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ブラウンが目を開けると、そこにはひまわりの花の鮮やかな黄色と曇りひとつない青空が広がっていた。背中は柔らかい土に接していて、深く息を吸い込むとひまわりの甘い匂いが胸の中いっぱいに広がっていく。疼きのような僅かな頭痛と胸の奥に残る温もり。ブラウンは寝転がったまま空を見上げ続けた。長い眠りから覚めた後のような、まどろみような感覚だけが残されていた
「ブラウン? あんた、いつの間にそこにいたの?」
ブラウンが声のする方へと顔を向ける。ブラウンの横には姉のカナリアが同じようにひまわり畑に仰向けの状態で寝転がっていた。姉は突然現れたブラウンに不愉快そうに眉をひそめながらも、小さく息を吐くと再び顔を空の方へとむけ、どこまでも広がる青と黄色の景色へと視線を戻した。風が吹き、ひまわりの花が同じ方向へとなびく。手で触って確かめるまでもなく、ブラウンは自分も右頬が涙で泣いているのがわかった。だけど、ブラウンはそれが決して悲しみの涙ではないことだけは気がついていた。胸の奥に残ったほのかな温もりが、ブラウンにそう確信させていた。
「どこに行ってたか知らないけどさ、さっきまでこっちは大変だったのよ。私も途中までしか覚えてないけど、スプルース男爵が蜘蛛の化け物になって、屋敷の中を荒らしまくったの。今、オレンジとシエナがメイドたちと屋敷の片付けでてんてこまいよ。屋敷の中にいたら手伝わされちゃうから、抜け出してここに来たの」
「いつもこのひまわり畑にいるよね」
「不思議と落ち着くの。それにね、ここで待ってるといつかわかるような気がするの」
「何が?」
「私の本当の名前が」
『名前』という言葉にブラウンの胸がざわついた。まるで自分に何かの心当たりがあるような、そんな感覚。
「ママにつけてもらった名前とは別の、もう一つの名前。その名前を呼んでくれる誰かをずっと待ってるの。いつその人が現れるかはわかんないし、その人が誰かなのかもわからない。ただわかってるのは、それが私にとってはすごく大事なことで、そして、現れるとしたらきっと私が大好きなこのひまわり畑でってことだけ」
そこでカナリアは突然口をつぐみ、ブラウンの方をみた。なんでこんなことをあんたに話してるんだろうね。カナリアはそう言って、不思議そうな表情が浮かべた。わからないよとブラウンが答え、双子の二人はそのままお互いに見つめ合ったまま時間だけが流れていった。
風が吹く。ひまわりの花が揺れる。カナリアはゆっくりと胸の前に手を置き、再び空を見上げた。ブラウンもまた、姉と全く同じ格好をして空を見上げた。ブラウンの胸の中に残っていた温もりが少しずつ少しずつ強くなっていく。言葉にすることのできない、身体に残った記憶が、ブラウンの胸いっぱいに広がっていった。そして、頭上に咲いていたひまわりの花が風によって項垂れ、ブラウンを上から覗き込むような体勢になる。その瞬間、ブラウンはそのひまわりの花と、目があったような不思議な感覚に襲われた。懐かしさが胸いっぱいに広がっていき、ぐっと顔に力を込めなければ涙が出てきそうだった。
ブラウンは母親のシエナから聞いた話を思い出す。自分は、隣にいる双子の姉と、それからたくさんのひまわりの種と一緒に産まれてきたということを。
ブラウンは顔を隣へ向ける。隣にいた姉はじっと目を閉じ、ひまわりの葉や茎の間を縫って吹ぬける風を感じていた。ブラウンはその横顔に誰かの面影を重ねる。ここにいる自分と、横に寝転ぶ姉、それから二人を包み込むようなたくさんのひまわりの花。全ての光景が意味を持って結びついていく。ブラウンの目から、訳もわからず涙が出てくる。
この屋敷では屋敷ではありとあらゆることが起きる。強く望めば、ずっと会いたかった人とだってもう一度会える。誰かからか聞いたその言葉を思い出しながら、ブラウンは自分でも無意識のうちに、隣にいる彼女の名前を呼んだ。
「すみれ色」
その名前を読んだ瞬間。時が止まったかのように風が吹きやんだ。ひまわりの花は動きをとめ、遠くから聞こえてきた雑音全てが鳴り止んだ。静寂の中でゆっくりと彼女は目を開け、ブラウンの方へと顔を向けた。カナリアは驚くでもなく、嬉しがるでもなく、ただその翡翠色の目でじっとブラウンを見つめた。
バイオレット。ブラウンがもう一度その名前を呼ぶ。心臓の鼓動すら聞こえてきそうなほどに静かな時の中で、カナリアの右目から音を立てずに一雫の涙が流れる。頬を伝った涙が滴り、ひまわり畑へと吸い込まれて消えていく。ブラウンもまたカナリアと同じように泣いていた。もちろんなぜ泣いているのかなんてわからなかった。ただ、自分が口にした名前に反応して、自分の身体が泣いていた。
「泣くなんて、産まれた時以来よ」
カナリアが自分の頬を手で拭い、それからブラウンの頬も同じように拭った。それからカナリアは微笑んだ。もちろん思い出を無くしたブラウンが気がつくことはなかったけれど、その微笑みはどこか、あの少女の微笑みに似ていた。
「こんな珍しい日には、きっと死人が生き返るわ」




