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ブラウンが屋敷の中に入り込み、少女とスプルース男爵と出会ってから、元の世界における十年ほどの時間が経っていた。
ただし、これはあくまで今現在ブラウンがいる屋敷の中で流れている時間であり、実際にブラウンの身体が成長したり、精神が大人に近づいていくということはない。しかし、この世に生を受けてからまだ五年しか経っていないブラウンにとっては、たとえそれだけ長い時間は重たい意味を持っていた。そして、その間、少女の名前を探し続け、結局手がかり一つ得られなかったということであれば、なおさらだった。
見つかっていないのは少女の名前だけではない。スプルース男爵もまた想い人を探し続け、そしてさまよい続けていた。初めはブラウンや少女の助けを借りながらしか移動できなかったけれど、時間が経つにつれて、頭を器用に動かすことで屋敷の中を移動できるようになっていた。階段の上り下り以外はある程度自由が利き、日によっては子供であるオレンジと少女よりも熱心にこの屋敷の中を探索することもあった。それでも、どれだけ動き回り、願っても、スプルース男爵の想い人は現れなかった。それでも男爵は、少女が言った、強く願えばきっと出会えるという言葉を信じ、毎日休むことなく頭を動かし、屋敷の中を探し回り続ける。
ブラウンはというと、長い間、自分の家族と会えていないことにもちろん寂しさを感じていた。しかし、なぜか家族のことを思い出そうとする度にボロボロと思考が砕けていき、その寂しさを心から感じることはなかった。それに何より、少女とスプルース男爵と屋敷の中を探索することは楽しかった。屋敷はどれだけ時間をかけても探索しきれないほどに広く、また毎日のように姿を変える。少女と冗談を言い合ったり、スプルース男爵から色んな物語を聞かせてもらうことは楽しかった。年もとらず、宿題を強要されることもなく、気心の知れた友を語り合うことができる。ブラウンにとって、この場所に対して何らかの不満を持っているわけではなかったし、少女の名前が見つかった後も、スプルース男爵が従姉妹と再会した後も、ずっとこうして三人で過ごしていけたらいいとさえ思っていた。
「私もそう思ってたの」
ブラウンがそのことを口にした時、少女はブラウンの両頬を優しく手で包み、微笑みかけた。少女を姉のように慕っていたブラウンは、彼女もまた同じような気持ちでいてくれたことに心から喜びを感じた。だから、少女がいなくなってから、スプルース男爵がコロコロとブラウンの足元まで転がってきて、ただ一言「気をつけた方がいい」とだけ呟いた時も、ブラウンは一体何を言っているのか初めはわからなかった。
「ここは君のいる場所ではない。過去に縛られた私や彼女と違って、君には未来と心通じ合う家族がいるはずだ」
スプルース男爵は真剣な表情でそうブラウンに伝えたものの、ブラウンはきょとんとした表情を浮かべるだけで、男爵の言っていることをあまり理解できなかった。スプルース男爵はそんなブラウンの表情をじっと見つめた後で、何かを決意した表情を浮かべる。それからブラウンに近づいてきた時と同じように、頭を器用に動かして、コロコロとその場を立ち去っていった。
スプルース男爵が今まで以上に、熱心に探索を行うようになったのはそれがきっかけだった。今までよりも長い時間をかけて、屋敷を巡り、何かに取り憑かれたように眠ることなく探索を続ける。ブラウンと少女はそんな男爵の熱意に驚きつつも、きっとそのうち熱が冷めていって、以前と同じルーティンへと戻っていくだろうと心の中では思っていた。
だからこそ、男爵がある日、今まで一度も見つかることのなかった屋敷の地下室へと通じる道を見つけたときは、ブラウンだけではなく少女も大変驚いた。屋敷に地下室があるということ自体は知っていた。しかし、屋敷の地下室へ入ったことがあるのはスプルース男爵だけで、ブラウンも鍵を開けることができず、中に入ったことは一度もない。そして、少女はずっとこの屋敷の中にいたにもかかわらず、その存在すら知らなかった。ブラウンがスプルース男爵の頭を抱え、三人はゆっくりと、見つけた道を辿り、それから扉を開いた先にあった長い長い階段を降りていく。そして、階段の終わりにある分厚い扉を開け、地下室の中へと入っていった。
三人が足を踏み入れた地下室は、ブラウンと少女が初めて出会った書斎下の部屋と同じくらいの大きさだった。壁は薄いベージュの漆喰で塗り固められ、天井だって背の高い大人が手を伸ばせば届いてしまいそうなほどに低い。そして一番特徴的だったのは、部屋の中には何もないことだった。物や音も、そして三人の影すら、この地下室にはない。その割に明かりだけはついていて、何もないがらんどうの空間が余計に虚しさを醸し出しているような気がした。
生まれたばかりのお部屋ね。少女が地下室の壁に手を当てながら、ぽつりと呟いた。
「人間の子供と同じで、部屋も生まれた時は小さくて何もないのが普通なの。だけど、時間が経ったり、人がこの部屋を認識したりすることで、部屋は少しずつ自分のあるべき姿形へと変わっていく。ほら、私たちがこうしておしゃべりしている間にもどんどん大きくなっていってるでしょ?」
ブラウンが部屋の中をもう一度ぐるりと見渡すと、少女の言う通り、先ほど部屋に入った時と比べるとひと回りもふた回りも部屋の中が広くなっているような気がした。壁の漆喰も少しだけ色が褪せ、天井だって高くなっている。部屋の端っこには、さっきまでは存在しなかった二人がけのベンチが置かれていた。
「私の記憶では、ここはもっと広くて、遊園地になっていた」
「成長すればそういう部屋になるのかもね」
「でも、それは私がここに来る前にそうなっていたはずだ」
「あなたがここに来る前とか来た後とか、そういう概念は存在しない。別々の時間がお行儀よく一直線に並んでいる方がよっぽど不自然よ。過去も未来も現在だって、それぞれに個性というものがあるんだから、好き勝手に自分達がいたい場所に存在する方がこの世の理にあってると思うわ」
少女の言葉にスプルール男爵が言葉を詰まらせる。それから少女は、せっかく新しく見つかった部屋だけど、ここにお目当てのものはなさそうねと淡々とした口調で話す。腕が疲れたブラウンはそっとスプルース男爵を床に下ろす。それから少女を横目で見た後で、もう一度拡張し続ける地下室の中を見渡した。スプルース男爵はここが遊園地になると言っていたけれど、少なくとも今この瞬間自分が見ている限りではそんな気配は一切感じられない。だけど、ブラウンはなぜか自分の知っている場所に似ているような気がしてならなかった。戻りましょう。少女が自分にそう話しかけるのがわかったけれど、ブラウンは返事をすることもなく、ただ自分の記憶をゆっくりと辿っていた。自分が知っている場所。姿を変えていく地下室は、自分の記憶から遠ざかったり近づいたりしながら、ブラウンが知る記憶へと収斂していっているような気がしてならなかった。
戻ろっか。少女が語気を強めてブラウンに叫ぶ。しかし、ブラウンはもはや少女の声など聞いていなかった。地下室の真ん中。そこに現れたのは遠い過去に見たことのある棺。ブラウンはゆっくりとその棺へと近づいていき、ゆっくりと棺の扉を開ける。扉を開けた先に見えたのは、底ではなく、まるで深い井戸を覗いているかのような闇だった。ブラウンは恐る恐る手を伸ばしてみたが外から見える棺の厚さより、その闇は深い。この奥に、何かがある。込み上げてくる恐怖を、そんな直感が覆い隠す。
「戻ろう!」
少女がもう一度叫ぶ。それでも、ブラウンは自分の動きを止めることはできなかった。ブラウンは身を乗り出し、ゆっくりと身体ごと棺の中へと潜り込んでいった。少女がブラウンを呼ぶ声が聞こえてくる。ブラウンはその静止を振り切り、両腕、そして、顔を、闇の中へと埋めていく。闇の中に入っていくと同時に、視覚や嗅覚、そして聴覚が薄くなっていくのがわかった。それでも、ブラウンは引き返すことすらしなかった。ここに何かがある。その直感だけを信じて。
「君は何を恐れているんだ?」
闇の中へと身体全身が入っていく直前。最後にブラウンの耳に聞こえてきたのは、少女に対するスプルース男爵のそんな言葉だった。




