三本足で「ワン」と鳴く
『人と犬の町、○○町』
バスに揺られながら彼は、そんな文言が書いてある看板を見つけた。
――ここが○○町か。
目的の町に入ったことを認識し、彼はあらかじめ用意していた町についての資料を見返す。
○○町は十数年前、計画的に開発が進められたが、どうやら見込み通りの成果は見込めず、人口があまり増えなかったらしく、住宅地には空き地が目立つようになった。その土地を有効活用しようと、何代か前の町長は、公営の規模の大きいドッグランをいくつか開設した。その結果、愛犬家が町に入ってくるようになり、それに目を付けた企業などはさらにドッグランを開設し、またはドッグカフェを開店するなど、愛犬家へ向けたサービス施設を充実させた。これによりいつの間にか「愛犬家の町」だの、町のキャッチコピーにもなっている「人と犬の町」と呼ばれるようになったそうだ。
そう情報を整理しているうちに、バスは住宅街の外れに停まったので、彼はとりあえずそこで降りることにした。
「愛犬家の町と聞いていたけど……」
しばらく歩いて、彼は思わず独り言を漏らす。
それもそうだろう、住宅街なだけあって住民とはすれ違うものの、一匹も犬を見かけていないのだ。町に着いてから彼は四つ脚の獣を一匹たりとも見ていない。
「本当にここは愛犬家の町なの――」
「ワン」
「ん? この鳴き声は……ってなんだ、イヌナキか……」
後ろから鳴き声が聞こえたので彼が振り返ると、そこには茶色いイヌナキがいた。
イヌナキとは名前に犬が入っているものの、犬とは似つかない生き物である。びっしりと毛が生えた円柱状の身体に、虫のような節足が三本生えている。大きさは成人男性の太ももくらいが最大だ。ちなみになぜイヌナキと呼ばれているかというと、一説によれば、読んで字のごとく「犬のような鳴き声」で鳴くだからだと言われているそうだ。
そんな事を思い出す彼の膝にすり寄るイヌナキ。野良のようだがどうやら人に慣れているらしい。
「ごめんなあ、探しているのはイヌナキじゃなくて犬なんだ」
彼はそう言いながらイヌナキをわしゃわしゃと撫でまわす。喜んでいるのだろう、足踏みをするたびに足先の爪とアスファルトがぶつかってカチカチと音を立てる。数分間そうしていたら、飽きたのか、イヌナキはどこかへ歩いていく。
「人懐こいイヌナキだったな。半野良かなんかかな?」
彼は膝についたイヌナキの毛を払い落として、またあてもなく歩こうと思ったその時、後ろから幼い声が飛んできた。
「おじちゃん、なにしてるの?」
振り返るとそこには、ボールを持った、小学校中学年くらいの少年が三人、立っていた。
「おじちゃんじゃなくて、おにいさんと呼んで欲しいな。あと、知らない人に声をかけちゃいけないよ」
そう少年たちをたしなめて去ろうとすると、少年の一人が声をあげた
「犬を探してるの?」
「そうだけど、どうしてわかったんだい?」
すると少年は笑いながら答える。
「だって、さっきポチ撫でながら言っていたの聞こえたもの」
「ポチ? さっきのイヌナキのこと?」
「そうだよ。この辺をうろついているんだ。で、僕たち犬のいる場所知ってるよ。案内してあげる」
「ありがとう。でもいいのかい? これから遊びに行くんだろう?」
すると少年のうちの一人が快活に笑いながら答える。
「大丈夫だよ、俺たちもこれからそこに行くんだ」
「なるほどね……」
彼は平静を装って答えたが、心の中ではツイているな、とガッツポーズをした。
少年たちに連れられて、彼は公営のドッグランにたどり着いた。ドッグランと言っても、実態は柵で囲われた大きな公園のようなもので、中には人間の子供が遊ぶための遊具などもあった。しかし人は何人もいるものの、犬は見当たらない。
「ありがとう、でも今日は犬がいない日なのかな?」
すると少年たちは不思議そうな顔をして、そのうちの一人が少し離れた所にいる女性を、その次は別の男性を指さす。
「おじちゃん何言ってるの? あそこのお姉さんはダックスフンドを連れているし、そこのおじさんはゴールデンレトリーバーと遊んでいるよ?」
そう言われてその方向を見た彼の眼には、ダックスフンドを連れて歩く女性と、ゴールデンレトリーバーとフリスビーで遊ぶ壮年の男性が映った。
それだけではない、犬種はわからないまでも、さっきまで何も連れていなかった人たちが犬を連れているのだ。
「これは、どういうことだ?」
彼そう言うと、少年たちは満足げに言う。
「ね、犬いたでしょ?」
彼は酷く困惑したまま、その場を後にした。なぜなら、犬は既にこの世界に存在しないはずだからである。
数年前。人類と共に歴史を歩いていた犬は突如として消え去った。
絶滅したのではない、消えてしまったのだ。
愛想を尽かした恋人が、書置きを残さず去っていくかのように、どこかへ犬が消えてしまったのだ。
そして程なくして、どこからともなくイヌナキが現れたのだ。まるで人類に犬の代わりを与えるかのように。イヌナキは心の隙間を埋めるかのように人に寄り添うようになった。
しかしこの町はどうだろうか。住民の中には犬が存在していて、一度存在をほのめかされると彼にも犬が見えた。
ともあれ彼は、きっとこれは幻なのだろう、集団幻覚のたぐいなのだろう、そう結論づけて平静を装い来た道を引き返していた。すると後ろから何かが近付いてくる気配がした。
振り返るとそこには、薄汚れた白い犬がいた。野良犬だろうか。いや、これは幻覚だ。きっとそうだろう。そう考えて彼は前を向き直し、歩き出そうとした。するとそこにイヌナキが現れた。それは三本脚で器用にこちらに向かって走ってくる。
――茶色い毛並みから推察するに先程のポチだろう。
彼はそう思って先程のように撫でようとしゃがんだ。しかしポチは彼の横を通り過ぎて後ろの野良犬に襲い掛かる。
ぐちゃ。ぱきっ。ごきっ。
それに混じって聞こえる犬の悲鳴。
光景を想像して、後ろを振り返れぬまま、彼はしゃがんだまま固まった。
やがて音が止み、「ワン」と声が聞こえた。彼が恐る恐る振り返ると薄汚れた白いイヌナキがそこにいた。先程の野良犬の痕跡は見当たらない。
「ポチ……?」
彼が名前を呼ぶと、白いイヌナキは彼にすり寄ってきた。撫でる気にもなれずに彼はその場を逃げるように去った。
彼はそこで思い出したのだ、イヌナキの名前のもう一つの説を。
「犬を亡き者にするってそういうことか……」