異端と怪物
薄暗く、不気味な森を進む。バサバサと羽音を立てて鳥は飛び立ち、蝶はひらひらと怪しく舞う。明かりは僅かに差し込む木漏れ日だけ。木々の香りが延々と漂う中、私は一人で足を進めていた。ここまで来てしまったらもう戻れない。来た方角にある城を一瞥し、すぐさまフードを深く被り歩みを速めた。
「なんて醜いの」
昔から周りの人に言われてきた言葉は私の心をまるで呪いのように蝕んだ。生まれつき右目にあるのは火傷のような痣。幼い頃に飲まされた毒の影響からか髪は色素が抜け落ち、爪も黒く変色している。醜い。バケモノ。もう嫌になる程聞いてきた言葉だ。そんな言葉から逃げてしまいたかった。
どれほど歩いたのだろうか。すでに城は見えなくなり、僅かにあった木漏れ日もほとんど見えなくなってしまっている。か細く光る虫たちを頼りにさらに足を進めると、拓けた場所に一軒の小屋が見えた。一晩だけでも泊めてもらおうとその小屋に近づく。新しく建てられた様子では無いが、手入れが行き届いているからか古さを感じないような小屋だ。庭には赤い薔薇が美しく咲き誇っていた。扉の前に立ちノックをする。しかし、中からは物音一つ聞こえてこなかった。不思議に思ってもう一度ノックしようとした時だ。
「迷い人か?」
地の底から響くように低く不気味な声がすぐ後ろから聞こえた。ゆっくりと振り返ると、そこには野獣と形容するに相応しい獣が立っていた。およそ2メートルはあるであろう巨体は身体中毛で覆われ、爪は鋭く口から僅かに覗く犬歯はこちらを食いちぎらんかのように怪しく輝いている。そして一際目を引くのは野獣の瞳だった。吸い込まれそうなほど澄み切った紅が爛々と輝いている。そんな野獣を前に私は思わず後ずさった。私の様子にどこか悲しそうな瞳を見せた野獣は私に問うた。
「やはり、恐ろしいか」
低く不気味な声なのに、酷く泣きたくなるほどに優しい声だった。
「……ごめんなさい」
「気にするな。この恐ろしい見た目が悪いのだ。それよりも、道に迷ったのか」
「いいえ、あてのない旅をしていて……どうか一晩泊めていただけないかしら?」
「それはかまわない。どの道今日はもう遅い。だが、恐ろしくないのか?」
答えに詰まってしまった。怖くないと言ったら嘘になる。しかし、私は野獣に同調してしまったのだろう。
「見てください、この顔を」
そう言って私はそっと目深に被っていたフードをとる。
「恐ろしいでしょう?」
野獣が息を飲んだのが分かった。やはり野獣であろうとも恐ろしいのだろう。今更何を言われても大丈夫。心に言い聞かせて野獣の返答を待った。しかし、いくら待っても私を卑下する言葉は返って来なかった。代わりに野獣はそっと私の頰に手を添えて私の顔を覗き込むようにして言った。
「君は綺麗だ」
その瞳は嘘をついているようには見えなかった。声からも、嘘は感じられなかった。生まれて初めて貰った言葉。生まれて初めてこんなにも真っ直ぐに私を見てくれた。胸が破裂してしまいそうだ。私は野獣から目を逸らす。そしてまだ大切なことを聞いていないと思い出した。
「あなた、名前は?」
野獣はしばらく考え込むような仕草を見せた。そして少し経った後、その大きな口を開いた。
「名前……好きなように呼んでくれて構わない」
「もしかして、名前が無いの……?」
触れてはいけないことだっただろうか。しかし、いくら後悔してもすでに後の祭りだ。
「無い……わけではないと思うが、忘れてしまったよ。もう久しく呼ばれたことがないからな」
「それなら、私があなたに名前をあげましょう」
その言葉を聞いた野獣の瞳は驚きに満ちていた。
「もしかして、迷惑だったかしら……?」
「いや、迷惑ではない。確かに、名が無いのは不便だからな」
「良かった、それでは……」
野獣の瞳をじっと見つめる。吸い込まれそうなほど深い赤。
「レッド、と言うのはどうかしら?」
「レッド……」
小さく口の中で転がすように野獣は呟いた。
「気に入らなかった?」
「いや、気に入ったよ。ありがとう。今日からレッドと名乗らせてもらうよ」
「私はローズ。よろしくね、レッド」
レッドに手を差し出す。それを見たレッドはきょとんと首を傾げた。
「握手よ。知らない?」
「いや、そんなことはないが……」
恐る恐るといった様子でレッドは私の手を握った。温かく大きな手が私の手をを包む。
「よろしくね」
「ああ。さあ、中に入ろう」
レッドに促されて小屋の中に入った。
中には人一人が暮らせるほどの広さだった。中央には丸いテーブル、その横には大きな椅子。テーブルの上には赤い薔薇の花が綺麗な薄水色の花瓶に生けられていた。奥には小窓、窓の側にはベッド、部屋の側面にはクローゼットがある。異様さを漂わせていたのは扉の側にある洗面台の割られた形跡のある鏡だ。割れた鏡を修復した跡がありそれがさらに異様さを引き立たせていた。
「ここを自由に使うといい」
「あなたは?」
「この近くに別の寝床がある。そこを使うさ」
「そう……」
「では、いい夢を」
そう言ってレッドは扉を閉めて行ってしまった。とりあえず、クローゼットにローブを掛けさせてもらおうとクローゼットの扉を開けた。すると中から一冊の本が中に鎮座していた。
「これは……」
見覚えのある本だった。小さい頃よく読んでいた本だ。村で一番の美女が野獣と恋に落ち、やがては結ばれ野獣も人間に戻れるハッピーエンドの物語。心が綺麗な二人だからたどり着いた結末だ。でも私の世界に心が綺麗な人なんていなかった。そっと本の表紙を撫でる。何度も読まれているようで所々ボロボロになってしまっているが、大切にされていることが分かった。本はそのままにクローゼットにローブをしまう。ベッドに横にならせてもらい大きく息をついた。明日からどうするか。ここまで来れば城まで距離がある。そしてなによりも、レッドともっとお話をしてみたかった。私と同じ本を持っている彼をもっと知ってみたい。獣のような風貌の彼だったが、誰よりも優しい目をしていた。それに、彼の口から出た「綺麗」という言葉。それが耳から離れていかなかった。そっと目を閉じる。今は明日の不安よりもあの城から出ることが出来た。その幸福感に包まれていた。
翌日、コンコンと控えめにノックする音で私は目が覚めた。ベッドから降り扉を開ける。するとそこにはレッドが立っていた。
「おはよう、レッド」
「おはよう、ローズ」
「ありがとう、お陰様でよく眠れたわ」
「それは良かった。この果実、朝食にどうかな?」
レッドの手にはたくさんの果物があった。どれも先ほど収穫したかのように瑞々しい。
「ありがとう。とても助かるわ!」
ありがたく両手いっぱいの果物を受けとる。
「それと、クローゼットにあった本のことだけれど……あなたも本が好きなの?」
「あ、ああ。生憎あの一冊しかなくてね。何度も読み直しているのさ」
「そうなの……」
「もしかして、ローズはたくさんの本を知っているのかな?」
赤い瞳がキラキラと輝いていた。まるで子供のように輝くその様子がおかしくてつい笑ってしまった。
「むっ、やはり変だっただろうか?」
「いいえ、違うの。子供のようで、可愛らしくて……」
「そ、そうか……」
どこか腑に落ちないような表情をレッドは浮かべていた。
「それでだな、君はこれからどうするか決まっているのか?」
「いいえ、まだ……」
「それなら、どうだろう?しばらくここに泊まるのは」
あまりに美味しい提案だ。だけれど……。
「それでは、私ばかりが得をしてしまうわ」
「君は君の知りうる物語を私に教えてくれればいいさ。それだけでも十分さ」
「でも……」
「これはお願いでもあるのだが……だめだろうか?」
そう言われては断ることなんて出来なかった。
「じゃあ、あなたさえ良いのなら……」
「ありがとう」
優しくレッドは微笑む。その表情に何故か胸がチクリと痛んだ。
「では、私は寝床に戻らせてもらうよ。夜にはまた顔を出すから、その時にでも話を聞かせてくれ」
そう言ってレッドは森の奥へとゆっくり歩いて行った。レッドの寝床とはどこなのだろう?純粋な疑問だった。こっそり後をつけてみよう。そんな思い立ちからテーブルに果物を置き、レッドの後をついていくことにした。
森の中を進んでしばらく、レッドは洞窟の中に入っていった。ゆっくり音を立てないように岩陰に隠れながらついていく。しかし、洞窟の最奥にたどり着いたレッドは足を止め私の方へと向いた。
「何かあったのか?」
「気づいていたの?」
「ああ。それで、何かあったのか?」
「いいえ、ただ……あなたの寝るところが気になったの」
「ここだよ」
ここは寝具はおろか、床すら張られていない地面むき出しの状態だ。こんなところで眠れるのか。そんな私の疑問の答えをレッドはくれた。
「大丈夫だよ。慣れているからね」
どこか寂しそうに笑う彼を見れば本当に大丈夫なのかは一目瞭然だった。
「決めた。私もここで寝泊まりするわ」
その時のレッドの顔を私は一生忘れないだろう。
「本気かい?こんなところだぞ」
「居候の私ばかりが良い思いをするわけにもいかないでしょう?だから仕方ないの。それに、あなたともっとお話ししたいし……」
もうひと押しだとどこか確信めいたものがあった。
「ダメ……かしら?」
「…………いや、君がそうしたいのなら自由にしたらいいさ」
ため息と共にレッドは許可を下した。
「ありがとう」
「この近くに綺麗な泉がある。そこで体を清めると良い」
「もしかして、臭うのかしら……?」
「いや、女性は臭いを気にするものだろう?男の私にはわからないが……」
レッドは気まずそうに顔をそらしてそう言った。そうか、女性か……。一人の異性として、一人の人間として扱ってくれることが嬉しくて思わず顔が緩んでしまった。
「ど、どうしたんだい?」
「いいえ、なんでもないの」
顔を横に振り、表情を必死に固める。
「じゃあ、少し水浴びをしに行くわ」
今だに抑えの効かない表情筋を何とか固め、私はその場所を後にした。
レッドの言っていた通り泉の水は綺麗に澄んでいて美しかった。服を脱ぎゆっくりと水につかる。レッドは不思議だ。私を食べようとする意思がまるで感じられない。初めは恐ろしかったが、食べられてもいいと思えた。だって、こんな私にはどこにも居場所がないから。あの忌々しい城内にも私の居場所はどこにもなかった。……体についた汚れのように、城での記憶も無くなってしまえばいい。そんな願いは泡のように儚いことは知っている。だけれど、願わずにはいられなかった。そっと身体中を走る傷を撫でる。一生消えることのない私への呪い。もしも願いが叶うのなら、私は普通の女の子になりたかった。もう何度目かも覚えていない自らの切望を嘲笑する。叶わないと知っていて、なお願ってしまうのはなんて滑稽で憐れなのだろうか。体を拭くものをもっていなかったので水から上がり、自然に乾くのをじっと待つ。鳥が優雅に囀り羽ばたく。その様子を私はじっと見ていた。見ることしかできなかった。結局、その日の私は日が暮れるまで泉で体を清めていた。
レッドの洞窟へと行くと、朝と同じ果物と焼かれた魚が木の皿の上に乗っていた。
「美味しそう!」
「朝君に渡した果実と川で捕れた魚を焼いただけだけれどね」
「それだけでも十分美味しそうよ!食べても……?」
「ああいいさ。召し上がれ」
まずは果物へと手を伸ばす。レッドの瞳のように赤い果物だ。一口齧るとシャリッとした音をたて、噛めば噛むほど溢れる果汁は優しい甘さを口いっぱいに広げた。
「とっても美味しいわ!これは何の果物なの?」
「林檎さ。もしかして食べたことないのかい?」
「りんご……よく本に出てくるあれのことね!でも、林檎は白い果物だって妹は言っていたわ」
「皮は赤いのさ」
昔から調理で出た残飯を食べていた私にとっては衝撃的なことだった。城外のことを知る術は本と妹の話だけだった。そんな私の無知を笑うことなくレッドは教えてくれた。
「では、この魚は?」
「これはアユという魚さ」
「あゆ……?」
恐る恐る齧り付いてみる。皮のサクッという音に次ぎ、ふわりとした白い身が口の中で解けていった。つい先ほど焼いたのだろう。まだ身は熱々でほくほくと口から熱い空気を逃しながら咀嚼する。
「とっても美味しいわ!」
「それは何より」
心なしかレッドも嬉しそうにしながら私の何倍も大きな口に林檎を放り込んでいた。
「レッドの口、初めて会ったときから思っていたけれどとても大きいのね」
「ああ。……恐ろしいか?」
その問いはこうして横に並び共に食事をしている今となってはあまりにも愚問だった。
「いいえ。今はちっとも」
「私が君を食べようとしてもか?」
低く冷たい声が響く。刹那、目の前に広がる光景はレッドの大きな口内だった。鋭い牙は私の頭を食いちぎらんとばかりに怪しく輝く。緩いレッドの吐息が頰を撫でた。しかし、何故かそれに不快感を感じることはない。そのうえ、これから食べられるであろうというのに私の中に恐怖はなかった。ただ、これが自分の最期なのかとどこか冷静に思う自分がいただけだった。
「いいわ、食べて」
考えてみたらこれは妥当なことだ。彼は私を食べるために優しくしてくれた。そう考えると辻褄も合う。
「…………」
しばらくの沈黙の後、レッドは静かに大きく開いていた口を閉じた。何故か私の頭は体とつながっている。
「食べないの?」
「食べないさ、人間は」
食べて欲しいのかい、とレッドは悲しそうな瞳で問うた。不思議だ。食べられるのは私なのに、まるでレッドが食べられてしまうようだ。
「レッドが食べたいのなら、食べて」
「……冗談だよ。本当に人間は食べない」
「そう……」
「食事を邪魔して悪かった。さあ、思う存分食べてくれ」
レッドの言葉を皮切りに私は食事を続けた。あいも変わらず美味しい食事だったのだが、楽しくはなれなかった。