかし、今のオレンジは違った。オレンジは代わりに手を伸ばし、ティールのゴツゴツした手を握る。昔は自分よりもひとまわりも小さかったティールの手は、知らないうちにオレンジの手を包み込めるほどに大きくなっていた。耳を澄ませば、二人の吐息の音が聞こえてくる。力を込めてティールの手を握りしめると、ティールの手が緊張で少しだけ強張るのがわかった。
「こういう夜にはオレンジの声を聞きたくなるから」
ティールがもう一度オレンジに囁いた。聞こえてるわよとオレンジがぽつりと呟く。ティールは照れ臭そうに笑った。自分よりも年上なのに、そのあどけない笑顔はどこか昔を感じさせるようだった。
「愛してるよ、オレンジ」
「五年前だったら子供の冗談で済ませられるけど、大人になった今、そんな言葉を軽々しく言うもんじゃないわ」
「本当だってば」
「ねえ、ティール。私は確かに可愛い女の子だし、ついつい目が眩んでそんなことを言ってしまう気持ちはわかるわ。でもね、話してて楽しいとか、顔が好みとかそういう次元の話じゃないと思う。愛してるっていう言葉は、呪いみたいなものよ。そこには楽しいとか好きとか甘っちょろいことはなくて、重たい鎖でがんじがらめにされた二人がいるだけ。それを知っても、なお愛してるてるって言える?」
オレンジはじっとティールの目を見つめる。そして、夜風に揺れてカーテンが擦れ合う小さな音がした後で、ティールはゆっくりと口を開く。
「愛してるよ、オレンジ」
オレンジはティールの言葉を茶化すこともなく、はぐらかすこともなく、ただただ何も言わずにティールの目を見つめ続ける。オレンジは? ティールが囁くようにオレンジに問いかける。オレンジは無意識のうちに両手の指を絡ませながら、一瞬だけ顔を下に向けて答える。
「あなたのことは家族として愛してるわ」
ティールが小さく息を吸い込む。しかし、次の言葉を発しようとしたティールの口をそっとオレンジが人差し指で抑え、言葉を続けた。
「ごめん。言い方が悪かったわ。あなたのことは、家族としても愛してる」
オレンジはもう一度顔を上げてティールの顔をじっと見る。二人はそのまま見つめ合った。ティールが左手を動かし、オレンジの右手と触れ合う。オレンジはその手を跳ね除けることもせず、ただ指先でティールの温もりを感じた。そして、差し合わせたように二人は指を絡ませあい、顔を近づけていく。
二人のいる屋敷が、二人のいる世界が、二人のためにそっと息を潜めていた。顔が近づき、唇が触れ合う瞬間、ティールはもう一度愛してるという言葉を呟く。オレンジはそれに答えるように指先に力を込め、ティールの手を握り返すのだった。




