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双子の姉であるカナリアが向日葵畑で横になっている頃、弟のブラウンは姉を探すために広い屋敷を歩き回っていた。
時折すれ違うメイドにカナリアを見たかどうかを尋ねつつ、探検するたびにその姿を変える屋敷の中を探索していた。最上階から伸び、そのまま天井に埋まっている階段。扉を開けると、目の前がすぐに漆喰の壁で塞がれている部屋。廻廊に敷かれた絨毯をめくると見つかる、鍵のかかった秘密の扉。毎日のように歩き回っているにもかかわらず、決して飽きるということはない。ブラウンはいつものように、カナリアを探すという当初の目的を忘れ、ただただ屋敷の中を歩き回ることを楽しんでいた。
ブラウンは一階の東回廊の真ん中で立ち止まる。彼の右手には、今まで見たことのない通路の存在に気がつく。ブラウンはキョロキョロと辺りを見渡した後で、なんの躊躇いもなくその通路へと入っていく。天井は高く、横幅は狭い。照明が暗いせいで、真っ直ぐに長く続く通路のの先は真っ暗で何も見えなかった。それでもブラウンは不安や恐怖といったものを感じていなかった。恐れという感情を知らないというわけではなく、彼はこの屋敷と屋敷に存在するもの全てが自分に対して何か危害を加えることは決してないという確信を持っていた。ブラウンは歩き続ける。舞い上がった埃を吸って、くしゃみをし、その音が狭い壁に当たって反響する。
そして、廊下を抜けた先にあった小階段を降り、ブラウンは屋敷の地下室へと続く扉にたどり着いた。ブラウンは屋敷にある他の部屋の扉とは異なる装飾を物珍しそうにペタペタ触り、それから取手を掴み身体全体を使って扉を開けようとする。しかし、いくら力を込めても扉はピクリとも動かなかった。それが鍵がかかっているという感触ではなく、まるで扉が壁の一部になっているかのような、そんな感触。ブラウンが試しに扉と壁の隙間を覗いてみても、隙間自体は存在しているし、閂がされているわけではないから余計に不思議だった。
しかし、世間一般で言われている不思議なことは、この屋敷の中では不思議でもなんでもなかった。ブラウンは新しく見つけた扉へのわくわくした気持ちを台無しにされて残念だったが、こういう場所があるということをぜひ姉のカナリアに教えてやろうと考えた。そして、最後に他の部屋の扉とは違う表面の装飾にそっと手を置く。しかし、その時。手が触れた箇所が液状になり、ブラウンの手が扉の中へ沈んでいった。ブラウンは反射的に手を引っ込める。扉の中に沈んだ表面には微かに冷たさが残っていたが、そこが濡れているということはない。そして、先ほどまで自分の手が沈んでいた箇所は何事もなかったかのように元通りの硬い板に戻っていた。
ブラウンがごくりと唾を飲み込む。恐怖心はなく、ただただ好奇心だけがブラウンの心を突き動かしていた。あのまま扉の中へ沈んでいけば、ひょっとして扉の向こうに行けるのかもしれない。そして、ブラウンがもう一度扉に手を触れようかどうかを迷っていた最中、扉の奥から誰かの声がした。
ブラウン。
それは聞き覚えのある声だった。ブラウンは扉に触れないように気をつけながら、半歩だけ前に進み、扉に耳を近づけ、聞こえてきた声に対して返事を返す。
「カナリア?」
しかし、扉の中から返事が返ってくることはなかった。先程の声は聞き覚えのある声ではなかったけれど、カナリアが声色を変えて自分をからかっているようにも聞こえた。ひょっとして自分が先に見つけたと思っていたこの秘密の場所を、カナリアは先に見つけ、それを内緒にしていたのかもしれない。だったら、もう躊躇う理由は見つからない。ブラウンは深く息を吸い込み、もう一度扉に手を触れた。手の触れた場所は先ほどと同じように液体状になり、力を入れなくてもまるで引き摺り込まれるように中へと沈んでいく。ブラウンは力を込めて、手を扉の方へと押していく。手首部分まで扉の中に沈み、そして腕が沈んでいく。ブラウンは足を前に出す。足先が扉に触れ、手と同じように扉の中へと沈んでいく。ブラウンはもう一度息を吸い込み、そして目を瞑った。そして扉に沈みつつある足とは別の足にぐっと力を入れ、そのまま身体全体で扉の中へ潜り込んでいった。
「……ブラウン。ブラウン! こんなところで寝ないでよ!」
自分の名前を呼び声にブラウンはそっと目を開ける。目を開けた先には姉のカナリアが不機嫌そうに眉を顰めながら自分の顔を覗き込んでいる姿があった。ブラウンはボーッとした意識のままあたりを見渡す。そこは書斎の地下にある部屋の中だった。中庭と面する窓から陽光が差し込んでおり、自分が壁ぎわに置かれた古いベッドの上に寝ていることに気がつく。
「さっきまではここにいなかったのに、どうやって忍び込んだわけ?」
ブラウンはカナリアの言葉を聞いていなかった。ただ、薄く靄がかかったような頭を必死に働かせながら、先ほどまでの記憶をなんとか思い出そうとしていた。長い廊下を抜け、不思議な扉を見つけ、その扉の中に沈んでいったことまではぼんやりと覚えている。だけど、それからの記憶は思い出すことができない。ただぼんやりとした記憶の輪郭だけはどこかに残っていて、まるで先ほどまで見ていたはずの夢を思い出せないのと同じ感覚だった。
「ねえ、カナリア。さっき 僕の名前を呼んだりした?」
「何回も呼んだわよ。勝手にベッドの横で寝てたんだから」
「そうじゃなくて、もうちょっと前に」
「何言ってるわけ? ここにいなかったブラウンを呼んでも仕方ないじゃん」
カナリアが呆れた顔で返事を返す。それから小さな手でブラウンの腕を掴み、そのままベッドから起き上がらせる。ブラウンはまだ夢心地でいた。何かを思い出せないということだけは理解できていたが、その何かは思い出せない。
カナリアに腕を掴まれながら、ブラウンはそっと自分の右頬に手を当てた。指先で触れた自分の右頬は、覚えのない涙で少しだけ濡れていた。




