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彼女の続き  作者: 鮎彦
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第6節 その後のことはあまりよく覚えていない。

 その後のことはあまりよく覚えていない。

 自分でも捕えがたい感情の奔出が、惑乱が心を埋め尽くし無意識裡に両足を動かした。

 俺は行先も決めぬまま歩き続けたようだ。

 覚えているのは、歩きながら、自分の身体を駆り立てているこの感情は何なのだろうかと問い続けていたということだけだ。

 ようやくその正体を掴めたのは、ビルの屋上から何キロも離れた自分の家の前まで歩き着いた後だった。

 それは欲望だった。

 秋津の肌を覆ったあの文字を、どうしても読んでみたいという欲望だった。

 本を読みたいなどと一度も思ったことの無かった自分が、これほどまでに文字を読みたいと感じるのは初めてのことだった。

 たしかにあの文章を読めば爆発に関する何らかの秘密を得ることができるという確信めいた予感はあった。

 しかしその欲望はそういった理由以前の、俺の内のもっと衝動的な部分から来ていた。

 それは渇いた者が水を求めるような、純粋な情動なのだった。

 俺は何としてもあの文章を読みたいと思った。

 しかしどうやって読めばいいのだろうか。

 秋津に直接頼む?

 そんなことをしても断られるに決まっている。

 人に見られたくないからこそ彼女はわざわざ肌を隠していたのだろうから。

 ではどうすべきか。

 それはもう勝手に読んでしまうしかない。

 勝手に、それも彼女に気づかれないようにこっそりと読めれば一番いい。

 それならば彼女が傷つくことも無いだろう。

 気づかれぬように、かつ最後まで彼女に悟られぬまま文章を読み終える。

 そうすればよいのだ。

 だがそんな上手いやり方があるだろうか。


 俺はネットで睡眠薬について調べた。

 そして医薬品の個人輸入代行サイトを見つけると、そこで睡眠導入剤を注文することにした。

 支払いには母親のクレジットカード番号を使った。

 カード明細には履歴が残るだろうが大して高価なものでも無いから母親にバレずに済むかもしれない。

 もしバレたとしても、学校生活の悩みで眠れないから注文したとでも言い訳すればいい。

 人のいい母はおそらくそんな説明でも納得するだろう――実際は自宅謹慎中から今に至るまで快眠が続いていて眠れなくなったことなど無かったのだが。

 一週間ほどすると自宅に薬が届いた。

 俺はまず母親でその効果を試してみることにした。

 夕食のとき、2回分の量の錠剤を砕いて母の飲み物に溶かして飲ませてみる。

 するとすぐに効果が現れた。

 母は急な眠気に襲われてソファーに横になると寝込んでしまった。

 俺は大きな声で呼びかけたり身体を揺すってみたが母は一向に目を覚まさない。

 結局、母が起きたのは数時間経ってからのことだった。

 俺は薬の威力に満足した。

 これほどの効果ならば秋津に使っても目的を果たすだけの時間を稼ぐことができそうだ。




 計画の実行日に決めていたその日、秋津はいつもどおり家から飲み物を入れた水筒を学校に持って来ていた。

 俺は教室が一時的に無人になる教室移動の時間を見計らい、彼女の水筒の中に細かく砕いた睡眠薬を入れてよく振っておいた。

 音楽の授業が終わると俺と秋津を含むクラスの一同は教室に戻って来る。

 自分の席に着いた秋津は何の疑問も抱かず水筒を取り出して中身を飲んでいた。

 次の時間の授業が始まる。

 するとほどなくして秋津は大きく船を漕ぎ始めた。


「秋津さん、大丈夫ですか?」


 見かねた先生が声を掛ける。


「は、はい。すいません。

 大丈夫です……」


 秋津はそう言ったが返事は聞き取れないほど小さかったうえ頭はふらふらと揺れていた。


「そんな状態で授業を受けても仕方ないでしょう。

 体調が悪いなら保健室で休んできなさい」


 先生は諭すように言った。

 生真面目な秋津はしばらく逡巡していたが、強い眠気に抗しきれなかったのだろう、やがて授業を中抜けして保健室に向かっていった。

 俺は少し時間を空けてからトイレに行くと言って授業を抜け出した。

 保健室の前まで来ると廊下に誰もいないのを確認してからそっと中に入る。

 部屋の中には予想通り保健室の先生の姿は無かった。

 事前に先生の勤務予定を調べていて、その日保健室に誰もいないのは分かっていたのだ。

 俺はなるべく音を立てぬように戸を閉めると内側から鍵を掛けた。

 保健室の中は嗅ぎ慣れぬ薬品の匂いに満ちていた。

 グラウンドからの強い日差しを避けるために窓は全てベージュのカーテンに覆われている。

 外から見られる心配が無いのはよいが、逃げ場の無い部屋の空気が容赦なく温められ汗ばむような室温になっていた。

 入口の近くには保健の先生が使う事務机、職員室にあるのと同じような地味で無機質なもの、が置かれていて教師の机の例にもれずその上にはプリントや本などが乱雑に積み上げられていた。

 机のそばには鍵の掛かった薬品棚、そしてその奥にはステンレスの流し台が銀色の鈍い光を放っていた。

 部屋の中はしんとしていた。

 耳に入ってくる音といえば、暑さからくる息苦しさで深く大きくなった自分の呼吸の音だけだ。

 俺は秋津の姿を求めて部屋の奥に目をやる。

 奥にはパイプ製のベッドが二つ並んでいた。

 ベッドと、それに付随する目隠し用のパーテーション、カーテンなどを合わせて部屋のほぼ半分のスペースが占有されている。

 片方のベッドの上には畳まれた茶色い毛布が乗せられているだけで寝ている者はなかった。

 もう片方のベッドはパーテーションの陰になっていて自分のいる位置からはよく見えない。

 俺は足音を立てぬよう部屋の奥に進んで行った。

 ベッドが近づくにつれマットレスの上の状況が徐々に分かってくる。

 まず最初に視界に入ってきたのは黒いストッキングに覆われた細く長い脚だった。

 歩を進めていくと、ついでプリーツの入ったスカートの裾、白いブラウス、そして最後に秋津の白い顔が現れた。

 彼女は仰向けの状態で眠っていた。

 暑さのためか汗ばんだ額に濡れた前髪が幾束か貼りついている。

 普段ならば白磁のような頬も()()赤く染まっていた。


「……秋津」


 俺は呼びかけてみた。

 しかし秋津は何の反応も示さなかった。

 次に彼女が横たわるマットレスを手で掴むと揺らしてみる。

 最初は弱く、そして徐々に揺れを強くしていく。

 その間、顔をじっと観察していたが彼女は眉一つ動かさなかった。

 あまりに反応が無いので俺はもしかしたら秋津は呼吸していないのではないかと疑った。

 しかし胸を見てみれば小ぶりなふくらみがゆっくりと上下動していたので、彼女がまったく昏倒するように深く眠っているということが分かった。

 俺は何度か深呼吸して息を整えると、意を決して彼女の服に手を伸ばした。

 まずブラウスのボタンに手をかける。

 一つずつボタンを外し始めたが、極度の緊張で手が震えるのと人の服を脱がすのが初めてなこともありひどく手こずった。

 長い時間格闘してようやく全てのボタンを外し終える。

 するとブラウスの下から例の黒いインナーが出てきた。

 俺はそこで再び秋津の表情に変化が無いか観察する。

 彼女は相変わらず何の反応も示していなかった。

 よほどぐっすり眠っているものと見える。

 その様子に気を強くした俺は、多少強引にしても気づかれないだろうと()()を括った。

 黒いインナーの裾に手を掛けると思い切って脱がしにかかる。

 一気に脱がせてしまいたかったが、汗のせいでインナーが肌に貼りついて上手くいかない。

 服が引っ掛かる度にぐいぐいと勢いをつけ直さねばならず、いくらぐっすり眠っているとはいえ秋津が目を覚ましはしないかとひやひやした。

 やがてどうにか相手を起こさずにインナーを脱がし終えた。

 俺は秋津の肌を初めて間近に見た。

 白い肌の上には、やはり均一な大きさの文字がびっしりと並んでいた。

 しかも全ての文字が同じ向きに、直線的に敷き詰められているのだった。

 やはりこれは文章だ。そう思った。

 そしてこうも思った。

 文章であれば必ずどこかに文のはじまりがあるはずだ。それを探さねばならない。

 俺の視線は彼女の上半身をくまなく走査した。

 そして見つけた。彼女の首筋、鎖骨の上のあたりに。

 隙間なく体表を覆っている文字の列から、まるで離れ小島のようにふたつの言葉の塊が遊離してあったのだ。

 俺は直感的に、それらがこの文章の「タイトル」と「作者名」であることに気づく。

 そうであるなら作者名から1行分空けて始まる文章の端が本文の書きだしであり、そこから読み進めていけばよいのだろう。

 いよいよ目的を達する目途がついた。

 心臓が慄くのを感じる。

 しんとした部屋の中、自分の体内で反響した心音だけが内耳を満たしていた。

 先ほどから部屋の中がひどく暑い。まるで温室の中にいるかのようだ。

 意識がぼうとして自分の置かれている状況に現実感が無かった。

 加藤は希薄になっていく現実を再確認するかのように秋津に手を伸ばした。

 彼の手が少女の首筋に触れる。


「んっ」


 半開きになっていた秋津の口から吐息が漏れた。

 加藤は自分の内であの欲望が湧き上がり渦巻くのを感じた。

 彼は人差し指の先を「タイトル」に押し当てる。

 そしてその5文字をゆっくりとなぞった。

 不思議なことに指先を通して汗の塩気や、インクのようなほのかな甘みを感じ取れるような気がした。

 加藤の指は舌だった。

 彼はゆっくりと、一文字一文字を舌の上で味わうように、秋津を読み始めた。


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