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オレンジはゆっくりと目を開けた。ぼんやりとした視界が少しずつ明瞭になっていき、オレンジの視界に見慣れた絨毯や家具が現れ始める。頭がぼんやりとしている。先ほどまで、自分が何をしているのかさえなかなか思い出せない。偏頭痛に似た頭痛を覚えながら、オレンジが歩き出すと、足と足がもつれて、その場で盛大に転んでしまった。
「あら? いつの間に入ってきたの、オレンジ?」
オレンジが顔をあげると、そこには化粧台の前でメイクをしていたオリーブが心配そうな表情でこちらを見つめていた。それからオレンジは周囲を見渡し、自分がオリーブの部屋にいることに気がつく。それでも、なぜ自分がこの部屋にいるのか。そんな簡単な事実をオレンジはどうしても思い出せなかった。
「さっき隣に住んでる男の子と、一緒に地下室に行くって言ってたはずだけど」
隣に住んでる男の子というのはきっとティールのことだろう。そして、ティールと一緒に地下室へ行くことになったのも、かろうじて覚えている。ズキズキと痛む頭を押さえながら立ち上がると、オリーブが心配そうに駆け寄ってきてくれて、オレンジの身体を支えてくれる。そして、オリーブに抱き抱えられたオレンジは、彼女の髪からふわりと柑橘系の香水の匂いがするのに気がついた。甘酸っぱい香りが鼻をくすぐり、オリーブの髪先がオレンジの頬に触れる。あの男のためにしてるの? とオレンジが尋ねると、好きな人のために何かするのも悪くないのよと返す。
「こんな良い匂いのする香水をつけるなんて、オリーブのくせに生意気だわ」
「こうでもしないと、きっとあの人から嫌われちゃうもの」
「嫌われたって大丈夫よ。まだまだオリーブは若いし、結婚して別の家に行く必要なんてないわ。天使のように可愛い私と一緒に暮らしてるのに不満だっていうの? 香水の匂いが気に入らないという理由で不機嫌になる男なんかと違って、私とシエナがオリーブを嫌いになることはないわ」
「妹だからって、家族だからって、絶対に私を嫌いにならないわけではないと思うの」
「妹だから、家族だからオリーブを嫌いにはならないなんて一言も言ってないでしょ、アンポンタン。私がただオリーブのことを嫌いにならないってだけ」
オレンジが少しだけ不機嫌そうな表情を浮かべ、バイオレットから身体を離す。
「家を出て行っちゃうの?」
短い沈黙の後で、オレンジがそう尋ねる。そして、オレンジ自身が自分の言ったことに驚きを隠せなかった。自分の意志とは別に、まるで誰かから操られたみたいにこぼれた言葉。いつもの自分であれば、思っていても決して口に出すことはない言葉。オンレンジは自分の口を右手で触ってみる。しかし、そこにはきちんと自分の口がついていて、誰か別の人の口がついているというわけでもなさそうだった。
「そうね。まだ正式に婚約を申し込まれたわけじゃないけど、彼からプロポーズを受けて、それを私が受け取れば、この家からは出て行くことになる。寝れない夜に、一緒のベッドで眠ることもできなくなると思うわ」
バイオレットの言葉にオレンジは自分の手を無意識に胸へもっていく。オレンジの小さな胸には今まさに色んな感情が渦巻いていた。そんなの気にしないわという強がりの気持ちと、寂しいという気持ち。そして、オリーブに婚約を申し込もうとするスプルース男爵への嫉妬にも似た気持ち。オレンジはそれを振り払うように、その場を歩き回り始める。自分がなぜこの部屋にいるのか、どうやってこの部屋に入ったのかという疑問はオレンジの頭の中から消えていた。オレンジの足跡に驚いたシーグリーンが気だるげに身体を起こし、オレンジの方へと頭を向ける。
「ごめんね、オレンジ。毎年一緒に見ている花火大会を今日は一緒に見られなくて」
オレンジがオリーブの方へ顔を向けた。自分の心を読まれたような感じがして、オレンジはちょっとだけ不機嫌になる。
「来年は一緒に見ましょう」
「結婚して違う家に行ってしまうのに?」
「結婚して違う家に行ったとしても、もう二度と会えないわけではないでしょう?」
オレンジはその言葉に対する反論をぐっと飲み込んだ。二度と会えないわけではないということはつまり、今みたいに頻繁に会うことはできないと言っているような気がしたから。
「行かないでよ」
ぐっと飲み込んだはずの言葉が、自分の意志に反してこぼれ落ちる。オレンジは慌てて口を手で押さえた。オリーブは少しだけ驚いた表情を浮かべながらオレンジを見つめ返し、それから泣きそうな表情になる。
「どうしたの? オレンジ。いつもの皮肉屋のあなたらしくない。……でも、そう言ってくれるのは嬉しいわ。ねえ、かわいい私のオレンジ。もっとこっちに近づいて」
オレンジは恥ずかしさで顔を俯かせながら、ゆっくりとオリーブへと近づいていく。オリーブがオレンジを優しく抱きしめる。それからオレンジの耳元で、心配しないで、と囁きかける。オリーブらしくない言葉ね、とオレンジが返すと、オリーブは穏やかに微笑んだ。
「来年はきっと一緒に見れるわ」
「約束?」
「ええ、約束」
オレンジは自分の顔を見られないように、オリーブの服に自分の顔を埋めた。両手でオリーブの華奢な身体を抱きしめると、その柔らかさと温もりがじわりと伝わってくるのがわかった。
『よかったね、自分の気持ちをきちんと伝えることができて』
どこからともなく聞こえてきたその声に、オレンジの身体が固まった。聞き覚えのあるその声が、オレンジの地下室での記憶を呼び起こしていく。ティールとともに地下室の遊園地へ行ったこと。壁に映った自分の影を追いかけたこと。そして、壁に手を触れ、そのまま屋敷の中へと引きずり込まれて行ったこと。どうしたの? というオリーブの声。薄れていく手と思考の感覚。オレンジが両腕で抱きしめていたオリーブの身体は実体を失う。両足がまるで地面と接していないかのような浮遊感。見渡す。ここはオリーブの部屋ではなく、書斎下の秘密の部屋。オレンジがオリーブの名前を呼ぶ。かすかに人の気配。そもそもなぞ私がここにいるの? オレンジが声のする方へ顔を向ける。書斎へつながる梯子。その横には鎖に繋がれた女の子。彼女がゆっくりと顔を上げてオレンジを見つめる。オレンジの身体が固まる。オレンジを見つめる瞳は、アルメラルラ家の人間特有の水色。鎖に繋がれた少女が口を開く。
『よかったね、お別れの前に自分の気持ちをきちんと伝えることができて』
少女の言葉が聞こえてくるとともに、オレンジの意識が、沈んでいった。




