17
オレンジはゆっくりと目を覚ます。視界に映ったのは絵で描かれた曇天の空。ぼんやりとした意識で見覚えのあるその絵を見続けていると、オレンジはようやく自分が地下室にいるということを思い出す。ゆっくりと身じろぎをし、周囲の様子を探ろうとしたタイミングで声が響く。
「オレンジ! 大丈夫!?」
オレンジが声のする方へ顔を向けると、そこには安堵の表情を浮かべたティールの顔があった。自分が地下室にいることも、そしてティールとともにこの地下室へやってきたことも、くっきりと覚えている。でも、その間にあった何かが思い出せない。気持ちの悪い感覚がオレンジの頭にこべりついて離れない。忘れてはいけない大事なこと。でも、朧げな記憶は掴もうとすると、するりとオレンジの手を避け、どこか遠くへ行ってしまう。どうしようもないもやもやにオレンジが顔をしかめると、ティールが大丈夫? と心配そうに声をかけてくる。
「ねえ、ティール。さっきまで私たち、何してたっけ?」
「何してたって……。一緒に地下室に行って、それから……オレンジが突然倒れたからずっとそばにいたんだけど」
オレンジはティールの目をじっと見つめたが、ティールが嘘をついているとはどうしても思えなかった。それでも心の奥の方には確かに何かが残っていた。暖かい何かと、不吉な予感が。
「今って何時?」
「え?」
オレンジの問いかけに、ティールが考え込む。
「……金閣寺?」
「ふざけてる場合じゃないの!」
オレンジの声にティールが困惑した表情を浮かべる。
「地下室に入ってからそんなに時間は経ってないと思うけど。それに、そもそもここには時計はないし」
「私の右目の時計があるでしょ!」
そういうや否や、オレンジはティールの顔を両手でぐっと掴み、ティールの瞳を覗き込む。澄んだ水色の瞳に、オレンジの右目の時計が逆さまに映る。そして、時計が示す現在時刻を知り、オレンジは驚きの声をあげる。時計の針が刺していた時刻が正しいのであれば、オレンジとティールがこの地下室へ向かってからすでに三時間も経ってしまっていた。オレンジの瞳を同じように覗き込んでいたティールも驚きの声をあげ、そんなに時間が経ってるなんて信じられないとつぶやいた。
オレンジはティールの顔をそっと離す。先ほどまでの胸のざわめきが強くなっている。オレンジは恐る恐るティールに対して、今日の花火大会が何時から始まるのかを確認する。ティールは少しだけ戸惑った後で、そういえばもうそろそろ始まる時間だねと返事をする。その返事を聞いた瞬間、何かがオレンジを突き動かした。行かなくちゃ。オレンジは自分に言い聞かせるように呟く。
「行くって、どこに?」
ティールがその問いを言い終わらないうちに、オレンジは歩き出していた。地下室の遊園地を黙々と歩きつづけ、そのまま屋敷の一階へとつながる階段を登っていく。ティールがオレンジを呼び止める声がしたが、彼女は立ち止まることはなかった。さっきまで倒れていた影響か、締め付けられるような頭痛を感じる。胸のざわつきは少しずつ強くなっていて、息を吸うたびに、全身の逆毛が撫でられるような感覚がした。
歩きながらオレンジは必死に先ほどまでの記憶を辿っていた。ティールが嘘をついているとは思えなかったけれど、ただ意味もなく数時間も寝ていただけだなんてどうしても信じられなかった。何かを忘れている。その数時間に、大事な何かを置き忘れている。オレンジの違和感を言葉で説明するのであれば、そう表現する他なかった。
階段を登り、地下室へと続く廊下を抜け、オレンジは書斎へと向かう。書斎にはシエナがいて、膨らんだお腹をさすりながら妊婦向けの雑誌を読んでいた。シエナがオレンジの方を見て、どうしたの? と聞いてくる。しかし、オレンジはその問いかけを聞いていなかった。オレンジの頭を支配していたのは、自分が向かうべき場所はここでははないという強迫観念だけ。返事をしないオレンジに対して、シエナがもう一度声をかける。それでも返事を返さないオレンジにシエナは困ったように眉をひそめ、再び手にしていた雑誌へと視線を戻した。
ここではないとしたら、どこへ? そもそも、私は何を探しているの?
焦燥感と湧き上がってくる不安と向き合いながら、オレンジは自分で自分に問いかける。そして、ゆっくりとした足取りで書斎を後にし、オレンジは再び屋敷の廊下を歩き出す。そしてふと、廊下に置かれた床時計へと視線が止まった。時刻はまさに花火大会が始まる直前。そして、右手には二回へとつながる中央階段。オレンジは何かに誘われるように、階段を登っていき、そしてニ階の廊下へ足を踏み入れる。




