9話
それから1週間、僕たちは緑の糸に少しずつ赤のまだらをつけていくように近づいていった。
2人きりでゲームをして1日を過ごすこともあれば、江ノ島に一緒に行って鐘を鳴らす日もあった。
僕が小心者であることは変わらなかったけど、手を繋ぐことだけは自然にできるようになった。キスとかハグは……時々、ものすごく照れながら。
そんな、顧問曰く初々しいカップルとなった僕たちは、明日をどうするかと部室でパンを食べつつ話していた。
今日は8月14日だ。
「私たちってさ、朱音さんの連絡先、知らなかったね」
「うん。また家に押しかける?」
会いに行くと決めたものの、アポが取れない。家に押しかけるのは、2回目とはいえ、やっぱり気が進まなかった。
「そうなるかなぁ……。朱音さんって、船戸高校だったよね? 君、船高に知り合いとかいる?」
「いないことないけど、朱音さんの連絡先を知っているとは思えない」
中学の時の友人が1人いるが、僕と類友していた小心者の男子だ。あまり期待はできない。
「朱音さん、まあまあ派手めだったよね。私の友達もいることはいるんだけど、地味子ちゃんだったからなぁ。あっ、いい子だったんだよ。亀飼ってたし」
「そのフォローは謎すぎる」
亀飼ってたならいい子だね、とは僕はならない。僕も地味な方なので、地味であることにマイナスイメージなんてないけど。
「でも、一応訊いてみよっか」
「まぁ、訊くのにデメリットはないからね」
というわけで、船高に進んだ奴にLINEを送る。デメリットはないなんて言ったものの、よく考えると、女子の連絡先を教えてくれなんて頼むのは問題ある気がしないでもなかった。
レスポンスがあるまでしばし待ち。僕たちはとりあえずパンを平らげる。
「私たち、赤色になれたのかな?」
「んー、もう緑ではないとは思ってる」
ただ、運命の糸の色にクリスマスカラーなんてのがあるのかは、なかなかに疑問だ。
「緑みの赤? 赤みの緑?」
「どっちの色も存在しないよね。緑と赤を混ぜたら」
緑と赤。反対の色。補色同士を混ぜたなら。
「濁った灰色になる」
「うわぁ。君と私の運命の糸の色、濁った灰色? やだー」
彼女は心底嫌そうに言った。濃くなったら黒くなっちゃうし、僕だって嫌だ。
「いや、単純に絵の具で混ぜるとね。光だとどうなるか知らない」
「緑も赤も三原色だよね?」
「RGBだから、うん」
光の方は少なくとも灰色になることはなさそうだ。RGBでRとGだけなら。
「FFFF00で検索すれば出るよね、たぶん」
不勉強なので、FFFF00が何色だったか覚えていない。
「おー、さすが、情報の成績が5の人は違うねー」
成績か。終業式の日に、彼女に通知表を奪い取られたのがひどく昔に感じる。
「黄色だね。うん」
検索した結果、鮮やかな黄色が表示された。眩しい。目に痛い。
「一緒にバイトするかー」
黄色になった実感はまったくないので、それは無視した。
「加法混色なら、黒って000000だから、何色にも簡単に染まるんだけどね」
「絵の具まぜまぜだと、黒は変えられないよね……」
「まぁ、運命の糸の色が、単純に色の足し算とか引き算なわけないけどさ」
絵の具まぜまぜって言い方がちょっと可愛いと思ったのは内緒だ。正しくは減法混色。
「あっ、返信来た」
彼女のスマホが震える。彼女はすぐにそれを確認した。
「どうだった?」
「知ってるって!」
あまり期待せずに訊いたのだが、まさかのあたりだった。世間って案外狭い。
「軽音部で同じなんだってさー。……軽音部!? 由希が!?」
素っ頓狂な声を上げる彼女だった。軽音か。朱音さんのイメージには結構合っている。
「高校デビューしたのかな」
彼女の友達の方は僕にとっては完全に他人なので、気軽にそう言った。
「えぇ……。由希が、遠くに……。亀、まだ飼ってるかな……」
「高校デビューのために亀を捨てたりはしないと思うよ」
「だよね! ミーちゃんまだいるよね!」
亀なのにミーちゃん。ネズミにキティよりマシな気はするけど……。いや、亀の名前といえばとか訊かれると、回答に窮するけど。
「友達の変化に驚いているところ悪いんだけど、朱音さんの連絡先はもらえた?」
「あっ、えっとね、本人に訊いてみて、OKだったら教えてくれるって」
「ちゃんとした対応だね。いい人そうだ」
「うん。いい子なんだよ。私の知ってた由希は」
「もう知らない人になっちゃった感はやめようか。軽音に入っただけなんだから」
なぜ顔も知らない人のフォローをしないといけない? というより、軽音に入ったことに対してフォローなんているのか?
「高校デビューかぁ……。私、考えもしなかったなぁ」
「君は外見が整ってるから、意識することもなかったんじゃない?」
化粧っ気や飾りっ気はまったくないし、生物部なんて部活に入っているから派手な方ではないのは確かだけど、快活に笑う彼女を地味とは思えない。
「私も地味っ子だよ。初対面の人と話せないのは君も知ってるでしょ」
人見知りなのは知っているけど、いや、しかし。
「僕には嬉々としてヤモリのよさを語ってきた気がするんだけど」
「それは、生物部に入る人ならわかってくれるかなって。それに、爬虫類の話なら初対面でもできるもん。大抵はドン引きされて終わるけど」
ドン引きか。僕は『おぉ、これが生物部なのか。すごいな生物部』とか感心した気がする。
「だから嬉しかったよー。話した後に君が言った、"ヤモリのほかにはどんな動物が好きなの?"って質問。この人はもっと私の話を聞いてくれるんだーって」
そんなこと言ったっけ。言ったなら、生物部として知識を得ておこうと思っただけな気がするけど。
「で、話しているうちに、君が全然 動物について知らなくてビックリした」
「生物部は消去法で選んだから。理科4つの中だと、生物が1番苦手まである」
天文部とかあったら、たぶんそっちに入ってたと思う。
「これは爬虫類を布教しなくてはって感じだった。哺乳類派に渡してなるものかって」
爬虫類派と哺乳類派なんて抗争があるのか? 彼女には悪いけど、哺乳類派の圧勝な気がする。猫と犬に、ヘビと亀では勝てないだろう……。
「なのに顧問が持ってきたのがネズミだったんだよー!!」
「キティのこと好きじゃないの?」
「大好きだよ。この部のメンバーで、君の次に好き」
ちょっと照れるのでスマホに目を落とした。『知らない』というメッセージが来ていた。あいつは変わってないんだ、安心。
キティがこの部に加わったのは4月末くらいだったか。顧問が「なんか飼おう、生物部としては」とか言って突如持ってきた。彼女は「ネズミかー」なんて言いつつ、猫っ可愛がりしていた。
「顧問はキティより下なのかな?」
「当然!」
「当然なんだ……」
いや、僕だって顧問よりキティの方が好きかもしれない。顧問、いい人だけどさ。先生の中では1番好きだから、うん。
「もちろん、先生のことも嫌いじゃないよ。って、一応フォローしておくよ。一応」
「うん。君が顧問を嫌ってないことくらいは知ってるよ」
なんとも無駄な会話だ。でも、楽しい。彼女との雑談は、とても心地がいい。
「今思うと、初めて会った時から君のこと、友達としてなら大好きになった感あるなぁ」
「うん。僕としても、結構早い段階から君は親友だった」
運命の緑の糸とは言い得て妙だ。彼女はいとも簡単に、僕の中の親友の地位を獲得した。
……恋人の地位も、さすがにもう獲得していると思うけど。
「私たち、赤くなったのかなぁ」
話はそこへと戻る。結局はそれが重要で、僕と彼女が恋人という関係になったとしても、糸の色が変わっていなければ意味がない。
「正直わからない。朱音さんの見る運命の糸がどんな感じなのかもよくわからないし」
「朱音さんは、絶対なんだーって感じの言い方だったよね。糸に逆らおうとしたこともあるんだよね、たぶん」
あれだけ糸の色を覆せないと信じているのなら、以前に無理だと感じる出来事があったのかもしれない。
「僕たち、朱音さんと1回しか会ったことないし、全然知らないよね。死なせたくないって思ってるくせに」
「あんな風に妹への愛を叫ばれたら、死なせたくないって思うよ。それだけでさ」
「そうだね」
あの人を死なせたくない。それを思うにはあの1回の邂逅で十分だったのだ。僕たちは、理屈ではなく感覚で、朱音さんに生きてほしいと思っている。
「あっ、LINE来た」
彼女がスマホを確認するのを待つ。朱音さんが断っていた場合は、やっぱり家に押しかけることになるだろう。それはあまりしたくはなかった。
「連絡先もらえた。向こうからメッセージも来て、死ぬまで仲良くしてねだって」
「笑えないよ、それ」
とりあえず連絡先がもらえたことに一安心。が、死を見据えたようなメッセージには笑えない。
「明日会えるか訊いてみるね」
「うん」
その後、朱音さんは僕たちを避けるようなことはなく、すんなりとアポイントを取ることができた。約束は10時に鎌倉駅。
「審判の時だね」
「まだ中間発表って感じではあると思うよ」
今回がダメでも、ゲームオーバーではない。……ゲームなんて軽い話でもないけど。
「ちょっと不安かも」
「大丈夫、と気軽には言えない」
「ねぇ」
彼女が一言、「ねえ」と言う時は、まぁ、そういう時だ。
「ぎゅーってして」
真っ正面からそう言われるのは初めてだった。この1週間での慣れなんてものはなく、僕の身体は動かない。
「えっ、と」
「赤に染めたいの。悪足掻きしたいの。だから」
彼女は両手を広げた。僕はずっと小心者で、いつも彼女に導いてもらう。情けない。
手を広げて、彼女の背中へと回す。彼女を抱きしめる。彼女の方も、僕を抱きしめる。
「ドキドキしない。恥ずかしいのと、安心するのだけ」
彼女は力なくそう呟く。
「これで大丈夫かな? 君のこと好きだよ。でも、それが恋人としてなのか、わかんない」
彼女はとても不安なのだ。それはわかった。でも、それを取り除く方法は、わからなかった。
僕はただ、彼女を抱きしめ、抱きしめられるしかできない。
「ハグして、それで十分満足できるって、恋人なのかな?」
僕は何も言えなかった。言葉は思いつかなかった。何を言えばいいのかわからなかった。
でも、何かしなくてはいけないという思いがあって、僕はなぜか、彼女にキスをしていた。僕からキスをしたのは、情けないことに初めてだった。
「ん……。……。…………」
彼女は僕から身を離すと、プルプルと体を震わせる。顔は真っ赤だ。
「ちょぉお恥ずかしぃいい!! ななななんで無言でキス!? うにゃあああ!!」
一気に叫んで暴れ出した。これはこの1週間に何回かあったので、ちょっと慣れた。可愛いなぁと思いながら見守る余裕はできた。彼女が暴れてるのを見ると、こちらの気恥ずかしさを誤魔化せる。
「うにゃ! うにゃあ!」
「ねこ? 君は爬虫類派じゃないの?」
「はぁ、はぁ……。爬虫類派だよ! でも、最近は人間とネズミも好きだから、哺乳類も許容! でも、ネコは許さん!」
「そうなの? テンションおかしいよ?」
「おかしくもなるよ! さっきのキスはなんだ! 意図を教えろ!」
彼女におかしなテンションで首元を掴まれた。殴られるの? バイオレンスな関係が日常化するのはものすごく嫌なんだけど。
「いや、意図って言われても。なんか、なんとなく?」
「なんとなくってぇええ。ああ、もう!」
首元から手は離され、彼女はその手で髪を掻き毟る。
「うー。いい天気だね」
それはあの日以来、落ち着きを取り戻すための合言葉になっていた。
「口下手すぎるよ」
「その服、似合ってるよ」
「制服だよ」
「まるで高校生みたい」
「高校生だよ」
「はぁ。これで落ち着けるの、ほんとどうかと思う」
「まぁ、言ってることはめちゃくちゃだよね」
そう言いつつも落ち着いた彼女は椅子に座って、「ふぅ」と息を吐いた。
「私たち赤いよ、真っ赤だよ、うん、間違いない」
「顔は間違いなく真っ赤だよ。糸だって赤いよ、きっと」
というより、こんな距離感の緑色はダメだろ。緑がダメなんだから、赤にならざるを得ない。
「明日、運命様にギャフンと言わせてやる!」
「ギャフンか。言ってる人見たことないなぁ」
「ギャフンってなんなんだろうね」
それからは、くだらない雑談に終始した。
そんな僕たちは、本当に赤色になれたのだろうか?