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オレンジはその場でしゃがみ込み、絨毯についた大量の血痕を確認する。血は新しく、部屋の照明を反射して、艶かしい赤色を放っている。誰の血? その問いかけと同時に、オレンジの頭の中に最悪の事態が思い浮かんだ。それでもオレンジは自分を奮い立たせ、血が流れ出ている方向を辿っていく。血はいつもは閉められているはずの隣の部屋へ繋がる扉へと続いていた。オレンジはゆっくりと扉へと近づいていき、隣の部屋へと入る。
オレンジの目に飛び込んできたのは、床に仰向けに倒れ、身体中が格子状に切り刻まれたスプルース男爵の姿。オレンジは息をのみ、それからその奥で縮こまっていた姪のカナリアを見つける。オレンジは彼女の元へと駆け寄って、その小さな身体を抱きしめる。カナリア。オレンジが名前を呼ぶと、カナリアは焦点の定まらない目でオレンジを見つめ返す。
「私はそんな名前じゃない。間違った名前で呼ばないで」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 何があったの!?」
カナリアはオレンジから顔を逸らし、自分の目の前に倒れているスプルース男爵へと目を向ける。
「この屋敷で最も罪深いことは、この屋敷に住み人たちに危害を加えようとする悪い心を持つこと。それだけは、この屋敷が絶対に許さない。彼は私に危害を加えようとした。自分の願いに囚われ、大きな力の存在に気付かなかった」
カナリアの淡々として口調を聞いて、初めてオレンジは彼女の異常な雰囲気を悟った。まるで彼女に別の何かが憑依しているような、そんな不気味さ。それでも、彼女の言葉に出てきた、『彼は私に危害を加えようとした』という言葉にオレンジは引っかかる。彼というのはスプルース男爵のこと。そうだとすれば、彼がカナリアに危害を加えようとして、それに対する反撃としてカナリアがスプルース男爵をあのように残酷に切り刻んだということになる。この屋敷ではあらゆることが起きる。それでも、オレンジはその事実を信じられないまま、カナリアの身体を揺さぶった。オレンジは何度もカナリアの名前を呼ぶ。しかし、カナリアはゆっくりと顔をオレンジの方へと向けた後で、落ち着いた声で返事をする。
「彼は可哀想な人。この屋敷は想いに応えてくれるけれど、やり方や形は屋敷の気分次第。それでも膨らみ続けた想いに、押しつぶされて、我を忘れて自らを滅ぼしてしまうような行動を取ってしまう」
どういうこと? オレンジは問いかけたが、カナリアは何も言い返すことなく、そっと目を閉じた。オレンジはもう一度カナリアの名前を呼びかけ、彼女の体を揺さぶったが、反応はない。それでも、カナリアの小さな胸が小さく上下していることを確認し、少なくとも眠っているか、気絶しているかだけだという事実にオレンジは胸を撫で下ろした。
それからオレンジは目の前に横たわったスプルース男爵へと目を向ける。血は今現在も刻一刻と身体から溢れ出しており、彼がまだ生きているのかさえわからない。それでも、まだ助かるのであればすぐに医者を呼んであげないといけない。とにかく、シエナかメイドを呼ばないと。オレンジはそう思い立ち、姪を抱き抱えたまま立ち上がる。そして、小さな部屋から姉の遺体がある部屋を通って廊下へ出ようと小部屋の扉をくぐった。
オレンジの背後から、まるで錆びついたゼンマイを巻き上げるような音がしたのはまさにそのタイミングだった。
オレンジは足を止めて、ゆっくりと振り返る。聞き覚えのない不気味な音に対して、無意識のうちに手の先が震える。音がする方向はスプルース男爵の切り刻まれた遺体があった場所だった。先ほどまで一切動く気配のなかった男爵の身体は心臓の鼓動のように縦方向に規則的に揺れ、その度にあの音が聞こえてくる。揺れは少しずつ大きくなっていった。それと同時に傷跡を中心に、スプルース男爵の身体が黒く変色していき、大の字に伸びていた腕が逆方向へと折り曲がっていく。腕と脚の付け根から黒く細長い足が生えてきて、先には鉤爪が生えている。そして真っ黒に変色していった身体を覆うように、絨毯のような短い毛が生えてくる。
そして、足が生え終わったタイミングで男爵の体がゆっくりと持ち上がる。オレンジはカナリアを抱きしめたまま恐怖で身ごきが取れなくなっていた。オレンジの前で、男爵の体がゆっくりと回転し、頭がこちらを向く。赤い小さな目が合計八つ。そして、その下には縦方向に裂けた口と牙。それはまさに巨大な大蜘蛛だった。そして、その八つの目でじっと見つめていたのは、オレンジの胸に抱き抱えられた幼いカナリア。
オレンジが部屋の扉を勢いよく閉め、廊下へと向かって走り出すと同時に、蜘蛛になった男爵がオレンジたちに向かって襲いかかってくる。大蜘蛛がオレンジが閉めたドアに激突し、鈍く大きな音を立てた。しかし、体当たりによって扉はあっけなく突き破られ、大蜘蛛が逃げるオレンジを追いかけてくる。
オレンジは転げ落ちるように階段をおり、屋敷の廊下へと飛び出した。後ろから大蜘蛛が自分達を追いかけてきている音が聞こえる。オレンジはカナリアを落としてしまわないようにぎゅっと抱きしめ、廊下を全速力で走っていく。
扉が体当たりによって突き破られる音。そして、八本足で器用に動き回る不気味な音。大蜘蛛の足は早かった。一人でも逃げ切れるかわからないのに、幼いカナリアを抱えている状態では追いつかれるのは一瞬のような気がした。明らかに近づいてくる音。しかし、オレンジは後ろを振り返る余裕はなかった。幸いなことに屋敷の廊下は先ほど通った時よりも短くなっていて、すぐに屋敷中央の階段へとたどり着く。オレンジは片手でカナリアを抱きしめ、手すりをもう片方の手で握って階段へと急旋回した。オレンジとすれ違うように、大蜘蛛が急に曲がりきれずに廊下を直進し、壁へと派手にぶつかって音を立てる。
オレンジはその瞬間、階段の下から大蜘蛛の姿をもう一度目にしてしまった。八つの赤い目で自分達を見つめ、そして、不気味に開いた口に潜む底知れぬ闇を。オレンジの足が恐怖ですくむ。そして、その瞬間。オレンジの両足がもつれて、階段の段差を踏み外してしまう。オレンジは反射的にカナリアを身体全体で抱きしめ、そのまま階段を転げ落ちていく。そして、一階の踊り場まで転げ落ち、立ちあがろうとしたが、痛みで体が思うように動かない。そして、そんなオレンジに対して、大蜘蛛が一気に距離を詰めてくる。
数メートルまで近づいた大蜘蛛がオレンジに狙いをつける。牙を擦り付け、八本の足にぐっと力を込める。
そして、大蜘蛛はオレンジに向かって、その巨大な身体全身を使って飛びかかってきた。




