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「どうして?」


 無惨に顔を切り刻まれたスプルース男爵と、そしてその横に立つ少女を交互に見つめた後、ブラウンはそう呟いた。本当であればすぐにでもスプルース男爵の頭部に駆け寄って、まだ呼吸をしているのか、助かる見込みがあるのかを確認すべきなのかもしれない。しかし、ブラウンの足は全く動かなかった。それは恐怖からでも、もう助からないだろうという諦めからでもなく、ただただどうしてという疑問が頭の中を一杯にしていたからだった。


 それから少しだけ遅れて、ブラウンの胸の中に悲しみが広がっていく。この屋敷の中という特殊な空間で、決して短くはない時間を共に過ごしてきた友達。少女はスプルース男爵の胴体がアルメラルラ家の人間に危害を加えようとしたと言っていたがどうして優しいスプルース男爵が殺されなくてはいけなかったのかをブラウンはどうしても理解することができなかった。


 ブラウンはゆっくりと歩き出し、それからスプルース男爵の頭部へと近づいていく。そして、ピクリとも動かないその頭にそっと指先が触れた時、触れた場所が砂のように細かく崩れ、赤い血溜まりの中へと落ちていく。そして、堰を切ったかのようにスプルース男爵の頭部は砂になって崩れ始め、1分もしないうちに、頭部があった場所にはちょっとした砂の山が残されるだけになった。ブラウンは何かに導かれるようにその砂の中に手を突っ込む。そして、指先に触れた何か小さくて硬いものをゆっくりと砂の中から取り出してみる。砂の中から取り出したそれは、一粒のひまわりの種だった。


「ひまわりに食べられてしまったから、そうなっちゃったの」


 いつの間にかブラウンの後ろに立っていた少女が悲しげな表情を浮かべて、そう呟いた。


「もう会えないの? お別れの言葉も言ってないのに」

「この屋敷ではありとあらゆることが起きるわ。だから、あなたが強く望めば、彼ともう一度会うことはできる。もちろんどのような形になるかは何とも言えないけれど」

「どのような形になるかはわからないってどういうこと?」

「言葉以上の意味はないの。大事なのはあなたが会いたいと思うこと。そうすればあなたはもう一度男爵に会えるかもしれない。だけど、それはあなたが想像しているような運命的な出会いじゃないかもしれないし、ひょっとしたらあなたが知っている男爵の姿とは違った姿であなたの前に現れるかもしれない」


 ブラウンは少女の言っている意味がよく理解できなかった。だけど、少女の語る言葉が真実であること、そして少女もまたブラウンと共に悲しみに暮れているということだけはわかる。少女とブラウンは何も言わずに見つめ合った。


「棺の中には何があったの?」

「お花と、それから文字盤があった」

「文字盤? 何が書いてあったの?」

「『過去の悲しみを受け入れ、赦すこと』」


 その言葉を来た瞬間、少女はブラウンから顔を逸らし、そんなの綺麗事よと吐き捨てる。


「そんな簡単に過去の悲しみを忘れられるわけがないし、傷ついた心はもう二度と以前と同じ形には戻らない。その悲しみをなかったことになんてできないし、結局それはそんなに悲しいことではなかったよねって後から過去を捻じ曲げることと一緒。そんなこと、私は絶対に許せない」

「何を……何を怒っているの?」


 ブラウンの言葉に少女が少しだけ言葉に詰まり、それから言葉を絞り出す。


「あなたはお母さんとか、家族のことは好き?」


 好きだよ。ブラウンがそう答えると、少女はつまらなそうに足元を見て、それから血溜まりの中へと足先をつけ、小さく表面を叩く。


「私は違うわ。お姉ちゃんのことは好きだったけど、私を怪物だと言って、狭い部屋に閉じ込めようとしたお父さんとお母さんのことはどうしても許せない。そんなことは絶対にしないだろうけど、今ここで二人が目の前に現れて、ごめんなさいと頭を下げたところで、過去に私が受けた仕打ちはなくなりはしない。私を愛してくれなかったという恨みを、私は忘れたりなんかはしない」

「誰かに愛して欲しかったの?」

「ええ、誰しもそうよ。私もあなたも、スプルース男爵だって」

「僕は君のことが好きだよ。スプルース男爵も、君のことも。それじゃ、駄目なの?」

「でも、結局もう帰っちゃうんでしょ? あなたの家族がいる場所に」


 ブラウンはぐっと言葉を飲み込んだ。少女がブラウンを見つめるその瞳に吸い込まれ、一瞬だけ帰らないよと返事をしそうになる。それでも、右手に握りしめたすみれの花の感覚が、ブラウンの気持ちを元々いた世界へと引き戻す。ブラウンは泣きそうになりながらも、もう帰らないといけないと答えた。


「うん。知ってた。認めたくなんてなかったけど」


 それからブラウンは少女の方を振り返って、こちらをじっと見下ろしているその綺麗な瞳を下から覗き込む。少女の姿がぼんやりとかすれていき、そして初めて、ブラウンは自分の目から涙が溢れ出していることに気がつく。男爵と同じように、悲しんでるの? ブラウンが恐る恐る尋ねると、少女はええとどこか諦めが混じった口調で答える。


「前に言った通り、ここを出たらすべてを忘れてしまう。だからあなたは私のことも、それからスプルース男爵のことも、この空間で過ごした日々のことも、全て。それはとても悲しいことだけど、仕方のないこと。だから受け入れるしかない」

「でも、また会えるんでしょ?」

「え?」

「さっき君が言ったじゃないか。僕が強く望めば、この屋敷は答えてくれるって。だから、ここを出て行っても、ここでのできことを忘れちゃっても、君とスプルース男爵に会いたいって思う。だから、また会えるよ、きっと」


 少女は少しだけ不思議そうな表情でブラウンを見つめた後で、馬鹿見たいとフッと小さなため息をつきながら笑った。


「あなたみたいな弟がいたら、きっと私も家族のことを好きになれるかもしれない」


 少女はそう言って、ブラウンの横にしゃがみ込み、それから彼の手のひらに乗っていたひまわりの種を手で拾い上げる。少女がひまわりの種を持った手を握りしめ、それからもう一度開く。スプルース男爵だった一つのひまわりの種は数個に増えていて、少女が手を握り、開くたびに、さらにその種の数が増えていった。


「一つだけお願いして良い?」


 じっと少女の手のひらで増えていくひまわりの種を見つめていたブラウンに、少女が優しく語りかける。ブラウンはゆっくりと顔をあげ、少女の顔を見る。心地よい音楽とともに、眠りに落ちていく時のようなそんな感覚を覚えながら、ブラウンは少女の綺麗な瞳を覗き込む。


「もしあなたが私に会いたいと強く願って、それが叶ったなら……私の名前を呼んでほしいの」

「名前?」

「ええ、きっともう見つけてるはず。ただ今は思い出せないだけ。あなたが私を見つけてくれた時には、その名前を思い出すはず」


 どういうこと? ブラウンはそう尋ねようとしたが、その声が口から発せられることはなかった。ブラウンがいた部屋が、床が、そして目の前の少女が、まるで靄に包まれていくかのように朧げになっていく。曖昧になっていく意識の中で、再び少女の声が聞こえてくる。ブラウンは返事をしようとしたけれど、喉は彼の意志に反して全く動かない。身体の平衡感覚が失われ、上下左右がひっくり返り、頭の中では記憶と感情が渦のように入り混じって混沌を作っていた。


 私の名前を呼んでね。


 最後の消えそうな少女の声が耳に届くと同時に、ブラウンはゆっくりと意識の底へと潜り込んでいくのだった。

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