インスタントカレー
あたためたカレーをご飯にかけたところまでは覚えている。そこからの記憶がない。気がつくと俺は見知らぬ街角に立っていた。
見知らぬ、と書いたが、それでいてどこか懐かしい。子供の頃に遊んだおばあちゃん家のある港町にどこか似ている。ただ決定的に違うのは、歩いている人達の衣服が皆、まるで原始人のように簡素なことだった。
「あのぅ、すいません」
俺は側にいた老婆に声を掛けた。
老婆の返事は簡単なものだった。
「あんた、デジタル時代から来なすったね?」
「ここはどこですか?」
俺は続けて聞いてみた。
老婆の答えは親切なものだった。
「ここはあんたからすれば未来の日本だよ」
面倒臭い過程をすっ飛ばし、俺はたったの二言ですべてを理解した。
俺は未来にタイムワープしたのだ。
「ウチ寄ってくかい?」
老婆の言葉に俺は大変喜んだ。昼飯のカレーを食い損ねたので腹ペコだったのだ。
「インスタントカレーしかないけどいいかい?」
「喜んで」
老婆の出してくれたものを見て、俺は一瞬、手が止まった。
てっきりお皿の上にあったかい白飯が乗った上に、あたためたカレーのかかったものを、スプーンで食えると思っていたら、違ったのだ。
まずお皿がない。ご飯もなければカレーもない。まん丸い白いタマゴのようなものがドンと、銀色のプラスチックっぽいテーブルの上に置かれていた。
ははぁ。これを真ん中からパカッと開けたら中にカレーライスが入っているんだな? 開けた瞬間にあっためられて、すぐに食べられるようになっているんだな? 未来のインスタントカレーはさすがだなぁ、と思って開けようとしたが、どこにも開きそうな切れ目がない。俺は仕方なく、恥を忍んで老婆に聞いた。
「あのぅ、これはどうやって……」
「あぁ、そうか。あんた昔の人だもんね。わかんないよね」
ちょっとイラッとした。話の早い人だと信頼していた老婆の俺評価が下がる音がした。
「まず食べたいカレーのイメージを頭に思い描くんだよ」
「はぁ……」
「思い描いたらカレーのパスワード、つまりka1986E73をそこにクロスさせる」
「は?」
「そしてカレーエッグに指でクロスさせた亀裂を入れればいいだけさ」
「意味がわかりませんが」
「私がやったって仕方ないんだ。手取り足取り教えてあげるから、やってごらん」
俺は背中にくっついた老婆と一緒に、二人羽織みたいにしてそれをやった。パスワードのEは大文字だよ、間違えるんじゃないよ、とアドバイスしてくれる老婆の息が首筋にかかった。
なんとかインスタントを展開すると、タマゴが割れ、破片となったものが俺のほうへすべて飛んで来た。それが脳にカレーライスを作り、俺はそれを堪能することが出来た。この世のカレーではないくらい美味かった。しかし、1人でもう一度やれと言われても無理。
「食後のコーラ、飲むかい?」
「いただきます」
「インスタントだけど」
「インスタントコーラ!?」
俺はまた老婆にパスワードを聞き、タマゴを展開することに成功すると、適度に冷えたコーラの炭酸と甘味を脳内でジュワジュワと堪能した。
「しかしなんで何でもこんなに面倒臭いんですか」
「面倒臭いことあるもんか。タマゴがあれば何でもインスタント展開できるんだよ。まぁ、本物が懐かしくなる時もあるけどね」
「パスワードを忘れちゃったらどうするんですか」
「あんた、名前は何てんだい?」
「あ。申し遅れました。私は竹田ゆうじと言いまして……」
「面倒臭い挨拶は抜きだよ。あんた、自分の名前を忘れたりするかい?」
「え?」
「生年月日を忘れたり、九九を忘れたりするかい? 物の名前を忘れるかい?」
「えーと……たまに」
「同じことだよ。ド忘れさえしなきゃ、パスワードだって忘れるわけない」
とりあえず俺は元の世界に戻れるまで生活しなければならない。老婆にあまりお世話になるわけにも行かないので就職することにした。
インスタント就活は俺には難しかったので、『アルバイト募集中』とだけ書かれた紙の貼ってある建物をノックした。
「トカゲのしっぽだけを赤く塗る仕事だよ」
玄関口に現れた老婆にそう言われると、俺は即採用された。
(続く)