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09_市川の現実

 月曜日になり、市川と春馬の世にも奇妙な共同生活が本格的にスタートする。学校生活が始まったのだ。

 ……ただここで、春馬は市川の悲しい現実を知ることになるのだった。


「……………………」

 市川、終始無言。

 朝に家を出て、教室の自分の席に座るまで。いや、その後も。おはようと声をかけることもなく、また、かけられることもない。どうも彼には親しい友達がいないようなのだ。

 授業前の一時、クラスメイト達は近くの人と話をしたり、ふざけあったりして思い思いの方向を向いている。でも、何となく市川にだけ全員が背を向けているように感じるのは春馬の思い過ごしだろうか?

「……」

 市川も市川で、そんな状況を気にも留めず俯いたまま黙って座っている。自分から誰かに話しかけるような気配はまったくない。これでは影が薄くなるのも当然で、だから春馬の市川に対する記憶が曖昧だったのだ。


(……市川、友達とかと話さないのか?)

 春馬は市川に気兼ねしつつ問いかけた。彼は市川の生活を邪魔しないよう、普段はできる限り話しかけるのは止めておこうと決めていたのだが、さすがに聞いてみずにはいられなかったのだ。

「……うん、……一人の方が楽だから」

(そっか……)

 市川は机の傷をぼんやり眺めながら簡潔に答える。春馬にはこの状態が寂しいと感じるのだが、しかし、市川は楽だという。

(まあ、人それぞれだしな)

 春馬もそれ以上は何も言わなかった。


「ええっ、ほんとに!?」

「まだ意識が戻らないらしいよ」

「やだそんなの、ううっ」

 時に、学校は一昨日の春馬の事故で大騒ぎになっていた。学年を問わず全ての教室がこの話題で持ち切りとなり、声を上げて泣き出す者さえいる。何と言っても彼は城ノ上高校のスター生徒なのだ。情報は瞬く間に拡散し、朝のホームルームの時間に開かれた臨時の全校集会の時には、すでにほとんどの生徒が事故の詳細を熟知しているような状態だった。

 春馬のクラスはより一層騒ぎが大きく、生徒達の間で応援の寄せ書きやお見舞いの計画などが盛んに話し合われている。みんな親身になって彼のことを心配していた。その様子を目の当たりにしていた当の春馬は何とも気恥かしい感じがしたが、しかし、激しく励まされたのも事実である。

(早く復活しなくちゃ)

 改めて心にそう誓うのだった。

 ただ、事故の唯一の関係者で被害者でもある市川には、結局誰一人話しかけて来ず、寄せ書きの色紙もとうとう回っては来なかった。


 市川はずっと一人。それはグループでやるような授業でも、休み時間でも変わらない。みんなも彼をいないかのごとく振舞っている。無視? というより、本当に市川の存在に気付いていないような感じだ。

(……なんか別のクラスにいるみたいだな)

 そう思ってしまうほどに、市川から見える教室の景色は人気者の春馬のものとかけ離れていた。


 さらに、市川が春馬を失望させたことがある。彼の劣等生ぶりだ。

 彼は勉強もダメ、運動もダメという春馬とは正反対の生徒だったのだ。ただ、それだけなら春馬は失望までしない。人には個人差というものがあるということを彼は十分にわかっていたから。

 そんな理解力のある春馬でも市川を劣等生とみなした理由、それは市川の異常なまでの不真面目さだった。まるで授業に身が入っていない。半分寝ていたり、隠れてノートに落書きをしたりしている。気分転換にもなる体育の授業でさえその態度は全く変わらず、だらだらダラダラ……。

 春馬はどんなことでも真剣に取り組むタイプの人間で、いい加減を嫌う。勉強然り、スポーツ然り。それはもちろん頭や運動神経が良いからということもあるが、それ以上にそうした方がずっと面白く感じるからだ。

(こんな人生じゃつまらないだろうな)

 春馬は密かに思いつつ、市川の学校生活を冷ややかに眺めていた。



 やがて授業が終わった。お昼を挟んで6時限分。いつもと同じ長さだが、春馬にとっては感覚的に3倍以上の長さに感じた。退屈だった。

 市川はみんなより少し遅れて席を立つと、教室の後ろに行き、掃除用具入れから徐にモップを取り出す。

(ん? 掃除当番か?)

「うん……」

 正確に言うと彼は掃除当番ではない。何人かのクラスメイトに頼まれて万年掃除当番の状態なのだ。しかし、そんな状態でも「市川の掃除している姿」が春馬の記憶に残っていないのは、市川の影の薄さがなせる業だろう。

 彼は一通り床をモップ掛けして掃除を済ませると、まだ残っているクラスメイト達に「バイバイ」と声をかけることもなく、まるで幽霊のように教室から姿を消したのだった。


 そのまま真っ直ぐに昇降口に向かう。もちろん彼は帰宅部だ。

(なぁんも、無かったなぁ)

 春馬は市川に聞こえないよう静かにぼやく。学校とはこんなにもつまらない所だっただろうか、そう思わずにはいられない一日だった。


 市川は、野球やサッカーなどの部活動が行なわれている校庭のすぐ横に敷かれた歩道を歩き、あっという間に校門を通り抜ける。

(家に帰ってまたあのアニメを観なくちゃいけないのか……)

 昨日これでもかというほど観せられた黒縁眼鏡の美少女を思い出して春馬はウンザリしかけたが、しかし、彼の予想は外れた。学校を出た後、何故か市川は自分の家のある東の方角には向かわず、春馬の通学路である南の道を歩き始めたのだ。

(あれ? どっか寄っていくのか?)

 不思議に思って春馬が尋ねたが、

「う、うん、ちょっと……」

 市川は歯切れの悪い返事しかしない。


 彼は学生だらけの街路樹の道をひたすら歩き続け、ほどなく一昨日春馬が事故に遭った現場に差し掛かる。春馬の魂と体が分離してしまったあの忌まわしい現場だ。

(…………)

 春馬は事故の痕跡を注意深く観察する。

 横断歩道を貫くようにして伸びるトラックのブレーキ痕、その延長上に残る血痕と思しき黒い染みと、消えかけた現場検証用の白いチョークのマーキング……。道はまるで原始的な記録媒体のように事故の内容をおぼろげに記録していた。

(まさかこんな形でまたこの場所に来ようとは)

 自分自身の事故現場とはいえ、それについてまったく覚えていない春馬に特別な恐怖心はない。ただ、あの時の自分と、今の自分の違いの大きさについては少なからず戦慄を覚えざるを得ないのだった。


 けれども市川は、そんな春馬の気持ちなどまったく構わずその横断歩道をさっさと渡り切ると、その先の角を直角に曲がり、今度は東に向かって歩き出した。

(何をしてるんだろう、こいつ?)

 春馬は彼の不自然な行動に疑問を抱く。ここから市川の家までは工場団地になっているだけで彼が立ち寄りそうな場所などなかったはずなのである。

(わざわざ遠回りして帰っているんだろうか、 …………ん? よく考えれば一昨日あの横断歩道に市川がいたのも不自然といえば不自然だな)


 市川は左右に工場が建ち並ぶ広い通りをいつもより早足で進んでいく。まだ就業時間のせいか辺りに人気はない。時折、工場の門からトラックが出入りしている程度だ。

「…………」

 なのに市川は、何者かに脅えるようにおどおどしながら歩いている。鞄を両腕で強く抱え込んで。


 彼はしばらくその道を歩き、工場団地の中ほどまで進んだ辺りで十字路を左に折れた。ここを真っ直ぐ行けば、恐らく市川のアパートの南側に出るだろう。

(…………)

 春馬はいよいよ市川の行動の不思議さに戸惑ったが、とりあえず何も言わずに彼に従っていた。



 ……それは、市川のアパートの手前にある鉄道のガード下に入った直後の事だった。


「よう! 市川」


 いきなり背後から声をかけられたのである。

 市川がはっとして振り返ると、そこには城ノ上高校のブレザーを着た男子が立っていた。奇麗に真ん中から分けた頭髪に切れ長の目、春馬もよく知っている人物、同じクラスの岡島だ。

(今日初めて名前を呼ばれた)

 そのことに春馬は少し安堵する。市川にもちゃんと友達がいたのだ、と。彼がわざわざここを通ったのも、恐らく岡島と待ち合わせをしていたからだろう。

 だが、

「奇遇だねぇ、こんなところで会うなんて。ククク」

 ニヤニヤした表情の岡島から発せられた言葉により、春馬の憶測は簡単に崩れたのだった。


 呼びかけられた市川の様子もおかしかった。体が一瞬で強張り、小刻みに震えている。どうみても友達と会ったというような感じではないのだ。そして、呼びかけた岡島に対し何の返事もせずに前に向き直ると、彼から逃げるようにして走り出した。


(どうした市川、岡島と何かあったのか?)

「……」

 春馬の問いかけに、市川は何も答えない。ただひたすら出口に向かって走っていく。

 その通路は中型のトラックが通れるほどの幅と高さがあったが、普段あまり使われていないのか人通りは無く、あちこちに道路工事の廃材や壊れた自転車などが放置されている。市川はそれらをうまく避けながら進み、出口まであと一歩という所までたどり着いた。

 が、


「!!」

(??)


 突然目の前に現れた二人の男に行く手を遮られてしまう。

(こいつらは……)

 春馬はその男達の特徴的な外見からすぐに彼らが何者であるかを導き出す。隣のクラスの水谷とジェナスだ。

 水谷は校則を破って金髪、鼻ピアスまでしており、ヤンキーのような風貌。ジェナスはアフリカ系アメリカ人と日本人のハーフで、肌が黒く、背は180を軽く超えている。彼らは愚かにも「俺達は不良」と公言しており、だから、老成している者が多い城ノ上高校の生徒達の間ではかなり浮いた存在だ。

(……)

 その二人を見た瞬間、春馬は何となくわかってしまった。市川と彼らの関係が。


 市川は二人の出現に急停止し、とっさに左右を見て行き場を探す。が、無駄だった。両手を大きく広げた二人と、無造作に置かれた廃材によって通路はほとんど塞がれてしまっている。もう身動きがとれない。市川は彼らによって計画的に挟み撃ちにされたのだ。


「はぁ、はぁ、はぁ、……」

 市川は走ったためと、極度の緊張のせいで激しく呼吸をしながらその場に立ち尽くした。その表情は、この世が今にも終わってしまうかのような絶望の色にまみれている。


 そんな市川に、岡島が後ろから馴れ馴れしく肩を組んできた。

「逃げんなよ、俺達友達だろ?」

 岡島は穏やかな口調でそう言ったが、しかし彼の態度はその言葉を露骨に否定していた。どうみても友達という雰囲気ではない。

「最近、通学路を通らないからおかしいなぁとは思ってたけど、なるほどねぇ、こんな方から家に帰ってたんだ。会えなくて寂しかったよ」

「……」

(……)

「でも、お前が青木の事故現場にいたっていうから、まさかと思ってここで待ち伏せしていたんだ。そしたらもろビンゴ、クフフフフフ」

 岡島は引きつった市川の顔を嬉しそうに眺めながらいやらしい笑い声を上げる。


(つまり市川は、岡島達に会わないようにわざわざ遠回りをしていたのか……)

 そこまでして市川が彼らを避ける理由、市川の悲しい現実を、春馬はこの後彼らの会話から知ることになった。


「……それで、用意できたのか?」


「む、無理だよ3万なんて。君達にみんな取られて僕はもうお金なんか持ってないよ」


 すると、穏やかだった岡島の表情が途端に険悪になる。

「おいおい、何言ってるんだよ。それじゃあ俺達がゲーセンで遊ぶ金はどうするんだよ」

「し、知らないよそんなの。お、親にもらえばいいじゃないか」

「ああぁ!!? 偉そうなこと言ってんじゃねえ。殴られたいのか?」

 岡島はガード下に響き渡るほどの大声を発し、右腕を振り上げて殴る体勢をとった。

 その所作に市川はたまらず首を竦め、体をちぢこませる。もう今にも泣き出しそうだ。


 そんな市川の怯えた様子に自尊心を満足させたのか、岡島は市川をあっさり解放する。そして、

「まあ、明日まで待ってやるよ。俺はすごーく優しいんだ」

 と言いながら、わざとらしく市川の乱れたブレザーを直した。


「明日この時間にここで待ってるから必ず3万持って来いよ。来なかったらどうなるかは、わかってるな?」

 岡島は切れ長の目を細めて脅迫まじりにそう言うと、俯いて立ち尽くす市川を残し、他の二人と共に笑いながら去っていった。


(岡島ってあんな奴だったのか……)

 春馬はここでもパラレルワールドを実感せずにはいられなかった。というのも、春馬は岡島のことを今まで真面目で優しい奴というくらいにしか思っていなかったからだ。

 春馬と岡島の関係は、親友というほどではないがクラスメイトとして親しく会話ができる仲だった。岡島は人気者の春馬に対してどちらかといえば控えめで、春馬の意見なら何でも賛同してくれるような従順さがあった。だから春馬は、岡島の市川に対する上から目線の態度に少なからず衝撃を受けたのだ。岡島にしても彩乃にしても、人というのはそれほどまでに相手によって見せる顔を変えるのか、春馬は悲しかった。


(確か岡島の家は裕福だったはずだ。だから、カツアゲは市川を困らせるためだけにやっているんだろう。まったくガキくさいことしやがって……、あれ? でもあいつの親って――)

 春馬が岡島のことをあれこれ考えていると唐突に視界が動き出す。しばらく呆然と立ち尽くしていた市川が思い出したようにアパートに向かって歩き始めたのだ。力なくトボトボと。


(……お前、岡島達にいじめられているのか?)

 春馬は問い質さずにはいられなかった。

「…………」

(何できっぱり断らないんだよ)

「…………だって、……殴られるし」

(いいじゃないか殴られたって!)

「嫌に決まってるだろ!」

(そんなこと言っていたら、お前ずっとカツアゲされ続けるぞ! それでもいいのか?)

「……」

(ああいう奴らは下手に出ると付け上がるんだ。わかるだろ? 3人で1人をいじめる時点で精神的に弱い奴らなんだよ。だから、お前が毅然とした態度で断れば、いじめられなくなるさ)

「……フン」

 春馬の熱弁に、けれども市川は何故か皮肉交じりに鼻で笑った。

「よくそう言うよね、いじめっ子は実は弱いって。でも、だからって僕が勝てるわけじゃない。だって僕はあいつらよりずっとずっと弱いんだから」

(自分が弱いだなんて思うからいけないんだ。もっと心をつよ――)

「もう黙っててよ! 君みたいに何でももってる・・・・人に、いじめられっ子の気持ちなんかわかるわけないんだから!!」

(っ…………)

 市川の指摘に、春馬は思わず絶句した。確かにそうなのだ、わかるわけないのだ。春馬は今までいじめにあった事などないし、真剣に考えた事すらないのだから。「いじめっ子は精神的に弱い。だから勇気を持って反撃すればいい」彼はずっとそう思ってきた。でも、実際にいじめられている者にとってはそんなの理想論だったのだ。そもそもそれができないからいじめられているのではないか。


(でも、何とかしなくちゃ……)

 春馬は市川の生活にできる限り関与しないと決めていた。他人の人生なのだから、と。しかし、それにも限界はある。何といっても彼は今、市川と二心同体なのだ。絶対に見て見ぬふりなどではしない。

(…………)

 トボトボと歩く市川の体の中で、春馬の思考が静かに回り始めた。

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