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オレンジは鏡台の前に立ち、自分の右目に埋め込まれた時計をじっと覗き込んでいた。
自分の部屋に置かれた古めかしい鏡台は、小柄なオレンジに似つかわしくないほど大きい。楕円形をした鏡の周りには銀の装飾が施されていて、電球色の光を反射して丸みを帯びた光沢を発している。オレンジは右手で瞼を持ち上げ、鏡に映った瞳とそこに埋め込まれた時計の様子をじっと観察する。鏡の中では反時計回りに秒針が周り、秒針がローマ数字のⅫを刺すたびに、カチリと音を立てて分針が動く。時計の真ん中は円形の穴が空いていて、そこからは時計の針を動かしている小さな歯車が現在進行形で回り続けているが見える。
オレンジは一つの歯車の動きが固く、少しばかりネジが緩んでしまっているのに気がついた。鏡台の上に置いていた精密ドライバーを手に取ると、ドライバーを自分の右目の時計へと差し込み、慣れた手つきで歯車のネジを締め上げた。歯車の動きが滑らかになったことを確認し、オレンジは満足げに鼻息をならす。右目の時計が指し示す時刻は正午過ぎ。そこで、オレンジは、シエナから屋敷の地下室の様子を見に行きなさいと言われたことを思い出す。
正直乗り気ではなかった。しかし、何もしなければ何もしないで、シエナからぐちぐち言われるのは目に見えていた。入り口あたりをちょっとだけ散策して、何事もなかったと適当に伝えればいいや。オレンジはそう考え、そのまま自分の部屋を出た。そして、長い廊下を渡り、階段を降りていくと、階段の踊り場でうつ伏せに寝っ転がっている姉のオリーブの姿を見つける。
「あのね、オレンジ。こうしてると、私はすごい落ち着くの。何ていうのかな……自分のことをしょうもない人間だと思って自己嫌悪しているけど、その自己嫌悪は結局、自分はもっと素晴らしい人間であるはずだっていう自己愛的な考え方に根ざしていることに気がついてさらに深いレベルで自分の気持ち悪さを嫌いになるけど、だけど、その一方でそのことに気がついている自分は他の連中よりもずっと賢い人間なんだって優越感に浸る……そんな気持ちになれるの」
オレンジが何してんの? と呆れた口調で尋ねると、オリーブは顔をあげ、そう答えた。オリーブの瞳は彼女の情緒を反映して深い青紫色に変わっていた。手首から肘にかけて刻まれた自傷痕は、遠くから見ると地下鉄の路線図みたいに見えた。
「オリーブ。シーグリーンがどこにいるか知らない?」
「たった一人の妹は私ではなく、小汚い猫を必要としているということ。だけど不思議なことに私は絶望はしても、裏切られたという気持ちはないの。それはきっと心のどこかで自分は誰からも必要とされていないという確信を持っていて、その確信が当たったことに一種の安心を覚えているから」
「そんな面倒くさい女のポエムを聴いてる暇はないの。小ぶりで可愛い耳を噛みちぎられたいわけ? ここらへんにいないならさ、呼んで欲しいの。オリーブしか猫を呼べないんだからさ」
オレンジが苛立たしげにそういうと、オリーブは渋々上半身だけを起こした。そして、屋敷の上の階へと顔を向け、猫のシーグリーンを呼び寄せる。
「ルールルルル」
その呼び声に応じて、猫のシーグリーンがひょっこりと姿を現した。シーグリーンは軽やかなステップで屋敷の階段を駆け下り、階段に座っていたオリーブの横でごろごろと喉を鳴らす。それからシーグリーンは、綿毛のように長い栗色の毛をなびかせながら、オリーブの周りを身体を擦り付けながらクルクルと回り出す。オリーブがポンポンと優しくお尻を叩くと、シーグリーンはうっとりした表情を浮かべ、長い尻尾を犬のように左右へ振った。
「さっき、オレンジはさっき面倒くさい女のポエムみたいだって言ってたけど。それは違うわ。そんな女のポエムっていうのはね、こんなポエムのことを言うの」
オレンジがシーグリーンの脇を両手で抱き抱えるのを見つめながら、オリーブがため息をつき、そして詩を読み上げる。
月夜にさんざめく歌舞伎町
死が影となって、グリーンピースの世界平和
電子音が腐食したサンゴの形をなぞる
底の抜けたポケットに入れたコインが
巡り巡ってあなたの血肉となる
字余り。オリーブがぽつりと呟き、過去の失恋を思い出してわっと泣き始める。オレンジはシーグリーンを両手で抱えたままじっとオリーブを見つめ返した。
「そんなに頭の中が平和なら、きっとノーベル平和賞間違いないわ。おめでとう」
オリーブはしくしくと泣き始める。私がノーベル賞を取って有名になっても、オレンジとシエナのことは大事にするわ。本当よ。オリーブの嗚咽混じりの呟きをあしらいながら、オレンジはシーグリーンを抱き抱えたまま階段を降りていく。
「ねえ、生きることって悲しいことだと思うの。時間という軸で見れば、私という存在は生きていない時間の方が圧倒的に長いでしょう? きっと生きていることの方が異常なんだわ。そう思わない? オレンジ? ねえ、オレンジ?」
背中からオリーブの問いかけが聞こえてくるが、オレンジはそれに返事を返すことはしなかった。オレンジは一階に降り、そのまま地下室へと続く廊下へと入っていく。廊下は二人分の横幅しかないほど狭く、天井だけが無駄に高い。廊下の床には埃が積もっていて、足を踏み出すたびに舞い上がる。壁の塗装は剥がれ落ちていて、元々の色がわからないほどに黒くくすんでいた。抱き抱えているシーグリーンが埃を吸ってくしゃみをする。
「くそったれ!」
オレンジが試しにそう叫ぶと、シーグリーンがあまりの品のない言葉におもわず顔を顰めた。音が壁を反響し、まるでスピーカーの中にいるみたいにあらゆる方向から音が聞こえてきた。廊下を数分ほど歩いた後、オレンジはようやく地下室へ続く扉へとたどり着く。オレンジはゆっくりと近づいていき、半階段の下にある扉の前に立つ。扉の取っ手部分には確かにここ最近の誰かの使用跡が残っていて、誰かがこの中に入っていったことは間違いなさそうだった。
オレンジは深いため息をつき、地下室への扉を身体で押す。ゆっくりと開いた扉の向こう側には、果てしなく長い階段が続いていた。足元の段差がかろうじて見えるだけの弱い照明が階段の左右に灯っていて、くすんだ色の絨毯は、何年も洗っていないタオルのような臭いがした。オレンジはシーグリーンを抱きかかえ直し、ゆっくりと階段を降りていく。何分もかけてひたすらに階段を降り続けると、その先にはさらにもう一つの分厚い扉が待っていた。オレンジはまたかとうんざりしながらも、再び身体全身を使って、分厚い扉を押し、中に入る。オレンジはそのまま滑り込むように中へと入り、地下室の中を見渡す。屋敷の深い深い地下にあったのは、誰もいない寂れた遊園地だった。