14
棺の中の闇は考えていたよりもずっとずっと深かった。
ブラウンは四足歩行で、闇の中を進んでいく。時折頭を上げると低い天井に頭がぶつかり、伸ばした手が、何か棒状の硬い何かに触れたりした。周囲に音はなく、先ほどまで聞こえてきていた、少女やスプルース男爵の言葉は聞こえてこない。狭くて何も見えない空間であったけれど、息苦しさや窮屈さは不思議と感じることはなく、地面に接している膝部分が擦れて痛いという感覚さえ感じなかった。
闇の中を進んでいると、まとまりのない思考が右から左へと流れていく。少女のこと、スプルース男爵のこと、そしてこのお屋敷のことが通り過ぎて行った後で、ずっと忘れたままだった自分の家族が思い浮かぶ。いつも一緒に遊んでいた姉や、母親のシエナ、そして叔母のオレンジ。彼女らのことを考えるだけで寂しさと懐かしさで胸の中が締め付けられ、それと同時にどうして今まで忘れてしまっていたんだろうと不思議な気持ちに襲われる。
帰らなくちゃいけない。ブラウンはこの屋敷に来てから初めて、そう強く感じた。そして、スプルース男爵がここは自分がいる場所ではないという言葉が今更になって、ブラウンの胸に響き始めた。それでも、その強い気持ちと同時に、一つの疑問が頭をよぎる。自分がいなくなってしまったら、あの少女、そしてスプルース男爵はどうなるのだろう。いや、スプルース男爵は頭と胴体が別々になってしまっているだけで、元々は自分と同じ世界にいた。では、少女は? 少女も同じなのかもしれないが、少女に帰る場所はあるのだろうか? 帰る場所があるとして、少女はそこに帰りたいと願っているのだろうか?
ブラウンの指先が壁にぶつかる。ブラウンが我に返って、そこで静止すると、闇に慣れた目でぼんやりと目の前に壁があるのと、自分の目先の位置にうっすらと光る文字が刻まれていた。ブラウンは顔を近づけ、その文字を読み上げる。ブラウンにもギリギリ読むことができる、単語と文法で、そこにはこう書かれていた。
『過去の悲しみを受け入れ、赦すこと』
ブラウンはそっと文字へと手を伸ばす。しかし、壁に触れようとした手は壁をすり抜けて、壁の向こうへと入り込んでいく。そして、そのまま手を伸ばすと、ブラウンの指先に何かが触れる。柔らかく、薄い何か。ブラウンは傷つけてしまわないようにそっと指と指の間で掴み、そっと引っ張り出す。暗闇の中では上手く見えなかったため、ブラウンは身体を少しだけ起こそうとしたが、その時、先ほどまでは起き上がることすらできないくらいに低かった天井がなくなっていることに気がつく。ブラウンは頭をぶつけても痛くないよう注意を払いつつ、ゆっくりと四つん這いの状態から立ち上がっていく。そして、両足で立ち上がったタイミングで周囲の暗闇がなくなり、自分が小さな部屋の中にいること、そして、自分の足元には、闇の代わりに柔らかいクッション生地が敷き詰められた棺の底があった。
狐につままれた心地を覚えながら、ブラウンは闇の中で手に取った何かを確認する。ブラウンの手に握られていたのは、一輪のすみれの花だった。見覚えのあるその花の色に、ブラウンは、家族に内緒で忍び込んだ、叔母オリーブの遺体が置かれた部屋を思い出す。そして、自分がまさに上に立っている棺と、周囲の部屋の内装がまさに自分が以前に忍び込んだ部屋と一緒の形と内装をしていることに気がつく。
ブラウンはすみれの花を手に握ったまま、ゆっくりと棺の外へと出る。そして、足裏の感触に違和感を覚え、下を見てみると、そこには鮮やかな赤色をした血の跡が広がっていた。
「頭の方はまだ優しい性格をしていたから、見逃してあげていたの」
ブラウンは突然聞こえてきた少女の声に顔をあげる。
「でもね、やっぱり頭と身体で一人の人格でしょ? だからね、胴体が悪さをしたら、頭の方だってその償いをしないといけない。そして、この屋敷で最も罪深いことは、この屋敷に住み人たちに危害を加えようとする悪い心を持つこと。それだけは、屋敷が絶対に許さない」
ブラウンは淡々と喋る少女の顔を見る。そして、それから床に広がった血の跡をゆっくりと辿っていく。そして、今なお流れ続ける広がり続ける血の源流となる位置にあったのは、顔を格子状に切り刻まれた、スプルース男爵の頭だった。




