7話
今日をいかに乗り切るか。それは僕の頭を非常に悩ませた。
電車に揺られながら学校を目指す。夏休み中はほぼ手ぶらで来ていたけど、今日はリュックが少し重い。
2人分の弁当が入っているからだ。
彼女を満足させるために、とりあえずご飯で釣ることにした。
卵焼きとか唐揚げとか、そんな弁当の定番みたいな内容だけど、たぶん彼女は変に気取ったものより、そういうのが好きだと思う。
朝から揚げ物なんて作っていたら、両親からの奇異の視線に晒されたが、今日を乗り切れるなら許容できるダメージだった。
駅に到着して、僕は電車を降りる。
さて、今日、僕は死なずに済むのだろうか。
「おはよー」
駅を出たところで、もう出鼻をくじかれた。
彼女が手を振って、こちらに駆け寄って来たのだ。
「お、おはよう。……なんで?」
「10時集合なら、君は924に乗ってくると思って、待ち伏せしてた」
924、9時24分発の電車を指す言葉で、七倉の生徒はそういう言い方をする。
12分おきのこの電車では、集合時間から簡単に乗る電車がバレる。936でも10時には間に合うけど、僕がギリギリを選ばないことを、彼女だって承知のことだろう。待ち伏せ、か。
「驚いたでしょ?」
「驚くよ、そりゃ」
今日は、彼女の方からはあまり動いてこないと思い込んでいた。なんと見込みの甘い。彼女は本気だというのに。
「じゃ、行こ。キティが待ってる」
そう言った彼女が、ニヤッと笑って僕を見た気がした。その視線の意味を理解して、僕は意を決する。
彼女の手を、しっかりと握る。
「よくできましたー」
茶化すような彼女の口調に自然とため息が出て、彼女に「なんだよー」と怒られる。
朝から赤色をしている。そう思った。
「私たち、今、赤色っぽいかな?」
手を繋いで、踏切を渡って登下校門へ。学校の敷地に入っても、手は離さなかった。恥ずかしかった。でも、離せなかった。
「仲睦まじく手を繋ぐ男女の、どこが緑色なの? 赤色だよ、それは」
「そうだよね」
そうは言ったものの、それは僕たちの希望であることは理解していた。この行為が、赤色に続いているのだと信じたい。
「今日は楽しみにしてるよ?」
「ん? あぁ、弁当? うん、作ってきたよ」
昨日の指切りには触れないように、彼女の気をそらすための言葉を選ぶ。
僕はやっぱり小心者だ。
「ほんと? やった! 愛妻弁当ー」
「少なくとも、僕は妻にはなり得ない」
「愛の方は否定しない?」
「えっと」
「私のこと、愛してる?」
僕の目をしっかりと見据えてそう問う彼女。いや、ちょっと……。
「勘弁してよ……」
「ふん。お弁当で誤魔化そうとするからだもん。……お弁当は嬉しいけど」
弁当作戦は即座に失敗に終わった。
それから、彼女は可愛らしい笑みを浮かべたが、今日はその笑顔が僕を殺すかもしれない。
職員室にまで手を繋いで行くような豪胆さを持っていなかった僕たちは、下駄箱からはゼロ距離ではなくなった。
鍵を借りて、生物室に入り、キティに餌をあげる。それはいつも通り。
「で、今日はどんな赤色をしてくれるの?」
ワクワクと口で効果音をつける彼女。
正直、逃げ出したかった。でも、本当に逃げるわけにもいかなかった。
「えっと、今日は、デートをしましょう」
なぜか敬語になってしまった僕。客観的に気持ち悪いと思う。情けない。
「おお! その発想は及第点。まっ、ちょっとお金を用意しておいてって連絡で察してたけど」
僕は、「え、お金ないよ。無理」と返された立ち直れないと思った小心者なのだ。
「随分と上から目線だね」
「えへへ。なんと言っても、私は昨日やりきってるからね」
今日は僕にリードさせると決めて、だいぶ余裕があるようだ。
まぁ、昨日のことを思えば、上から目線にも意を唱えづらいけど。
「デートって、どこ行くの?」
「前に僕が赤色とやってって言ったやつそのまま。ショッピングして映画」
「ふーん。定番だね」
「動物園に行って爬虫類見続ける方がよかった?」
「それだと私は、君より爬虫類を見ちゃうから、デートとしてはダメかも」
僕、やっぱり扱いがヤモリよりも下なのかもしれない……。
「ということで、出発しよっか」
「うん。初デート」
生物室に滞在した時間。約10分。
僕たちは「日付って単語でなんで逢瀬なのかなぁ」なんて頭の悪い会話をしながら駅へと向かった。
下駄箱を出たところで手を握ったら、「慣れてきたねー」なんて笑われた。慣れてない。こっちは精一杯の勇気を振り絞っているというのに。
「藤方? 鎌方?」
藤沢方面か、鎌倉方面かという意味だ。
「僕は家の近くしか散策しないから、藤沢のことしか知らないんだ」
「藤方か。お金足りるかな」
「その呟きは奢ってアピールなのかもしれないけど、残念ながら僕にもそんな余裕はないんだよね」
僕たちは2人ともバイトはしていないので、あまり金銭的に豊かではない。というより、高校生の中でも貧しい方かもしれない。
「目的地は藤沢でいいの?」
「いや、辻堂」
「あぁ。映画も買い物も1つの建物で済ませちゃおうと。デートは移動時間も大切なんだよ?」
辻堂駅のすぐ近くには大型のショッピングモールがあって、映画館もその中に入っている。
つまり、僕は今日1日、そこから出るつもりがない。
本心を言うと、デートとかどこ行けばいいのかわかんないし……。
「減点1。減点が10になったら、私は存分に君を辱めまーす」
「君、それをやりたいがために難癖つける気満々じゃない?」
「そーんなこーとなーいよー」
どうもそうらしかった。僕の未来は初めから閉ざされていたようだ。
それが行われそうになったら人目の少ない場所に向かおう。大衆監視の中で「好き」とか「愛してる」とか言わされたら、本当に恥ずかしさで死んでしまう。
藤沢行きの電車へと乗り込んで、僕たちのデートが始まった。
やっぱり電車はそれなりに混んでいて、座れはしなかった。
「うみー」
高校の最寄駅を出発してすぐが、この観光列車の1番の見せ場。車内から一面の水平線が眺められる。
と言っても、毎日の光景なわけではあるが。
「鎌方は海、見えないんだっけ?」
「うん。学校から見慣れちゃってはいるけどね。でも、こういう時はテンション上げないと損」
そう言われてしまうと、僕は毎日損をしまくっていることになる。
僕はここで、彼女と一緒に「うみー」と叫べる人間じゃない。
「あれ、なんでこんなところで止まるの? 景色をご堪能ください的なサプライズ?」
発車して数分で急に止まった電車に彼女は困惑したが、もちろんそんなサプライズではない。
「待ち合わせ。ここで鎌方とすれ違うんだよ」
「ああ。それ、駅でじゃないんだ」
この電車は単線なので、ほかにもすれ違いのポイントはいくつかある。でも、それが駅ではないのはここだけ。
「案外、本当に景色をご堪能くださいってことなのかも」
実際はダイヤの都合なんだろうなと思いつつも、お客様の感動のためという方がいい気がした。
「なんか、普段使ってる電車も逆方向に乗ると面白いね」
そうなのだろうか? 僕も一昨日は鎌方に乗ったわけだが、別に面白いとは感じなかった。そんな余裕はなかったというのもあるけど。
その後も、路面電車になったところで彼女のテンションは上がり、まるで観光客と一緒に乗っているみたいだった。
江ノ島で多くの人が降りて、そこから僕たちは座ることができた。
隣り合って。彼女が左に、僕が右に。
電車は動き出し、住宅のすぐ近くを抜けていく。
「こういう時にも手を繋ぐ方が赤色っぽいと思うな。減点1」
「評定厳しいよ……」
ぼやきつつ、彼女に少しだけ体を近づける。
彼女が行儀よく膝の上に乗せていた右手をこちらへと引き寄せる。
これ、やっぱり恥ずかしいって……。
「よくできました」
耳元でそんなことを囁かれると、「あぁもう」と頭を掻き毟りたくなる。左手はもう繋がってしまったので、それはできないけれど。
「君、今の状況を楽しんでるよね?」
「ヘタレな君を育てる育成ゲームは、とっても面白いよ」
「勘弁して。本当に、お願いだから」
「やっぱり君は可愛いなぁ」
このままだと、本気で死因が辱めになりかねない。彼女は殺人犯になるつもりなのか。
「フトアゴヒゲトカゲみたいに?」
とりあえず爬虫類の名前を出せば、彼女のトークはそちらに流れると思った。とても安直な逃げ。
「うん! それ、私にとっては最上級の褒め言葉なんだよ?」
「へぇ。フトアゴヒゲトカゲについて、詳しく教えてくれる?」
「だーめ。今日は爬虫類トークは封印しまーす。君がこうやって逃げちゃうからね。はい、減点1」
すでに減点は3になった。このペースで減ってくんですか……?
「減点10って、午前中にはもう溜まりそうな気がする……」
「それは君がヘタレすぎるからだよー」
そう言われて、僕は苦笑するしかなかった。はは、知ってるよ、そんなこと。
知っていたとしても、小心者であることは変えられない。
電車を降りる時に手を離そうとして減点を食らい、不意に彼女が向けてきた視線から目をそらしたら減点を食らった。
辻堂に着いた時点で、僕はライフポイントの半分を使い切っていた。
「あと5点しかないよー? デートはここからなのにねー?」
彼女はニヤニヤと笑う。あと5点も削ってやろうという思惑が見え見えだ。
「ここで、"もう帰っていい?"とか言うと、また減点されるんだよね……」
「もちろんっ。今日はディナーくらいまでは一緒にいるつもりだもん」
「映画代だけは出すつもりだけど、食事代は出せないよ。夕飯代、持ってるの?」
「お金の話はテンション下がるなぁ……」
「必要なことでしょ? 無い袖は振れないんだから」
「まぁね。お金があるなら、ディナーに付き合ってくれるの?」
必要な話だという認識は彼女にもあったようで、それが理由の減点はなかった。内心ヒヤヒヤしたけど。
「フードコートでいいなら」
「背伸びしないねー、君」
「だから、無い袖は振れないんだって」
映画代を出すというだけで、僕にとっては相当な背伸びだ。
「じゃ、今日はウィンドウショッピングだー」
高校生身分ではそれが限界だった。彼女は不満げにはならなかったので、その優しさにありがたく甘えることにした。
僕たちはショッピングモールへと歩き始めた。そこは、駅を出て本当に歩いてすぐ。
「とりあえず映画館に行って、何時に何を見るか決めよう」
「君があらかじめ決めてるんじゃないんだ」
「それをすると減点対象になりそうだから」
「賢明な判断。でも、私に丸投げしたらそれはそれで減点だよ。それも2点レベルの」
「わかってるよ」
そう返しつつ、案外わかってなかった。彼女の好みに合わせればいいと思っていた。なかなか難しい。
「私、あんまりここに来たことないから、案内よろしくー」
「僕も映画見る時にしか来ないから、映画館しかわからないけど。映画館は4階」
彼女の手を引いてエスカレーターへと向かう。僕たちはどう見ても恋人に見えることだろう。
「映画はよく見るんだっけ?」
「年に2、3回かな。原作読んでたのが映画化されると、見に行って、うーんってなることが多い」
「あー、ありがち」
彼女とのこのような話は合うことが多い。さすが、運命で結ばれた親友……緑の糸に頼ってどうする。
「さーて、どれにしよっかぁ」
映画館に到着した僕たちは、さっそく見る映画の吟味を始めた。いくつかのチラシを眺めるも、あまりピンとこない。
「赤色的にはさ、こういう、こいー、せいしゅーん、みたいなのを選んだ方がいいのかな?」
彼女が指差したのは、つい先日公開された恋愛映画。
「まぁ、そうかもしれないけど……」
「気乗りしない? 実は私もそんなに見たいわけじゃない」
ここで、赤色っぽいって理由だけで、見たくない映画を選んでも仕方ないだろう。気まずくなる未来が見える。
「別のにしようか」
「じゃ、これは? 私、子供の頃大好きだった」
次に目に留まったのは、黄色いネズミを筆頭に、変わった動物たちが活躍するアニメーション。
「僕も子供の頃は好きだったなぁ。最近はアニメも映画も見ないけど。これの映画って案外深いこともあるよね」
第1作目なんて、クローンとして作られたものの苦悩だ。子供向けアニメとは思えない社会性。
「そうそう。私、DVDで1作目見たときに泣いちゃったの覚えてる。傷だらけで叩き合うオリジナルとコピー。子供心にうわぁってなった」
「わかる。僕もDVDで見て、子供だったからちゃんとわかってたわけじゃないんだけど、でも、なんか悲しくなって」
「うんうん。ねぇ、これにしよ?」
「そうだね」
思い出補正ってのはある気もしたけど、懐かしさにそう決めた。案外すんなりと決まるものだった。
「13時45分のでいいかな?」
お昼を食べてすぐ。いい頃合いだろう。
「うん。じゃ、チケット買ってくる」
「お金、ほんとにいいの?」
「今日だけはね」
「背伸びしてるー」
「まっ、ちょっとくらいはね」
初デートだし、と言えなかった僕は、やっぱり小心者だった。