根國底國
コトリ。コトリ。
その音は静かな街並みの中で思いの他、辺りに良く響いた。
夕闇が迫る中、街角の端々に輝石を置いてゆく美少女。僕は思わず目で追っていた。中世の物語から抜け出てきたような綺麗な街並みの中欧のこの国に来て長いことになるが東洋系の娘を見かけることは稀だった。
永住権。期限が定まっていないというだけで決してその国の国民と認められた訳ではない。小さな頃からの知り合いに囲まれ息苦しい狭い日本から、誰も知らない世界に行ってみたいと僕はずいぶん昔に日本を飛び出し、数ヶ国を転々とした後、この街に流れ着いた。日本に似た素朴な人情に篤いこの街の人々、特に隣近所の人々は僕に本当に良くしてくれるものの生まれも育ち(バックグラウンド)も全く違う人達に囲まれ、僕はいつも寄る辺ない疎外感に身を置いていた。
初恋の人-マリにそっくり。優しかったマリ。僕に好意を持ってくれているのは判っていたが、狭い世界から出てゆくことばかり願っていた僕はマリの方を見ずに海外に飛び出してしまった。疎外感に苛まれているとマリを良く思い出すが、今日はどうしていつもよりマリのことが思い浮かぶのだろうと、思わず彼女を見つめていると不意に迫ってきた彼女に「見たわね。」とデコピンされて気を失った。彼女が間合いを詰めて来るのが全く見えなかった。
*
気が付いた時には、元の場所と同じだが人気が全くない、どこか透明感のある静謐で不思議な場所だった。やがて気が遠くなって僕は再び意識を失った。
再び目が覚めた時にはレンガ造りの建物の一室のベッドに寝かされていた。全身気怠くて体を動かすことが出来ない。ベッドの傍らにはあの娘が座っていた。
「マリ?」
「マリでいいわよ。」
彼女は僕を見て、にっこりとしたが自分の本当の名前を明かさなかった。
少し経って、(マリの介抱もあって)僕は身動きが取れるようになった。
ベッドから立ち上がって窓を開けて外を見て、また愕然とする。まだあの人気のない静謐な場所に閉じ込められていた。
振り返るといつの間にか部屋に入って来ていた数人の黒尽くめの服装の男達が立っていた。深いフードをかぶっている為、彼等の表情はおろか、顔形も杳として伺えない。僕は流暢な、しかしどこか機械的な日本語を話す彼等に脅される。
-彼等の要求はこうだ。
僕が勤める部外者立入禁止の場所-国家権力関連の施設が立つ場所に幾つかの輝石を置いて欲しい。我々は入ることが出来ないが、永住権を持ち、その施設に勤める僕(と言ってもその施設の管理・警備要員というだけだが)はその場所に輝石を置くことが出来るはずだ。
協力を約束できないのであれば、元の場所に帰すことは出来ない。この「白い部屋」は人工的なもので水や食料はおろか空気を無くすことも出来る。もし裏切った場合、この場所に再び閉じ込める。
逡巡していると僕の周りの空気が急に薄くなった。意識が遠のいてゆく。
「白い部屋」いやこの静謐な世界から抜け出す為には彼らの要求を呑む他なかった。
僕の監視者としてマリが残された。
*
「君達はこの輝石で何をしようとしているんだ?」
僕は輝石を掌の中で転がしながらマリに聞いた。
微細化技術の発達した今日、一見何でもないように見えるものが実は高度な電子デバイス、例えばGPSやカメラといったようなものであることが良くある。
暫く行動を共にした後、マリはポツリポツリと話してくれた。
国土を持たない流浪の民の宿命だろうか、彼等は、輝石を要所に設置し、現実世界と量子世界とを裏返すことで、2つの世界大戦の戦間期にかつて確かに存在し、その後の混乱の中で失われた彼等の国土をその手に取り戻そうとしていた。
量子世界。複数の事象が重ね合わさって存在している量子の状態を物理世界にまで人の力で拡張したもの。領土紛争のある地域の現実世界を多重化することで争いを無くせる可能性がある一方、量子世界を通じてトロイの木馬のように相手に気付かれることなく現実の紛争地帯に軍隊をも送り込めるため、逆に争いを激化させる恐れがあるともいわれていた。
輝石-持ち去られないよう、何の変哲もない石に見えるように汚してある-は現実世界と構築される人工世界(量子世界)を結び付ける鍵であり、他の者達も都市の要所に人知れず設置していた。
中世の物語から抜け出てきたようなこの街も大陸の中にあるだけあって、歴史上様々な民族がその時代時代において支配してきた。
「この教会の下には、礎となった私たちの聖堂がある。ここには市場があったの、そこには・・・が。皆、私達の街だった。ほら今なら見えるでしょう?」
僕と一緒に街を歩きながら、マリは踊るように跳ね、歌うように言った。
人知れず設置されている輝石の効果で、彼女にとって本来あるべきこの街の姿が水面に映るようにうっすらと透けて見える。
マリの輝く笑顔を見ると本物のマリのことを思い出す。
マリが本当に大変な時、遠い異国の地に居た僕は彼女の傍に居てあげることが出来なかった-。
僕は自分の手の中の冷たい輝石を失ってしまった何かのように固く握りしめた。
マリに聞かれて日本のことを話す。
―四方を海に囲まれていること。人々は似たような顔で同じ言語を話し、どこに行っても同じ風景で、変わらないという閉塞感があること等。
「国家と民族・言語が一致していることは幸せなことなのよ。」
と僕は逆にマリに諭される。
-そう。マリ達の民族は数多の民族が興亡を繰り広げるこの中欧の大地に根差し、揉まれ藻掻いている。
*
輝石は施設の出入口にある異物検出センサーに反応しなかった。一度、施設内に持ち込んでしまえば、監視カメラ等がどこに仕掛けてあって、どの方向を見ているかを知り尽くしている施設の警備員である僕が監視カメラ等を避け人目につかず彼等が要求している場所に輝石を幾つか置くことは、少し時間は掛かったが非常に簡単な作業だった。
僕はノルマとなっていた輝石を置き終わった。役目が済んだ僕とマリとの仮初めの関係も終わる時が来た。
脅され、監視されているとは知っているもののマリと過ごした短い時間は僕にとってかけがえのないものだった。
最後の別れ際にマリが言う。
「実は私のこの顔、その姿も貴方に合わせたものだったのよ。」
マリの容姿や声音、仕草等も僕の好みに合うように-僕の記憶の中に居るマリによく似るように-量子迷彩が施されていた。
「知っていたよ。」
僕は言う。
-何故なら、中欧の様々な民族が交錯したこの街の先住民族が生粋の東洋系であるはずがなかった。
「それでも亡くなったマリにまた会えたようで僕は嬉しかった。」
最後に僕は哀しそうにマリに微笑む。
マリもまた微笑み返してくれる。
「さようなら。」
「さようなら。」
民族も人も他の人の記憶から消えた時が本当の死。やり方には問題はあるかも知れないが彼女達の民族は失われつつある自分達の記憶=歴史を取り戻そうと必死にもがいている。
一方、僕は昔あれ程、鮮明に細かいところまで覚えていたはずのマリの声や何でもない仕草、香り等を今でははっきりと思い出せなくなりつつある。薄れゆく本物のマリの記憶を僕は今回の出来事で自分の中にどれ程、繋ぎ止めることは出来たのだろうか?