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オレンジは何かの気配を感じて、そちらへ顔を向けた。二階の廊下の奥は、照明が切れてしまっていて、奥の方は闇に包まれて何も見えない。まだ陽が沈んで数時間しか経っていなかったけれど、二階はまるですべての生き物が息を潜めているかのように静かだった。シエナはまだ一階にいる。だから彼女の声や歩く音が聞こえてこないのはまだわかるし、少なくとも一階からはかろうじて物音が聞こえてくる気がする。しかし、この二階。いや、二階より上が妙に静かだった。少なくとも、隅田川の花火大会を観るために、オリーブとスプルース男爵がいるはずにもかかわらず。
オレンジはぎゅっと胸の前で拳を握りしめ、それからゆっくりと気配のする方へと歩き出した。左目の時計の音が廊下の壁を反響して、窓の外からはかすかに花火大会に集まっている人々の騒ぎ声が耳鳴りのように聞こえてくる。暗い屋敷の廊下が続く。オレンジの記憶では、屋敷を縦断する長い廊下はここまで長くはなかった。屋敷建物自体がオレンジから何かを遠ざけようと、廊下を長くしているのかもしれない。それでもオレンジは歩みを止めなかった。呼吸が浅くなり、そして、心なしか、右目の時計の針も、鼓動に合わせて少しだけ早くなっているような気がした。
そして、オレンジは廊下の突き当たりにたどり着く。オレンジは暗闇に慣れた目で壁際を見回し、照明のスイッチを入れる。高い天井からぶら下がった照明に明かりが灯る。オレンジは自分の足元へと視線を移し、そこにはうつ伏せの状態で、首から上が屋敷の壁に埋まったスプルース男爵の姿を見つけた。
オレンジは目の前の光景に叫び声をあげることもなく、ただじっとその光景を目に焼きつけた。オレンジは恐る恐る男爵に近づき、そのまま両脚を掴んで手前に引っ張ってみる。頭が壁に埋め込まれているように見えた彼の身体はあっさりと動き、首から上を壁の中に残したまま身体が壁から引き離された。オレンジが男爵の足から手を離し、両足がどずんと音を立ててカーペットの上に落ちる。オレンジが男爵の右手へ視線を向けると、人差し指と中指がピクピクと動いているのが確認できた。首から上を無くしただけで、少なくとも死んでいるわけではない。その事実にほっと胸を撫で下ろす。
オリーブは?
オレンジの頭が現実をい取り戻していく中、そんな問いがふっと頭に思い浮かぶ。そして、オレンジは男爵の身体をその場に残したまま、急いで元来た道を走り出した。オレンジが長い廊下を走り切り、中央の階段までやってきたタイミングで、一階から登ってきたシエナと鉢合わせをする。
「どうしたのオレンジ? そんなに急いで」
「ねえ、シエナ。オリーブは今どこにいるか知ってる?」
「オリーブ? 自分の部屋じゃない?」
その答えを聞くや否や、オレンジがオリーブの部屋がある三階へ向かって、階段を登り始める。シエナも何かを察したのか、膨らんだお腹を刺激しないように気をつけつつ、オレンジの後を追って三階へ登っていく。二人が到着した三階は二階と同じように照明が消えていて、暗闇に包まれていた。廊下はいつもよりも長く、この前までは三階で終わっていた階段も、今は四階、五階と続き、吹き抜けの天井は闇に包まれて見えない。オレンジは階段側の照明の明かりをつける。そして、いつもは閉まっているオリーブの部屋の扉が半分だけ開いていることに気がつく。しかし、部屋に灯りはついていない。ようやく階段を登ってきたシエナを待ち、そして、二人はゆっくりとオリーブの部屋へと近づいていく。
花火大会が佳境を迎え、一段と騒がしい声が外から聞こえてくるが、屋敷の中は張り詰めた水面のように静かだった。オレンジが先頭になって、そっとオリーブの部屋の中に入る。照明はついていないものの、窓は開けっぱなし。それにもかかわらず、オリーブの部屋の中は暗闇に包まれ、部屋に置かれている家具の輪郭すら見極めることができない。
「……オリーブ?」
オレンジが小声で彼女の名前を呼ぶ。かすれるような声が暗い部屋の中に吸い込まれて消えていく。扉横の照明のスイッチを押してみても、部屋の明かりは全く付かない。不安を抑えるようにオレンジと後ろにいるシエナが二人揃って深く息を吸い込んだ。そして、オレンジが意を決して部屋の中に一歩踏み出した瞬間、オリーブの部屋の奥にあった置き時計が午後9時ちょうどを告げる鐘を鳴らした。身体の中の骨を直接振るわせるような振動。そしてしばらくして開いた窓の奥から花火が打ち上がる音が聞こえてくる。
一筋の光が藍色の夜空に吸い込まれるように消え、一瞬世界が静寂に包まれる。そして、窓の外で赤と黄色の混じった打ち上げ花火が咲き、その鮮やかな光で部屋の中が照らされる。幻想的な花火の光に照らされ浮かび上がったのは、照明からぶら下がった紐で首を吊った、オリーブの姿だった。




