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「処女なのに妊娠だなんて、まだ信じられないんだけど? 」
アルメラルラ家の書斎。オールウレタンのソファに腰掛けたシエナに対してオレンジが怪訝そうな表情で問いかけた。広い長方形の窓からは暖かな陽光が差し込み、絨毯に縫い込まれた刺繍の色が映えている。育児雑誌を開いていたシエナはため息をつき、三脚机の上に読みかけの本を置いた。そして、オレンジの方へ振り返ると持ち歩いてる妊娠検査キットを取り出し、それをオレンジに突きつけた。
「私もね、まさか子供を授かるなんて信じられないわ。でもね、こうして妊娠しちゃってるんだから信じるしかないでしょ」
検査キットの判定窓に表示された赤紫色の縦の線をオレンジは睨みつけるように見つめた。しかし、いくら目を細めても、その赤紫色の線が消えることはない。オレンジの左目に埋め込まれた時計に秒針がカチコチと音を立てる。産むの? オレンジの問いかけに対して、シエナは毅然とした態度で、当たり前でしょと答える。
「私は……反対だわ」
シエナとオレンジが声のする方へと振り返る。そこにはオリーブが立っていて、右手で胸元のリボンを所在なさげにいじくっていた。目元は小さく隈ができていて、疲労の色が表情に出ていた。
「どうしてオリーブ? あなたにも可愛い姪っ子か甥っ子ができるのよ」
「まだ本当に子供が産まれるかなんてわからないし……それに、仮に元気な子供が産まれても、学校でいじめられて辛い目にあっちゃうかもしれないし、不幸な目にあっちゃうかもしれない。可愛い子供たちがそんなにあうことを考えただけで、恐ろしいわ。この世が恐ろしいものだと私たちは知っているのに、罪なき子供をこの世界に産み落とすなんて残酷だと思うの」
オリーブがゆっくりと歩み寄ってきて、シエナの横に腰掛ける。シエナがオリーブの髪をそっと撫でる。オリーブの髪はいつもよりも張りがなく、ご自慢のウェーブも重力に負けてだらしなく垂れ下がっているような気がした。
「あれだけ素敵な人だって舞い上がってたのに、スプルース男爵とうまくいってないの?」
「違うの。その逆。うまくいきすぎて怖いの」
オレンジが惚気てんの? と口を挟んだのに対し、シエナがキッとオレンジを睨みつける。
「スプルース男爵もあなたのことを素敵だと言っていたわ。自分が素敵だと思う人から素敵と思われているのだから、一体何を恐れているというの?」
「私はあの人が好きなんだと思うわ。今まではあの人なしで生きてきたはずなのに、あの人なしの人生なんて考えられないくらいに。だからね、シエナ。もしあの人の身に何があったらと考えるとただただ恐ろしいの。横断歩道を渡っているときに車に轢かれて死んでしまうかもしれない。脳梗塞になって明日突然死んでしまうかもしれない。そんな馬鹿なって思う? でもね、あの人のことを考えるたびにどうしてもそんなことを考えてしまうの。それに、死ぬだけじゃないわ。私のような卑屈な女性よりもセクシーで明るい素直な女性に心惹かれるかもしれない。そしたらきっと私は捨てられてしまう。いや、それだったらまだいいわ。あの人が誰に対しても誠実であろうとして、自分の心を欺いて、義務感だけで私に愛をささやくようになったら……私はきっと罪悪感と自己嫌悪で死んでしまうわ」
オリーブは人差し指で自分の眉間を抑え、そのまま倒れ込むようにしてオレンジとシエナが座っていたソファへと倒れ込む。オリーブの顔は血色を失い、唇は紫色になっていた。そして隣に座っていたオレンジの方へとちらりと視線を投げかけた後で、「この前話したようにあの人がこの屋敷に食べられちゃうことだって大いにあり得るでしょ?」とつぶやく。
「やはりもうちょっと地下室について調べる必要がありそうね。実際、スプルース男爵が被害に遭いかけたのだから、家主である私たちの責任でもあるわ」
シエナの言葉にオレンジが同意する。
「そうね。調査頑張ってね、シエナ」
「そうじゃないでしょ」
「じゃあ、オリーブ? 確かに気が紛れていいかもしれないわね」
「あなたがやるのオレンジ。時計の場所はわかってるんだからそこを避ければいい話だし、そろそろ時間のずれた時計を見ても失神しないようにならなきゃダメよ」
オレンジが深いため息をつく。でも、あんなに広い遊園地のどこをどうやって調べたらいいのかわからないわとオレンジが投げやりな口調で駄々をこねてみるが、自分自身でもそれなら仕方ないとなるわけではないことくらい重々承知していた。
大叔母様があの地下室を作ったとして、それは何の目的があってなのか、というかそもそも目的自体が存在するのかすらわからない。そして何より、大叔母様のことについても、その存在を知っているというだけで、名前や素性すら三姉妹全員が知らなかった。
「そう言えばこの書斎も元々は大叔母様の部屋だったらしいわ。本も家具も、全部大叔母様が収集して、配置したものだってお母様が言ってらしたわ」
そう言いながらシエナが立ち上がり、壁際に隙間なく配置された巨大な本棚へと近づいていく。オレンジとオリーブもシエナにつられるようにソファから立ち上がり、壁際の本棚へと近づいていみる。よく三人で過ごしている書斎ではあったけれど、置かれている本はどれも古書で、たまにこの古書を目的に屋敷を訪れる学者くらいしか利用していない。以前ここを訪れた大学教授が非常に貴重な文献が揃っているので大事になされた方がいいという助言をしたものの、オレンジとオリーブは特に収集されたそれらに対して特別な関心は抱いていなかった。
オレンジは初めてまじまじと本棚に収められた本の背表紙を確認してみた。外国語で記載されて何が書いてあるかわからないもの、百科事典や特定分野の専門用語集、辞書並みに分厚いにも関わらず何十巻も続いている哲学書。それらの本がアルファベット順に、かつ巻数通りに整然と並べられている。真面目に勉強をするのが苦手なオレンジは、背表紙に印字された小難しいタイトルを読んでいるだけで眩暈がしてくるような気さえした。
それでもふと、足元の棚に並べられた本を見た瞬間、オレンジは何かの違和感を覚えた。違和感の招待を確認しようと、オレンジはその場でしゃがみこみ、改めて並べられた本を確認してみる。他の棚ではきちんと巻数ごとに並べられていた外国の百科事典がここだけ順番がバラバラで、なおかつ一部は上下左右がひっくり返っている。メイドか誰かが勝手にここの本を取り出して、適当に元の場所に戻したのだろう。それでも、一度気が付いてしまったらそのままにしておくのも気持ちが悪く、オレンジはバラバラに並んだ時点を並び直していった。
そして、巻数を並べ直し、上下逆になっていた本を戻したその時、オレンジの手から何かのスイッチが入る機械的な振動が伝わってきた。それと同時に、本棚の奥の方から歯車がリズミカルに回る音が聞こえてくる。あまりに急な出来事にその場に固まってしまったオレンジの身体を、慌ててシエナが本棚から引き離す。そして、三人が息を呑んで本棚を見つめる中、歯車の音は少しずつ大きくなっていった。そして、不意に音が止み、オレンジの目の前の本棚が床を引きずる音を立てながら屋敷の壁へとゆっくりと沈み込んでいく。
本棚の下には、長方形の形をした扉が隠されていた。縁は銀色の塗料が塗られており、扉の真ん中にはアルメラルラ家の紋章が掘られている。
「そんな……ベタな」
オレンジがぽつりと呟き、隣に立っていたシエナとオリーブがこくりと頷いた。




