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アルメラルラ家の三女オレンジにとって、全部で百八個ある屋敷の置き時計のたった一つでも時刻が間違っていれば、それはもはや地球単位で時間がぐちゃぐちゃになっているのと同じことだった。
オレンジは、三階の東側の廊下に置かれていた置き時計の針が半日前の時刻を指差しているのをうっかり見つけてしまい、その場に泡を吹いて倒れてしまった。オレンジが気を失ったことで、書斎のシャンデリアが明滅し、そこで本を読んでいた長女のシエナはまたかと小さくため息をつく。同じく書斎にいた次女のオリーブはというと、なぜかそのタイミングで数ヶ月前に交際破棄を言い渡されたライトグレイ伯爵との思い出がフラッシュバックし、そのまま泣き出してしまう。
「愛してるって言ってくれたのに!」
オリーブの言葉に被さるように、屋敷のどこからかメイドが鈴を鳴らす音が聞こえてきた。遅れて数名が階段を登っていく足音がくる。それからしばらくして、上半身と脚を二人のメイドに持ち抱えられたオレンジが書斎の中へと入ってくる。シエナはメイドにお礼を言った後で、そのままオレンジを書斎のソファに横たわらせた。ベルベッド生地のソファがオレンジの重みでへこむ。シエナはオレンジの顔をのぞきこみ、両頬をペチペチと優しく叩いた。すると、オレンジはうーんとうめき声を上げながらゆっくりと目を開ける。
「おはよう、オレンジ」
「おはよう、シエナ。今って何時?」
「一大事よ」
シエナはオレンジのウェーブが髪を左手で梳き、彼女の目を覗き込んだ。オレンジの右の瞳には眼球の代わりに小さな時計が埋め込まれていて、秒針がカチコチと音を立てながらゆっくりと回っている。エメラルドグリーンの瞳の周りをぐるりとローマ数字が記されていて、白目の細かな欠陥すらも時計の紋様のように見えた。オレンジがまばたきをする。再び開かれた瞳の中でも、秒針は変わらずに時を刻み続けていた。オレンジは身体を揺り動かしながら、肩まで伸びたブロンドの髪を手で梳かし、喉仏を器用に鳴らした。
「三階の……三階の時計の時間が狂ってたの」
「寿命なんでしょう。仕方ないわ。お手伝いさんたちも忙しいんだから、気がつかなくっても責められないわ」
「シエナは許せても私は許せないわ。生つめを剥いで、小指をハンマーで叩き潰して、子宮を穿り出して一生子供を産めない身体にしてやりたい」
「あれだけダメだって言ってるのに、またお父様のスプラッター映画を観たのね」
同じ書斎にいたオリーブはまだ泣いていた。彼女が咳き込み、嗚咽が部屋の中に響き渡る。シエナはため息を付き、小柄なオレンジを抱きかかえてオリーブの座り腰掛ける。それからシエナは幼いオレンジを膝の上に座らせて、オリーブとオレンジを交互に見つめた。シエナがこほんとわざとらしく咳をし、嘆かわしい表情を浮かべて愛する二人の妹へ優しく語りかける。
「お父様とお母様が残してくれたこのお屋敷と財産を受け継ぐものとして、私達はあまりにも品位に欠けているわ。そうは思わない? それに最近になってこのお屋敷もなんだか様子がおかしいし」
「品位? 処女であばずれのシエナからそんな言葉が出るなんて、きっと明日は空から木星が降ってくるわ。地球の危機ね。考えただけでおぞましいわ」
「そんな軽口を叩いてる暇はないの。オレンジ、オリーブこれを見てくれる?」
シエナはメイドを呼びつけ、例のものを持ってくるように伝える。そして、メイドは恭しくお辞儀をし、別の部屋から何かが入っているブランド物の紙袋を持ってきた。シエナは紙袋を受け取り、中に入っていたものを取り出す。
シエナが取り出したのは、人間の左腕だった。肌は白く、潤いに満ち、染み一つない。五本の指は細長く、爪は血色の良い桜色をしていた。シエナが左腕を机に置くと、興味を惹かれたオレンジが身体を乗り出し、その左腕を手に取った。彼女は両手で左腕を撫で回し、指と指を開き、そこに刻まれた皺一つ一つをじっくりと観察した。それから左腕の断面部分を目の前に持っていき、そのグロテスクさに思わず顔をしかめる。
「この左腕はね、今朝、何年もの間誰も入っていない地下室の扉の前に落ちてたの。この腕には見覚えがあるし、おそらくメイドのモカシンのものだと思うわ」
シエナがふうとため息をつく。この屋敷に地下室なんてあるの? とオレンジが尋ねると、シエナはこの屋敷のことを全部知ってる人なんて誰もいないでしょと突っぱねる。
「とにかく、モカシンが何らかの用事で地下室に行って、そこで何かがあったと考えるべきでしょうね。アルメラルラ家の人間として放ってはおけないわ」
「シエナ。この左腕はモカシンのものじゃないわ。多分、プラムのものよ」
オレンジが手に持った左腕をちらりと見たオリーブが、シエナにそう伝える。
「そんなはずはないわ。その人より細長い指はモカシンっぽいもの」
「でも、この親指の付け根部分にほくろがあるでしょ。これはプラムの左腕よ」
「いや、モカシンよ」
「プラムだって」
「モカシンよ」
「プラムだってば」
「全員集合!!」
シエナがパンパンと手を叩くと、屋敷中のすべてのメイドが三人のいる書斎へと集まってくる。扉の前にメイドが一列に並び、シエナがメイド一人ひとりに自分で自分の名前を点呼させていく。
「そういえばだけど」
十名いるメイドたちの名前をすべて聞き終わった後、シエナがつぶやく。
「この屋敷にはモカシンという名前のメイドも、プラムという名前のメイドも存在しないわ」
解散。シエナが再びパンパンと手を叩く。それを合図にメイドたちは各々の作業場へと散り散りに向かっていった。オレンジが左腕を机の上に放り投げる。左腕はコツンと音を立てて机の上に着地し、それが痛かったのかその反動で指先がピクピクと動いた。シエナは勝手に動いた左腕をパシャリと叩いた後で、オレンジに対して語りかける。
「オレンジ。あなたも十三歳になんたんだから、アルメラルラ家の人間としてこの屋敷の管理を行う義務があるわ。明日にでも地下室へ行って、何か変なことがないか確かめてきて」
シエナの言葉にオレンジが不満の声をあげ、反射的に立ち上がる。ふわりとオレンジのフリルスカートの裾が浮き上がり、一部が机の角に引っかかった。
「何で私が! 可愛い可愛いアルメラルラ家の末っ子が左腕だけになってもいいわけ?」
「仕方ないでしょ。私は仕事で忙しいし、オリーブは……ほら、失恋の痛みから立ち直ってないわけだから。そうでしょ、オリーブ?」
シエナが問いかけると、オリーブはこくりと頷き、それから両手で顔を覆っておいおいと泣き始める。嘘泣きのくせにとオレンジが悪態を付き、そのままシエナを睨みつける。
「そういえば私、聞いたことあるわ。このお屋敷の地下室には大叔母様の幽霊が住んでて、捕まえた人間をステーキにして、蜂蜜をかけて食べるんだって」
「例え幽霊になってたって、大叔母様が自分の親戚を襲うはずはないわ。それに一人が怖いなら、猫のシーグリーンでも連れていったらいいでしょ。最悪、猫を囮にして逃げればいいんだから」
オレンジが反論しようとしたそのタイミングで、開いた書斎の窓から一機の紙飛行機が入り込んでくる。紙飛行機はくるくると旋回を行い、長い時間をかけてテーブルの上へと着陸した。シエナよりも早く、オレンジが手を伸ばし、その紙飛行機を手にとった。それから破かないように慎重に紙飛行機を開いていって、一枚の紙となったそれを机の上へと広げる。折り目部分を丁寧に伸ばし、オレンジが紙に書かれた言葉を読み上げる。
「『アルメラルラ家の屋敷にて、壁倒立』って書いてあるわ」
「それが今日の私のお仕事ね。せっかく時間をかけてカジュアルドレスを着たのに、最悪だわ」
シエナが顔をしかめる。それでもシエナは立ち上がって、部屋の壁へと近づいていく。
「前から聞きたかったんだけど、なんでこんなことがお仕事になるわけ?」
「需要と供給よ。子供にはわからないかもしれないけど、大人になったらきっと理解できるわ」
シエナが壁の目の前で両手を床につける。そして、二人の妹が見守る中で勢いよく足で床を蹴り上げる。その勢いのまま、シエナの両足が広間の壁に音を立てながらぶつかり、そのままの状態でもたれかかった。そして、額にはりついた前髪を片手で器用に払い除けた後で、シエナが叫ぶ。
「犬神家!!」
シエナが脚を開く。シエナが着ていたカジュアルドレスのスカートが垂れ下がり、そのままシエナの顔を覆い隠した。