story1 その11
「では先生の話はこれで終わりです。明日もみんな元気に学校来てくださいね。では日直さん号令 」
先生の号令の声、作戦実行の合図だ。蓮とアサミはソウスケの背後、つまり乱雑に消された薄白い黒板に寄りかかるようにして、この合図を先ほどから待っていた。もちろんソウスケも一見、何気ない様子で待っているようだが、事情を知っている人が観察すれば瞬きの回数が多かったり、膝を不自然にかくかくと揺らしている様子に気付くであろう。ポケットに入ったトランプを一枚ずつなぞるようにしてそのときを待っていた。
周りの目がどこに行っても届きやすい校内だからというのもあったが、当日の今日になってソウスケとまともに話せる機会はほとんどなかった。様子を窺って時折二人が話しかけてもソウスケは一言、二言ボソッと発するくらいだった。しかしこちらもソウスケに言うことはその場限りの平たい激励くらいしかもうなかったのである。
だからこの瞬間に想いを込める。他の人に聞こえないことを良いことに、彼の不安なんか吹き飛ばしてしまうほどの声量で。
————頑張れ!絶対できる!
ソウスケの唇の端が僅かに吊り上がる。号令を待つクラスメイトと先生に対して、一たび大きく息をついた。
「……みんな!少しだけボクに時間をください!お願いします 」
教室中に「なんだなんだ 」と不安と驚きの空気が立ち込める。まるで唐突にシャッターを切られた一場面かのように刹那、誰も動かず、誰も音を発さなかった。
「ソウスケなんてほっといて帰ろうぜ 」
固まった教室で最初に声を上げたのはソウスケをいじめっ子グループのリーダーだった。その声をきっかけに大半の生徒はランドセルを担ぎなおし、何事もなかったように教室の外へ向かおうとする。
これって非常事態じゃ……
蓮は不安に駆られて彼らを止めようと一歩踏み出す。だが直ぐにアサミが小さい手で袖を引っ張り、それを阻止した。
シンジロ、アサミは口の形だけで文字信号を伝えてきた。
「ハートのエース 」
誰かがぽろっと言った。帰ろうとしていた子たちもその声に反応する、いやしてしまう。
ソウスケは後ろの席の子にも見えるように、手を思い切り伸ばしてハートのエースの柄を確認してもらう。それをトランプの束の真ん中に入れ込み、パチンと指を鳴らした。家で練習していたときよりもよく響く。
そして束の一番上のカードをめくる。
「ハートのエースだ! 」
今度は誰かのはっきりとした声だった。もう一度伸ばしたソウスケの手の先にはハートのエースがあった。帰ろうとしていた子も何か起こったことを察し、ソウスケの手元に釘付けになっていた。
————そこで素早くカードを戻す。
蓮が心の中で呟くと同時にソウスケは素早くそうした。
そして束の一番上にあるはずのハートのエースをもう一度束の真ん中に入れ込む。今度はカードを真ん中に入れているところをはっきりとほやほやのオーディエンスたちに確認してもらう。そして指を鳴らして一番上のカードをめくる。
真ん中にやったはずのハートのAがそこにはあった。
驚いて口元を抑える子、ただ黙って眉間にしわを寄せる子、「えっ 」と驚きが口から漏れる子、彼ら全員がすごい、という共通の思いに駆られていた。
だがソウスケと蓮、二人にとっての本題はここからだった。今一度ソウスケは表情を引き締めて次のリセットマジックに臨む。
みんなが注目する中、ソウスケはA四枚とK四枚のカードを手に取って八枚の束を作る。最初のポイントが早くもやってきた。四枚のKを一枚ずつ数えて、Kの束は省いていくといういかにも単純な作業なのだが、ここで残り四枚のAの束の中に、二枚のKをバレないように忍ばせないといけないのである。つまり省くKのカードは実際は四枚ではなく二枚。手にそのまま持っているのはA四枚プラスK二枚なのだ。
練習の甲斐あってソウスケは手際よく二枚のKを忍ばせることができた。だが少し気が緩んだのか、省く二枚のKをそのままみんなの目に付く教卓の上に置いてしまった。
このままだと勘のいい子は机に置いたカードが四枚でなく、二枚しかないことに気付いてしまうかもしれない。
蓮がそのことに気付いたときにはもう体が勝手に動いてしまっていた。幸い、省いたカードは机の端に置かれていたので、偶然を装ってオーディエンスからは見えないところに配置を移す。ソウスケはちょうど一枚目のAからKの変換をなんとか上手くやってのけたところだった。
邪魔にならないようにと元の位置に戻ろうとしたとき、「ありがとう 」とマジックが正念場に差し掛かるソウスケが言った気がした。
もしかしたら空耳かもしれない。けれどそれは妙に大人びた声だった。