16
死。オレンジの頭にその言葉が浮かぶ。せめてこの子だけはと、オレンジはカナリアを抱きしめる力をぐっと強くした。しかし、その時。オレンジの耳に甲高い鳴き声が聞こえてくる。
「キェェェェエ!!」
オレンジが顔を上げる。そして、それと同じタイミングで、オレンジにまさに飛びかかってきた大蜘蛛に対して、横から勢いよく飛び出してきたダチョウが体当たりを食らわした。空中で不意をつかれた大蜘蛛が吹き飛ばされ、壁に激突する。その衝撃で壁にかけられた剥製が外れ、そのまま大蜘蛛の上へと落下する。
「シエナ!」
オレンジがダチョウに向かって叫んだ。妹と娘の危機に再びダチョウの姿になったシエナは軽やかに床へと着地し、そのまま大蜘蛛への追撃を試みる。両翼を大きく広げながら、鋭い爪が剥き出しになった脚で起きあがろうとしていた大蜘蛛に強烈な蹴りを喰らわせた後、再び甲高い鳴き声をあげながらさらに二発、三発と連続して蹴りを入れる。しかし、大蜘蛛は体勢を崩しながらも、再び起き上がる。そして、その目は自分を攻撃してくるダチョウではなく、オレンジの胸に抱き抱えられたカナリアをへと向けられていた。
シエナが時間を稼いでいるうちに逃げなくちゃいけない。大蜘蛛の狙いを改めて理解したオレンジは、ゆっくりとすり足で後退していく。しかし、大蜘蛛は、八本足にぐっと力を込め、逃げようとしている獲物へと向かってくる。ダチョウが再び飛び蹴りで大蜘蛛の体勢を崩すと同時に、オレンジは再び走り出した。どこに逃げたらいいのかなんてわからない。それでも、目の前の蜘蛛がカナリアを狙っている以上、奴から遠ざからなくちゃいけないということだけは理解していた。
長い通路を渡り、外へとつながる扉を開く。一瞬だけ後ろを振り返ると、オレンジを追いかける大蜘蛛に対し、ダチョウが両翼を広げながら必死に妨害しているのが見えた。しかし、次の瞬間。大蜘蛛は素早い反射神経で飛びかかってくるダチョウを優雅に躱した。的を外したダチョウはバランスを崩し、身体の側面から硬い床へと鈍い音を立てて転んだ。ダチョウはすぐさま起きあがろうとするが、フローリングの床が滑って、二足ではうまく起き上がることができない。邪魔者がいなくなった大蜘蛛は八つの目でオレンジに狙いを定め、全速力で追いかけてくる。
オレンジは外へとつながる分厚い扉を閉め、そのままひまわり畑のある中庭へと駆け出した。そこを抜けたら隣の屋敷と隣接する林がある。そして、その林を抜けたら、ティールが住む隣の屋敷だ。そこまで行けばきっと、助けが来るまで身を隠すことができる。
オレンジは走りながら後ろを振り返る。先ほど閉めた分厚い扉は体当たりではきっと打ち抜くことができないはず。しかし、そんなオレンジの淡い期待を打ち砕くかのように、扉の真横に設置された窓ガラスが内側から勢いよく破られ、破片が激しい音を立てて空を舞った。割られた窓の隙間から、大蜘蛛器用に身体をくねらせ、外へ這い出してくる。這い出している最中も、大蜘蛛の八つの目はオレンジたちへと向けられていた。
オレンジは悲鳴を上げ、それから再び走り出す。しかし、ずっと走りっぱなしだった彼女の脚が、少しずつ重くなっていく。前庭を抜け、敷石が敷き詰められた小道を抜け、ひまわり畑へと出る。しかし、大蜘蛛はすぐそこまで迫ってきていた。とうとう体力の限界がやってきたオレンジの足が止まる。風が吹き、ひまわりが一斉に同じ方向へと揺れた。
オレンジは乱れた呼吸のままゆっくりとその場で振り返る。目の前にはすでに大蜘蛛がいた。赤い目でじっとオレンジに狙いを定め、いつでも襲い掛かれるように八本の脚にはぐっと力が込められていた。身体全体から発せられる殺気にあてられ、オレンジの呼吸がさらに早くなっていく。カナリアはまだ目を覚さない。オレンジはカナリアを強く抱きしめ、ゆっくりと目を閉じる。大蜘蛛が身体をぐっと動かす音が聞こえる。オレンジが覚悟を決めた、その時だった。
オレンジの真後ろから、耳をつんざく発砲音が響き渡る。予期しない音にびくりと身体を震わせ、目を開ける。目の前には頭の真ん中から火薬の煙を立ち上らせている大蜘蛛の姿。オレンジが音のする方向へと振り返ると、そこには猟銃を大蜘蛛へと向けたティールがいた。
ティールは手際よく銃弾を詰め替え、さらにもう一発大蜘蛛へと弾丸を打ち込んだ。大蜘蛛が不気味な呻き声をあげる。八本の腕から力が抜けていき、大きな胴体部分が音を立てて地面に落ちる。後ろからティールがオレンジに近づき、そっと肩を抱き寄せた。オレンジの全身から力が抜けていき、地面にへたり込んだ。
撃たれた大蜘蛛は苦しみでもがき苦しんでいた。苦しみから逃れようと身体を左右へ動かし、そのままバランスを崩してひまわり畑の中へと倒れ込む。ひまわりを押しつぶすように地面へ転がった大蜘蛛は、少しずつ身体が小さくなっていき、八本の脚が短くなっていく。そして、次第に大蜘蛛の姿からスプルース男爵の身体へと戻っていく。しかし、身体の傷はそのままになっており、格子状に切り刻まれた傷と、ティールによって打ち込まれた銃痕からは痛々しい血が流れ出ていた。
「どうしても……もう一度会いたかったのです。どんな手を使ってでも、誰かを傷つけることになろうが構わない。会って……ずっと言えなかった私の気持ちを伝えたかった」
掠れるようなスプルース男爵の声。オレンジはカナリアを抱きしめたまま立ち上がり、ティールと共に恐る恐るスプルース男爵へと近づいていく。誰に? オレンジが問いかけ、スプルース男爵は事故で死んだ従姉妹だと答える。愛していたんです。スプルース男爵の声は、風の音にかき消されてしまうほどに小さく、弱々しかった。
「馬鹿な人」
それはオレンジでも、ティールの声でもなかった。オレンジが胸に抱き締めていたカナリアへと目を向けると、カナリアは薄らと瞳を開け、目の前に横たわるスプルース男爵を悲しそうな目で見下ろしていた。馬鹿な人。カナリアはもう一度吐き捨てるように呟く。それでも、カナリアの声の奥には、彼に対する底知れぬ哀れみがこもっているような気がした。
「この屋敷ではあらゆることが起きるし、あなたがの想いが強ければ、あなたの望みを叶えてくれる。でも、あなたは過去に囚われ、そして、今この瞬間まで自分の気持ちにさえ目を背けていた。だから、あなたが自分の願いがすぐそばにあることに気がつかなかった」
カナリアの淡々とした語りかけにスプルース男爵がわずかに身体を起こそうとする。しかし、すでに死が近づいていた今のスプルース男爵の身体ではそうすることすらできなかった。男爵の身体を、周りに生えているひまわりの花たちが覆っていく。男爵の身体の下敷きになった花がゆっくりと男爵の身体を持ち上げていき、手、足、身体へとツタと葉がまとわりつくように絡まっていった。ひまわりと触れ合っている男爵の身体が土となって分解され、ボロボロとこぼれ落ちていく。ひまわりは奪い合うように男爵の身体に巻きついていき、男爵の身体の原型がなくなっていく。
男爵は悲鳴を上げることもなく、それを受け入れていた。ふとオレンジが、自分の足元へと視線を落とす。オレンジの影はゆっくりと陽の光に逆らって伸びていき、土へ還っていく男爵へと近づいていった。影は崩れ落ちていく男爵の身体に落ち、それからすでに失われた頭部へ向かって手を伸ばしていく。
「馬鹿な人」
オレンジの胸の中でもう一度カナリアが呟く。そして、ひまわりの花に巻きつかれた男爵の体は静かな音を立てて崩れ落ち、ひまわり畑の中へと溶けるように消えていった。




