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オレンジはアルメラルラ家の屋敷の中をランニングしていた。
姉のオリーブが自ら命を絶って以降、彼女は気持ちを紛らわせるように、筋トレを始めた。昔はお人形や遊具で溢れかえっていた彼女の部屋には、年相応の荷物とともに、ダンベルやランニングマシーンなど、身体を鍛えるための器具が置かれていた。身体を動かしている間は難しいことや悲しいことを考えずに済む。オレンジはそんな考えを否定していたものの、周りの目から見ればそのための運動であることは明らかだった。オレンジだけが、そのような考えを頑なに拒んでいた。それを認めることで、自分の何かが失われてしなうのではないか。オレンジは無意識の中で、そんな恐れを抱いていた。
オレンジが二階の東側の廊下の突き当たりにたどり着く。数日前に同じ場所を歩いた時よりも、部屋の数は三つ増え、廊下の長さは50mほど延びていた。それでも、東側の廊下の突き当たりの部屋に、オリーブの遺体が安置されているという事実は変わることがなかった。この一番奥の部屋、すみれの花とシーグリーンの骨に囲まれるようにして、オリーブの遺体はそこに置かれている。遺体が腐ることはなかったし、死体であるオリーブが歳をとることもない。オリーブはこの部屋の中で、自ら命を絶った時と同じ姿のまま眠っていた。五年間。ずっと。
オレンジはランニングで乱れた呼吸を整えながら、オリーブの顔を一度だけ見て、戻ろうかと考える。その時、オリーブの遺体が置かれている部屋とは別の部屋の扉がゆっくりと音を立てて開いた。オレンジが反射的に身構える。扉からは首から上がなくなった人間が姿を表した。オレンジはなんだとほっと安堵のため息をつき、その人物に声をかける。
「ごきげんよう、スプルース男爵。オリーブの部屋はもう一つ先の部屋ですけど?」
オレンジの呼びかけにスプルース男爵の身体がぴたりと止まる。これはこれはオレンジさん、ご機嫌麗しゅう。男爵は深々と上半身を傾け、オレンジに挨拶をする。それから男爵は右手で自分の左肩を意味もなく、さする。肩についていた小さな糸屑が落ち、ヒラヒラと回転しながら床へと落ちていった。
「相変わらずこの屋敷は不思議ですね。来るたびに姿が変わりますし、方向音痴な私は迷ってしまいます」
「だったら、メイドをつけたらいいんじゃないですか? 誰か案内するように言いつけますよ」
なるほど、確かにそれもそうですねとスプルース男爵が感心したように答えるので、オレンジはシエナの評価とは違って、どこか間の抜けた部分があるのかもしれないと思った。姉のオリーブが自ら命を絶ち五年という月日が経った後も、男爵は継続してこの屋敷を訪れていた。
「オリーブが死んでから五年が経ちますけど、よくもそんなに想い続けることができますよね」
「人の想いは強いですからね。それに……五年なんて短い方ですよ」
恋愛といったものを経験したことのないオレンジにとって、五年もの間誰かを思い続けることができるなんて到底理解できない話だった。ロケ中にライオンに襲われて死んだ従姉妹に似ている。そのように言われたことを、以前オリーブから教えてもらったことがある。だからなおさらオリーブへの気持ちが強かったのかもしれないけれど、それでもやはり、屋敷に食べられた自分の頭部を探していると言われた方が個人的には納得する。
それでは失礼。スプルース男爵がオレンジに言葉をかけ、オリーブの遺体が置かれた部屋へと入っていく。しかし、ドアの取手を握ったタイミングで男爵はそうだそうだと独り言呟き、オレンジの方へと再び向き直った。
「ところでつかぬことをお聞きしますが、オレンジさんはここ最近お泣きになったことはありますか?」
「泣くですか? 確かにここ最近というか、ほとんど泣いたことはないですけど、どうして突然?」
オレンジの質問に、スプルース男爵がもがれた首の部分を左手で触りながら答える。
「いえ、オリーブさんがお亡くなりになられた時も、私が知る限りはオレンジさんが泣いていらっしゃらなかったなと思いまして」
「はあ」
「感情がないから泣くことができないというのであればそれで構わないのです。問題は泣くことができないから感情がなくなってしまうこと。悲しみに耐えるよりも、悲しみと向き合って涙を流すことの方が、時にはずっと難しいんですよ」
それでは、また。スプルース男爵は言いたいことだけを言って、そのままオリーブの部屋の中へと入っていった。男爵の言っていることは正直よく理解できなかったが、オレンジのことと、そして姉のオリーブの死について言っているということは理解できた。オレンジはスプルース男爵が消えていった部屋を見つめながら、再びランニングへと戻るために身体を伸ばし始める。
「それにしても……」
オレンジは扉が閉まり切った後でぽつりと独り言を言う。
「五年間もこの屋敷に通い続けてるのにオリーブの部屋とは違う部屋に入っちゃうなんて、とんでもなく方向音痴なのね」
日課となっているランニングを終えた後、オレンジはいつものように書斎へと戻る。書斎のソファにはシエナが座っていた。シエナの目の前の机には、色々な線が繋がりあった四角い電子計算機が鎮座していて、その横には数字が殴り書きされた何枚もの紙が散乱している。シエナは足を組み、電子計算機とその横に置かれた紙と睨めっこをしている。その姿を見て、オレンジはシエナが仕事中であることに気がつく。
「何の仕事をしてるの?」
「今日はね、この電子計算機の計算が本当に正しいのかを調べるお仕事をしているの」
シエナはオレンジの方を振り返ることなくそう答える。
「本当に正しいってどう言うこと?」
「言葉の通り、この電子計算機で計算した計算結果が本当に正しい結果なのかを確認するお仕事よ。つまりね、数字を電子計算機に打ち込んで結果を見て、それが本当に正しいのか私が自分で計算し直しているの」
「電子計算機が計算を間違えるわけないじゃない。電子で計算してるのよ? シエナが逆立ちしたって敵う相手じゃないわ」
「いいえ、それは違うわオレンジ。確かに今まではずっと電子計算機は正しいことしか言ってこなかったのかもしれない。でもね、それはひょっとしたら私たち人類を騙すためなのかもしれない。電子計算機はずっと正しい結果を表示してきたわ。でもね、人間からの信頼を勝ち取って、それから人間が自分で考えると言うことを忘れた頃合いを見計らって、少しずつ嘘を紛れ込ませるようにしているのかもしれない。その頃には人間は電子計算機を疑うということすら忘れてしまっているから、彼らが白だと言えば、人間は黒も白だと思ってしまう。だからね、たまに抜き打ちで人間がきちんとチェックしないといけないわけ。ほら、実際にこれを見てみてよ」
シエナはそう言って、電子計算機に「4+7」という計算式を打ち込んだ。そして、計算開始のスイッチを入れると同時に電子計算機はファンを高速に回転させながら計算を開始する。ガタガタと機体自体を時折揺らし、数十秒後にようやく「10」という計算結果を画面に表示する。
「これ、どう思う? オレンジ?」
「どう思うって、機械が10って言っているんだから10なんじゃないの?」
「そう思うでしょ? 私もそう思ってたの。でもね、一応お金をもらっているから、きちんと私の方でも頑張って同じ計算をしたの」
シエナはそう言って、数枚の紙をオレンジに手渡す。その紙には、何十行にもおよび計算過程とともに、最後に「12?」という文字が書かれていた。何度計算しても同じ計算結果なの。シエナは右手をさすりながらそう呟く。
「シエナが間違ってるだけじゃない? 人間であるシエナよりも電子計算機の方がよっぽど信頼できるもの」
「それはわかってるの。わかってるんだけどね……」
自分の結果を信用してもらえたことが嬉しかったのか、机の上に置かれた電子計算機が先ほどの10という計算結果を点滅表示して強調し始める。シエナはそれが鼻についたのか、強制的電源プラグを抜く。電気供給が絶たれた電子計算機は恨めしげな呻き声を上げ、シャットダウンした。それを見届けたシエナはふうっとため息をつき、それから自分が計算結果を記述した紙を束にして床に置く。それから後ろに立っていたオレンジの方へと身体を向け、オレンジに語りかける。
「そうそう。ちょうどよかったわ、オレンジ。ちょっとだけ、大事な相談事があるんだけどいいかしら?」




