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シエナは書斎にいた。子供が宿るお腹は順調に膨らみつつあり、服装もオーバーサイズのシャツワンピースを着るようになっていた。悪阻も収まり、安定期に入っている。それでも、シエナの心の中は焦りで一杯になっていた。正当な手順ではない妊娠。父親の不在。だからこそ、せめて一般的な妊婦、一般的な母親でありたいと考えていた。お腹の子供が正常に育ち、生まれた後も、真っ当に育ってもらうことが今のシエナにとっては何よりも重要なことだった。
だけど、一般的な妊婦とは、一般的な母親とは一体どういうものなのか。シエナはそれに対する答えを持っていなかった。相談できるような母親もいない。若いメイドや妹たちに頼ることもできない。できることといえば、書物やメディアを使った情報収集くらい。しかし、それらはいわゆる一般的な手順を踏んで妊娠した女性に向けた情報ばかりで、シエナのような特殊ケースについては全くと言っていいほど取り扱ってはいなかった。
シエナは目の前のテーブルに置かれたチョークをじっと見つめる。この前読んだ妊婦向け雑誌の中で、妊娠期のあるあるとしてチョークや鉛筆などを食べたくなるということが書かれていた。その情報を信じ、実際にチョークを用意してみたものの、それを食べたいという気持ちが湧いてくることはなかった。しかし、それが雑誌に書かれていた情報が間違っていたからなのか、それとも自分が普通ではない妊婦だからなのかということはわからなかった。自分が異常で、他の妊婦なら喜んで目の前の石灰石の塊を食べてしまうのだろうか。これを食べることが、一般的な妊婦としての正常な行為だとしたら、せめて行動だけでも他の妊婦と合わせるべきなのではないだろうか。
シエナはそっと右手でチョークを一本手に取り、そのままそれを口の中に運んだ。前歯でそっと先端をかじり、その硬さと粉っぽさに思わず眉を顰めてしまう。それでも、お腹にいる子供のことを考え、自分を奮い立たせると、そのまま目を閉じチョークを口に運んでいく。口の中が感じたことのない不快感でいっぱいになりながらも、それでもシエナは咀嚼し、そのまま一気に飲み込む。そして、目に涙を浮かべならも、机に置かれた残りのチョークを見つめ、そして震える手でもう一本だけチョークを手に取った。
「シエナ……泣いてるの?」
いつの間にか書斎にやってきていたオリーブがシエナに話しかける。シエナはかじりかけのチョークを手に持ったまま振り返り、オリーブの方へと振り返る。
「こんなのじゃなくて……美味しいものが食べたい……」
シエナは不安げなオリーブの表情を見つめながら、涙声でそう訴えた。そのままシエナは目元の涙を拭う。オリーブはシエナに労いの言葉を投げかけながら隣に腰掛け、身体をくっつけた。シエナは出産への不安で表情が強張っていたが、オリーブもオリーブで生来のネガティブ思考で表情全体が雨空のように暗かった。
「隅田川の花火大会を一緒に見ましょうって、スプルース男爵から誘われたの。毎年私の部屋からちょうど綺麗な花火が見えるでしょう? そのことを話したら、彼もぜひ見たいですと言ってくれて、その日にまたこの屋敷にきてくれることになったの」
シエナが男爵と上手くいっているのかを尋ねると、オリーブは多分だけど、花火大会の日に球根をされると思うのとためらいがちに答えた。オリーブの頬は薄く紅潮していたが、唇はうっすらと青い。伏目がちな目が長いまつ毛に覆われて、どこか儚げな感じがした。
「よかったじゃない。順調で」
「確かにそう見えるかもしれないわ。でもね、あの日から不安がどんどん膨らんでいっている気がするの。何か良くないことが起こりそうな気がしてならないの」
「何よ、何か良くないことって」
「死の匂いがするの。誰かが……誰かがこの屋敷の中で死んでしまうような、そんな予感」
突然オリーブの口から飛び出した死の匂いという言葉にシエナは思わず目を見開いた。そして、それと同時に妊娠したあの日、電話越しに工場長がシエナに告げたタロット占いの結果を否応なしに思い出してしまう。この屋敷で誰かが死んでしまう。偶然とも言えるその一致にシエナは驚いたが、それでもいつもマイナス思考なオリーブがこんなことを口にするのは今に始まった事ではないと顔を覗かせた不吉な予感をそっと押し殺した。そんなことはないわ。きっと素敵な花火大会になると思うわ。シエナがオリーブの髪をそっと撫でながら自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
オリーブも優しくたくましい姉の言葉に小さく頷き、それから彼女の膨らんだお腹へ目をやった。自分の甥もしくは姪にあたるその生命に深い畏敬の念を覚えながら、そっと優しくお腹を撫でる。
「オリーブも一緒にチョークを食べましょう。妊婦はチョークを食べるらしいんだけど、一人だとどうしてもきつくて」
「ええ、私にできることならシエナを応援したいから」
そう言って、オリーブが机の上に並べられたチョークへ目をやり、そのうち一本を手に取ろうとする。しかし、手を伸ばしながら、チョークを見つめ、オリーブは小首を傾げた。
「あら、シエナ。さっきまで綺麗なチョークだったのに、いつの間にかどのチョークも真ん中にヒビが入ってちゃってるわ」




