2話
生物室に戻って、顕微鏡の入っているロッカーの上から、文房具を詰め込んだカゴを引っ張り出した。彼女が。
「カッターって、入ってたよね?」
「たぶん」
カゴの中を漁るのが面倒だったのか、彼女はそれを机の上でひっくり返した。
中に入っていた文房具が散らばり、一部は床へと落ちる。消しゴムが部屋の端まで転がっていくのが目に留まった。
「あった、あった」
彼女は上機嫌でカッターを手に取る。ほかの文房具に目もくれずに。いや、片付けろよ。
仕方なく、僕が文房具たちをカゴへと戻す。
部屋の端まで消しゴムを取りに行く間に、彼女はペットボトルを切り始めた。
「私、ぶきっちょさんだから、こういうの苦手なんだよねー。手、切っちゃいそう」
なら、なんで意気揚々とカッターを掴んだかなぁ……。
僕と彼女は役割を変わる。別に、僕だって器用ではないけれど。
ギザギザとした切り口が僕の不器用さを象徴しているようではあったけど、怪我はせずに紙を取り出すことには成功した。ルーズリーフのようだ。少なくとも年代物ではない。
「何が書いてある? 宝の地図?」
取り出したそばから彼女に奪い取られた。振り回されてるよなぁ、僕。
「日本語だ、これなら読める」
英語だったらこっちに押し付けて来たんだろうな。
「2018年、8月1日にこれを太平洋に流します、だって」
「それ、一昨日だけど?」
今日は2018年の8月3日だ。年代物どころか、なんとも最近のメッセージ。
「これは私の遺書です。見つかるかどうかはわからないけど、もしこれを読んでいる人がいるなら、その後はどうしてもらっても構いません。私の家族に届けるなり、捨てるなり、海に流すなり、好きにしてください」
彼女による音読会が始まったのだが、その内容は剣呑としたものだった。
「私は8月31日、この世から姿を消そうと思います。もう、生きることに耐えられません。
初めに読んでいる人には関係ないことだと思いますが、私が死のうと思った理由を書かせていただきます。
私は、ある1点を除いて、全く不幸ではありませんでした。家族からも愛されて、学校では友達にも恵まれて。
ただ1点。運命に恵まれなかったこと以外。
きっとこの先は、誰にも信じてもらえないと思うから、この遺書は海に流すことにしました。
私には、運命が見えるのです。意味がわからないと思います。でも、見えるんです。
私の目には、運命の糸が見えるんです。人を見ると、その人から、いくつかの色の糸が伸びているように、見えるのです。
信じられないと思います。ふざけていると思われるかもしれません。でも、本当です。
運命の糸にはいくつかの種類があります。
赤い糸は、愛し合う相手。
青い糸は、どうしても仲良くなれない相手。
緑の糸は、親友になる相手。
黄色い糸は、ビジネスパートナーに最適な相手。
そして、黒い糸は殺し合う相手
運命の糸は誰にでも付いているわけではありません。実際、私自身にはあの時までは1本も付いてませんでした。
でも、ある時見えてしまったんです。
滅多に目にしない黒い糸が、自分から伸びているのが。
そして、その糸の伸びた先が、私の妹でした。私の愛する妹でした。
昨日までこんな糸は繋がっていなかったと目を擦っても、その糸は消えませんでした。
そういうことはあるんです。それまで見えなかった糸が、見えるようになることは。
でも、一度見えた糸は、消えることも、色が変わることもありません。
私は、私のこのよくわからない力が、正しいことを知っています。
信じられないとは思いますが、だから私は死ぬことにしました。
妹と殺し合うなんて耐えられないから、死ぬことにしました。
一緒に入れたたくさんの手紙は、両親や妹、友達に宛てたものです。
もし、この手紙を拾った人がいるなら、これを読んでいる人がいるのなら、それらは読まないでもらえると助かります。家族に渡さないのであれば、そのまま捨ててください。
家族に届けることもできるように、住所と名前をここに書いておこうと思います。
神奈川県鎌倉市○○-○○○-○○
葉月 朱音」
そして、数秒の沈黙。それを破ったのは、いつもとは違って僕だった。
「今の、君の創作じゃないよね? そうなら、君こそ文芸部に入ったらいい」
「違うよ」
彼女にしては元気がない。まぁ、当然だが。
僕は彼女からその遺書を受け取り、自分でも読む。彼女の読んだ通りの内容だった。8月31日の部分に書き直しの跡があって、いつ死ぬのかに悩んだことがうかがえた。そこに少し、リアリティを感じた。
「これ、どうする?」
家族に届ける。捨ててしまう。もう一度海に流す。それ以前に。
「この人、まだ生きてるんだよね」
この人が死ぬと言っているのは8月31日。まだ、1ヶ月弱ある。
「どうしよ。ここに書いてあること、本当だと思う?」
そう問われて、「思う」とは返せない。僕はこれでも、常識人だ。そして、運命の糸なんてものを信じているとも言い難い。
「思わない。何かの企画か実験。拾った人がどう反応するのかを見るためのものって方が、まだ納得できる」
「そっか。でも、私は、無視はできないかなぁ。だって、まだ、取り返しがつくんだもん」
「つまり、この人を見つけて、自殺をやめさせるって方針?」
僕の質問に、彼女は「うん」と力強く頷いた。
「わかった。緑の糸で繋がった君がそうするなら、僕も付き合うよ」
本心を言うなら、無視をして本当にこの人が死んでしまったら、10年後も20年後も後悔し続ける気がしたから。
*
「この住所ってさ、ご近所さんだよね?」
「まぁ、ここも鎌倉市だからね。端の方だけど」
葉月朱音なる人物を探すことにした僕たちは、目下のところ1番の手がかりである住所をマップアプリに入力した。
「歩けないこともない距離かなぁ」
マップに表示された場所は、北鎌倉駅の近く。歩きたい距離ではないが、無理だと断言する距離でもない。しかし、ここから向かうなら、普通に電車を乗り継ぐことになるだろう。
「たぶんだけど、この遺書、あの浜から流して、そのまま戻ってきたのを私たちが見つけたんじゃないかな」
家から少し離れた浜から流す。十分ありえそうだと思った。
「この住所に行く? 僕としては、心理的なハードルがかなり高いんだけど」
「あなたの遺書を拾ったのですが」なんて言って家まで押しかけるのは、ちょっとなぁ……。
「その前にちょっと考えよっか。遺書にさ、学校の友達ってあったよね? だから、この葉月朱音さんは中学生か高校生なんじゃないかな」
「小学生や大学生はない?」
「小学生が書く文章じゃないと思う。大学生は、わかんないけど」
まぁ、彼女の意見には概ね賛成ではある。ルーズリーフがB5サイズのB罫だし、たぶん、僕たちと同年代なのではないかと感じる。
「例えば高校生だとしたら、ウチの生徒ではないよね? 葉月朱音って聞き覚えある?」
「少なくとも1年4組の生徒ではないよ。僕はそれ以上の交友関係は持ってないから」
クラスメイト以外の友達は、目の前にいる彼女だけだ。中学が同じだった人はいるけど、4ヶ月の間で疎遠になった。
「7組にもいない。残念ながら、私もそれ以上の交友関係は持ってないや」
彼女は意外に内向的だったりする。趣味が合う相手にはとても楽しそうに話すのだが、その趣味が少しレアだし。生物部なんて部活に入っていることもあって、交友関係は広がらないのだろう。
「高校生なら、そもそも鎌倉市の高校に通ってるかすらわからないけどさ。藤沢とか、横浜とか、選択肢は色々あるでしょ」
中学生とするなら、学校はかなり絞り込めるのだろう。
大学生とすると、自宅から通っているとしても全然絞り込めない。鎌倉からなら、東京まで通えるし。
「やっぱり住所に行ってみるのが手っ取り早いのかなぁ」
彼女は早々に考えるのを諦めた。
友達に宛てた手紙を読めば、もっと情報が得られるのかもしれないけれど、それをする気はないようだ。もちろん、僕にだってそれをする気はなかった。
「猶予は約1ヶ月。自殺を止めるなんて難度の高い交渉をすることを考えると、早く接触すべきなのかな。心理的なハードルなんて無視して」
僕としては、やっぱり少し嫌だけど。
「そうだね。私もそう思う。早速今日……」
僕と彼女は同時に時計に目をやった。時間は18時に迫ろうとしている。
今から北鎌倉に向かえば、19時前くらいにはなりそうだ。
「今日、行く? どうする?」
「急ぐべきは急ぐべきなんだろうけど、どうしようか」
僕はこういう時、どうにも消極的な意見を持ってしまう。明日でもいいのではと思ってしまう。
「明日の朝に押しかけよっか。夜に押しかけるよりは心象も悪くないと思うし。じゃ、明日は朝9時にキティのご飯ね」
彼女がそう言ってくれたことに、僕は密かに安堵したと思う。
「了解」
「あと、この遺書のこと、ほかの誰かに相談する?」
彼女は真面目な顔でそう尋ねてきた。
例えば、これを学校の先生なり警察なりに見せたらどういう反応が返ってくるか。それは容易に想像できる。
そういうお遊びはほかでやってくれ。これに尽きるだろう。
「誰も信じないよ。僕たち自身も、別に信じてるわけではないんだし」
「だよね……。なら、私と君の2人だけのミッションだね。よろしく、ワトソンくん」
「これから必要なのはネゴシエーションであって、推理ではないんだよ、ホームズ」
結局、明日の朝9時に生物室ということで解散になった。
実際に会いに行くとなると、憂鬱だ。あの遺書は夏休みの自由研究か何かで、行ってみたら、「ご協力ありがとうございましたー」とか言われてお終いというのがいい。
そんなことを思いつつ、僕は彼女が乗るのとは反対方向の通学電車に揺られるのだった。
*
「キティー、ご飯だよー、たーんとお食べー」
彼女が餌をあげる間に、僕は水を用意する。その所要時間は30秒もかからない。
「さて、じゃあ、行こうか」
彼女は意を決したような面持ちでそう言った。僕としても、軽く「じゃっ、行こっか」と言えるものでもない。
「うん」
僕はただそう頷いて、生物室の鍵を手に持つ。
「キティ、また明日ね」
彼女はキティに手を振ってから部屋を出た。僕もそれに続く。
鍵を返しに行くと、「今日は早いんだな? あれか、デートか?」などと顧問に言われた。
それに対して、僕は「違いますよ」と平坦に、彼女は「いえ、人助けです」とはっきりした声で答えた。顧問は少し困惑したようだったけど、詳しくは訊いてこなかった。
別れ際の「せっかくの夏休みだ。楽しめよ」という顧問の呑気なセリフには曖昧な会釈で返して、僕たちは学校を出た。
いつもとは反対の電車に乗って、僕たちは北鎌倉へと向かう。
僕と彼女はドアの前に向かい合って立った。この電車は観光電車でもあるので、この時期は混んでいる。席は空いてない。
「このまま家に押しかけるってことでいいんだよね?」
小心者の僕は確認せずにはいられなかった。アポなしで他人の家に行くとか、かなり抵抗があったりする。
彼女は苦笑いのようなものをして、「まぁね」と返した。
「ピンポン押して、朱音さんいますかってするしかないかなぁ」
「どちら様ですかって訊かれると思うけど」
彼女は「ああ、そっか」とか言って腕を組んだ。頼りないな。いや、頼る気満々なのもよくないか。
「うーん。朱音さん本人なら、手紙を拾ったものですって言えばいいかなぁ。家族なら、友達ですで押し通す」
「インターフォン越しで、どっちかわからなかったら? それに、朱音さんが大学生や、なさそうだけど小学生だったら、友達ってのは無理がある」
学校を一度経由した影響で、僕たちの格好は制服だ。どう見ても大学生や小学生ではない。
「インターフォン越しなら、友達で、落とした手紙を届けに来たとか言えばなんとかなる……かも? それでダメなら逃げて、作戦を練り直すってことで」
とても杜撰な計画だったけれど、結局はその場で臨機応変になんとかするしかないということか。その臨機応変な対応は彼女がしてくれるとありがたいんだけど、彼女は口が上手い方ではないので、あまり期待はできなさそうだ。
鎌倉で観光電車からJRへと乗り換える。彼女は定期圏内だからいいが、僕にとっては、この交通費が案外バカにならない。この観光電車、結構高い。観光電車だから仕方ないんだけど。
鎌倉から北鎌倉まではたった1駅。僕たちはすぐに北鎌倉駅までたどり着いた。
「そういえば、この駅って、出口は一方にしかないんだったね……」
やたらと長いホームを歩きながら、マップを確認する。ここからはこれと睨めっこだ。
「あつーい」
まだ時刻は10時前にもかかわらず、晴天の空からは刺すような日差しが照りつける。出場口にたどり着いた時点で、僕たちは汗だくだった。
「とりあえず真っ直ぐかな。明月院の方に向かえばいいと思う」
「明月院。紫陽花で有名なところだっけ?」
「もう時期じゃないけどね」
結局、着いてからどうなるかはその時しだい。
僕たちは頭の中では不安を抱えつつ、線路沿いの道を歩き始めた。
「夏だねぇ」
彼女のそんな呟きに、「そうだね」と返す。暑い日差しの中を蝉の声を聞きながら歩く。まさに夏だ。
途中で道を曲がり、線路沿いから外れると、道の両側が緑に囲まれ、より夏っぽくなった。
「この辺?」
「いや、もうちょっと先」
だんだんと目的地が近づいてきて、緊張してくる。
あの遺書はただの悪戯、そんな風に思ってはいる。僕は常識人だから。
でも、万が一にでも本当だったら、僕たちが会おうとしている相手が、自殺を決意するほどに悩んでいる相手だったら。そう思うと、足取りは重くなった。
「ここ、だよね?」
彼女が指差した表札には『葉月』とはっきり書かれていた。間違いないだろう。
「ここだね。うん」
「じゃ、ピンポン、どうぞ」
「え? 僕が押すの?」
ここで役割の押し付け合い。まぁ、どっちも話す役をやりたくないのは仕方がない。
「なら、じゃんけん。じゃんけんぽいっ」
咄嗟にそう言われ、冷静にチョキを出した。不意にじゃんけんと言われるとグーを出しやすいということを、たぶん彼女は知っているだろうから。
案の定、彼女の出した手はパーだった。
……人様の家の前で、僕たちは何をやっているのだろう……。
「なっ、急に言われてチョキを出すとか、君は性格が歪んでるんだね」
「急にじゃんけんにして勝とうとするなんて、君は性格が歪んでるんだね。じゃ、僕の勝ちだから」
彼女は「はぁ」と息を吐くと、意を決したようにインターフォンを押した。「ピンポーン」と聞きなれた音が響き、数秒。
「どちら様ですか?」
インターフォン越しのやりとり。女性の声だが、それが朱音さん本人か、母親なのか、はたまた妹なのかはわからない。
それに対して、彼女は「えっと、です、ねー」などとどもる。なかなかに不審だ。
「私、あの、朱音さんの、えっと」
あー、ダメだな、これ。仕方なく、僕は彼女をインターフォンから遠ざけた。
「あの、僕たち、朱音さんの友達で。落とした手紙を届けに来たと言ってもらえれば通じると思うのですが」
用意したセリフを噛まずに言えた。横では彼女が音を立てずに手を叩いてた。声は出ていないが、口が「おぉー!」と言っている。それを見ると、なんとなくため息が出そうになった。
「あのー、手紙って、どこで?」
インターフォンからそう声が返ってきた。これは、相手は朱音さん本人っぽい。
「海で」
「マジですか。早くないですか?」
「まぁ、予定より早いのかとは思います」
どうも、心配していたよりもずっとすんなりと、朱音さんとのファーストコンタクトは叶いそうだ。
あとは、あの手紙が悪戯なり実験なりであることを祈るばかり。
「えっと、ちょっと待って。10分。いえ、5分。支度するんで」
そして声を途切れ、代わりに家の中からバタバタと音が聞こえてくるようだった。
「さすがだね。じゃんけんなんかしないで、初めから君に任せればよかった」
「僕も、君がこれほど話せないとは思わなかった」
「うわぁー、ひどい言い方だなぁー、傷つくなー」
まったく傷ついてはいないようだ。僕はそんな彼女に、これ見よがしに「はぁ」とため息をついてみせた。
「あんまり、自殺とかしそうな感じじゃなかったよね」
「うん。"どう、私の考えた自由研究、面白くない?"とか言い出したら、それはそれでいいんだろうね。ハッピーエンドだし」
僕が400円ほど、彼女は130円ほど損をした。それだけの笑い話になる。帰りの金額もあるからもうちょっとかかるか。
「自由研究だとしたら、あの遺書も学校で発表するんだよね。黒歴史まっしぐらだと思うよ?」
「確かに」
人様の家の前で、僕と彼女は苦笑に近い笑みを浮かべた。