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ブラウンはそっと目を開けた。頭の中まだぼーっとしていて、視界の焦点がなかなか定まらない。それでもゆっくりと時間をかけて深呼吸をすると、次第に頭がすっきりしていくのがわかった。ブラウンはそのまま身体を起こし、自分がいる場所を改めて確認してみる。ぐるりと周囲を見渡し、ここがよく姉と一緒に過ごしている書斎下の地下室で、窓際に置かれたベッドの上に自分がいることがわかる。しかし、それからブラウンは首を傾げた。家具の配置、窓の位置、書斎に繋がる階段はどれも見覚えのあるものではあった。けれど、その一つ一つがやけに子綺麗で、見慣れたシミや塗装の剥がれがほとんどない。自分の姉がこの部屋の古臭さにいつも文句を言っているのを、ブラウンはふと思い出す。
ブラウンはベッドから起き上がって、部屋の真ん中に置かれた勉強机へと近づいてみた。机の上には日記帳が開かれたまま置かれていて、隣には羽ペンが無造作に転がっている。ブラウンは試しに開かれたページを確認してみたが、難しい言葉が崩し文字で書かれていて、うまく読むことができない。それでもブラウンは、最近覚えたばかりの単語を見つけては、一つ一つ口に出して確認していく。名前。落とし物。地下室。
するとその時、階段のほうからコツコツと誰かが階段を降りてくる足音が聞こえてきた。ブラウンが顔をそちらへ向けると、階段の上から一人の少女が姿を現した。年齢は自分より数歳上くらいで、髪は先に軽くウェーブがかかった栗色の髪。澄んだ緑色のワンピースを身につけており、階段を一段降りるたびに裾がふわりと揺れる。少女はブラウンが開きっぱなしの日記帳を読んでいることに気がつくと、「勝手に私の日記を見ないでよ!」と非難の声をあげた。勢いよく駆け寄ってきて、そのまま机の上の日記帳をバタンと音を立てて閉じる。数歳年上ではあったが、背丈はブラウンと同じくらいで、近くから見た目は薄い水色をしていた。そしてそれから。その少女の髪からはほんのりと花の匂いがした。
「……ごめんなさい。でも、何て書いてあるかはよくわかんなかった」
「そういう問題じゃないの。人の日記を勝手にみるのは失礼って誰にも教えてもらわなかったわけ?」
少女が日記を大事そうに胸に抱え、それから本棚へと収納する。ブラウンは本棚を改めて観察し、自分が知っているこの部屋の本棚よりもずっとずっと本の数が少なくなっていることに気がつく。違和感を抱きながら、ブラウンはもう一度周囲を見渡しみたが、すぐには理解できない状況に混乱が増していくだけだった。
そして、何より。ブラウンは目の前に現れた少女が一体誰なのかがわからなかった。屋敷にいる自分と同年代の子供は姉のカナリアだけだし、屋敷で働くメイドの親戚というわけでもなさそうだった。それでも、少女をじっと見つめていると、胸がキュッとなる。幼いブラウンはそれが一体どういう感情なのかはわからなかった。
「ねえ、僕と君って前に会ったことあるっけ? なんか見覚えがあるんだけど……どうしても思い出せなくて」
「会ったかもしれないし、会ったことがないかもしれない。どうせ忘れてしまうしね。でも、何となく見覚えがあるのだとすれば、ひょっとしたら会ってるのかもしれない。私も、あなたをどこかで見たような気がするし」
「忘れるってどういうこと?」
少女がブラウンの方へと振り返りがら答える。
「その言葉の通りよ。私たちが出会ったことも、話した内容も全部そのうち私たちの頭の中からなくなってしまうの。夢と一緒ね。朝、目覚めたすぐはまだなんとなく夢の内容を覚えているけど、時間が経つにつれて少しずつ思い出せなくなっていく。だから、私は日記をつけてるの。まあでも、日記に書いたこと自体を忘れちゃうこともあるんだけどね」
「忘れるって……どうして?」
「ここをどこだと思ってるの? アルメラルラ家のお屋敷なのよ? 何が起きても不思議じゃないし、そこに理由なんて何一つもないんだから、私に説明させないでよ」
「君もアルメラルラ家の子なの? 名前はなんていうの?」
「私?」
すると少女は少しだけ困った顔をして、答えた。
「ごめんね、今の私って名前がないの。この前まではあったんだけど、最近どこかに落としちゃったらしくって」




