08_秘策
「じゃあその証拠に、今から兄である俺しか知らないお前の秘密を言う」
これが春馬の思いついた秘策だった。
魂が他人の中に入り込んでいる、なんてことは上辺だけの説明で信じてもらえるわけはない。ほぼ全ての人が「馬鹿にしている」とか「ふざけている」とか思ってしまうはずだ。でも、今まで美優とまったく接点のなかった市川の口から「春馬しか知らない彼女の秘密」が語られればどうだろう、彼の中に春馬の存在を認めざるを得ないのではないか。
「え?」
美優も思わぬ市川の発言に動きが止まる。そんなことあり得ないだろうと思ってはいても、興味だけは湧いたようだ。恐らく、絶対にいないと思っている宇宙人でもその動画があると言われれば気になる、まあ、そんな心境なのだろう。
市川も彼女の気持ちを知ってか知らずでか、もったいぶるようにふうっと息を吐く。
「……秘密って?」
美優はさらに食いついてきた。わずかだが不安や動揺の色も見える。彼女の中でも「もしかしたら」という気持ちが芽生え始めているのかもしれない。
「…………」
市川は俯き、十分なタメを作った後、
「秘密、それは……」
と、真剣な眼差しで美優を見つめる。
「……」
彼女も唾を飲み込みながら市川を見返した。彼が何を言おうとしているのか、彼女もかなり緊張しているようだ。
そんな彼女に向かい、市川は人差し指をズバッと向けると、春馬の言う「美優の秘密」を高らかに叫んだ。
「お前の右の乳首の下には、かわいいハート型のほくろがある!!」
「っ!!!!?」
それを聞いた美優の驚き様は凄まじかった。目の玉が飛び出してしまうんじゃないかと思われるほど両目を大きく見開き、それ以上に大きく開いてしまった口を隠すように両手で顔の下部を押さえている。まるで絶対にいないと思っていた宇宙人がいきなり目の前に現われたといった感じだ。
「決まったね」
(決まったな)
そんな彼女の様子に、市川と春馬は満足したように呟いた。たぶん二人ともなかなか信じてくれない美優に少なからずじれったく感じていたのであろう。
確かにこんな際どい秘密を言われてしまえばぐうの音も出ない。それは、ごく近い間柄の者しか知れ得ないはずのことだから。……ただ、いくら兄でもそこまで妹のことを知っているだろうか? いや、それこそ春馬がこの秘密を取り上げた最大の理由だった。というのも美優はいわゆるブラコンで、小学校を卒業するまで嫌がる春馬と無理矢理一緒にお風呂に入っていた。その時に二人で見つけた秘密なのである。少なくとも男で知っているのは春馬だけではなかろうか。
「あ……、あ……」
美優はわなわなと震えながら市川に近付く。最愛の兄が彼の中にいる、感動の再会だ。
(わかってくれたか、妹よ)
春馬も両手を大きく広げて、いや、大きく広げるような感覚で彼女を優しく見守った。彼にしてみても、ようやく理解者を得たという安堵感と、医者でも理解できなかったことを妹が理解してくれたという満足感でいっぱいだったのだ。
……が、しかし、それは一瞬でかき消されることとなる。
市川に手の届くところまで近付いた美優から繰り出されたものは、「お兄ちゃん!」と叫ぶ感極まった声ではなく、
パンッ!!
市川の左頬を狙った強烈な平手打ちだったのだ。
「ううっ」
よろめく市川。
(え……)
呆気にとられる春馬。そんな二人に美優はさらに罵声を浴びせかける。
「変態!! あなた私の着替えているところを覗いたんでしょ!! それとも盗撮!?」
「ち、違うよ、今のは僕の中にいる春馬君がそう言えって言ったんだよ」
市川は打たれた頬を押さえながら涙声で弁明する。けれども、
「うそ言いなさい! 自分は兄だからとか訳のわからない事を言って覗きを正当化しようとしているんでしょ!」
美優の怒りは収まりそうになかった。顔を真っ赤にし、頭からは湯気が立ちそうな勢いだ。その激高した姿に、春馬は秘密の選択を誤ったことを悟った。兄である春馬から直接言われるならともかく、他人である市川の口から言われることとしてはあまりに過激過ぎたのだ。
(市川、とりあえず俺が謝っていると伝えてくれ! それから――)
春馬は間違いを修正するために懸命に市川に台詞を与え始める。彼も必死だった。何せ母親に続き、ここで妹にまで変人扱いされたら、自分の体に接触する機会を永遠に失ってしまうかもしれないのだ。
「今のは春馬君も謝るって言ってる、ちょっと際どすぎたって」
「だから兄のせいにするな! この痴漢!!」
「ち、痴漢て、…………で、で、で、でも美優」
市川は自分の言葉では到底説得できないと悟ったのか、また春馬の言葉をそのまま伝え始める。
「落ち着いて考えてごらん。そのほくろはすごく小さいから覗きや盗撮じゃあ形までわからないだろ」
「そ、そんなの!! ……」
そこまで言いかけて、美優は市川を睨みつけたまま沈黙する。恐らく覗きや盗撮以外でそのほくろの形を知る方法を言おうとしたのだろうが、すぐに思いつかなかったようだ。
市川は諭すように言う。
「それは小学校を卒業するまでお前と一緒にお風呂に入っていた兄だからこそわかることじゃないか」
「しょ、小学校を卒業するまでって……、どうしてそんなこと知っているのよ!?」
「兄なんだから当然だろ。お前のことなら何でも知っているさ。好きな食べ物がマンゴープリンで、嫌いなものはセロリだっていうことも、料理は得意だけど魚をさばくのだけは苦手だっていうことも、去年折角バイオリンのコンクールで入賞したのにお兄ちゃんと離れるのが嫌だって留学の話を断ったことも」
「…………」
話を聞くにつれ、美優の表情が怒りから驚きへと変わっていく。その変化を冷静に見つつ、市川はさらに畳みかけるようにして彼女のことを語り続けた。
「本当はフランス料理よりラーメンが好きだっていうことも知ってるし、小学校の時に行ったカリフォルニアのディズニーランドで迷子になりかけたことも、修学旅行の日に遅刻して父さんのセスナで新幹線を追いかけたことだって知ってる」
「…………」
どう考えても他人では知りえない身内ネタの数々を市川から言われ、美優は呆然と立ち尽くしている。頭の中が完全にこんがらがっているようだ。
そんな彼女に対し、市川はだめ押しとばかりに問うた。
「そうだ美優、俺の八歳の誕生日にお前がくれたプレゼントを覚えているかい?」
「……え? プ、プレゼント?」
彼女はうわ言のようにぼんやりと聞き返す。混乱しているところで突然聞かれたため、頭が真っ白になってしまったのだろう。
市川は少しだけ美優に落ち着く時間を与えた後、優しい眼差しを彼女に向けながら答えた。
「青い手編みの手袋だよ」
「!?」
「指が六本もあってみんなには笑われちゃったけど、でも一生懸命作ってくれたんだよな。今はもう小さすぎてはめられないけど、ちゃんと大事にしまってある」
「……」
「あれは俺の一生の宝物だ」
それを聞いた美優の瞳がかすかに揺らいだ。
「……お、お兄ちゃん? 本当にお兄ちゃん、なのね?」
「そうだよ美優、俺は青木春馬。お前のお兄ちゃんだ」
その途端、美優の目から大粒の涙があふれ出した。
「お兄ちゃん!!」
彼女は叫びながら市川に抱きつく。激しく嗚咽を漏らしながら。とうとう彼女は市川の中に春馬がいることを理解できたのだ。
「わぁぁぁん、お兄じゃぁぁん」
彼女は狂ったように泣いた。人目などまったくはばからずに。彼女は彼女で最愛の兄が死んでしまうかもしれないという不安と絶望の中で必死に感情を抑えていたのだろう。
「おお、よしよし。お前も辛かったな」
そんな泣きじゃくる妹を春馬もそっと抱き締めるつもりで見守った。彼もまた、妹がこんなにも自分のことを心配してくれているということを知り、涙が出る思いだったのだ。久しぶりに感じる家族の温もり……。
……ただ、その一方で。
(こら、市川! 妹とくっつき過ぎだ。もう少し離れろ!! 美優も、この体はあくまで市川の体なんだから、そんなに強く抱きつくんじゃない! って、早く伝えろ市川!!)
他人の体に魂があるということは、何とも厄介なことである……。
美優は、市川の胸の中で――春馬には不本意極まりなかったが――ひとしきりわんわん泣いた後、やっと泣き止んだ。そして、大泣きしてすっきりしたのか市川を見つめながらわずかに微笑んでみせる。
「……本当によかった。お兄ちゃんが死んじゃうんじゃないかってすごく心配したんだから」
「こんな状態だからまだ明確に生きているって断言はできないけどな。でもまあ、とりあえずすぐに死んでしまうことはなさそうだ、体も大丈夫そうだったし」
「このこと、父さんや母さんには言わないの?」
「うーん、たぶん言っても信じてもらえないだろう。常識的には考えられない事だから」
「……そ、そだね」
美優も最初、市川の話を全く信用していなかった自分を思い出したのか、申し訳なさそうに苦笑した。
「だから美優、父さんや母さんをできるだけ元気付けてやってくれ。お兄ちゃんは絶対に大丈夫だって。俺も早く元の体に戻れるよう頑張ってみるつもりだから」
「うん、わかった。私もできる限り協力するね」
「ああ、頼む。今の俺はお前と市川だけが頼りなんだからな」
すると美優は、市川に向けていた眼差しを親しい人へのものから、他人行儀のものへと切り替えた。
「……あの、さっきはぶったりしてごめんなさい。市川先輩」
「…………え? ぼ、僕? い、いや、ぜ、全然大丈夫だから、き、気にしないで」
美優に突然謝られ、市川は途端にたどたどしい口調に戻る。全然大丈夫と言ってはいるものの、彼の左頬にはまだ赤い手形がはっきりと残っていた。
「兄をよろしくお願いします」
「こ、こ、こちらこそ、よ、よろしくお願いします」
こちらこそ……、市川は緊張で自分が何を言っているのかわかっていないようだ。そもそも彼自身は美少女の美優にしばらく抱きつかれていたせいで完全にのぼせており、今は春馬の言葉を伝えているのがやっとの状態だったのだ。ぶたれたり、抱きつかれたり、彼も忙しい。
その後、市川と美優は携帯番号やメールアドレスを交換し、「お互い何かあったらすぐに連絡」という約束を取り決めてから別れたのだった。
玄関のデジタル時計は17時02分を表示している。日差しも陰り、いつの間にかロビーの人気もほとんどなくなっていた。
(帰るか)
「うん」
そんなロビーを見渡しながら、市川と春馬は家に帰ることを決断する。結局、二人の願望は叶わなかったが、そのかわり美優という強力な助っ人を得る事ができたため、今日のところは名誉ある撤退といったところだろうか。
市川は二重の自動ドアを通り抜けて外に出ると、傾きかけた太陽を背に自宅の方へと歩き出した。
春馬は思う。
(しばらく市川と生きるしかないか……)
明日からは学校、たぶん病院にはしばらく来られないだろう。とすれば、自分の体に戻るのもだいぶ先の話となる。
(仕方ない、我慢するか)
道を進んでいく市川の視界を眺めながら、春馬はそう覚悟を決めたのだった。
……しかし、春馬は「市川と生きる」ということがどれほど大変か、すぐに思い知らされることになる。
(……い、市川、ニュースでも、見ないか?)
「…………」
(今夜サッカー、ワールドカップ予選だけど、それはぁ見るよな?)
「…………」
市川は家に帰った直後から薄暗い自分の部屋であるものを夢中で観続けている。春馬の要望に応える様子はまったくない。
「…………」
市川が夢中で観続けているもの、それはオタク界では有名の萌え系アニメだった。普段大人しい黒縁眼鏡の女子高生が、悪魔に取り憑かれた他の生徒を救うために美少女戦士に変身して戦うという陳腐な内容の。
もちろん春馬はそんなものにまったく興味がない。今日のニュースやスポーツの方がずっと気になる。が、市川が観る以上、春馬も強制的にそのアニメを観ざるを得ないのだ。
(……ある意味拷問だな、これ)
「ダンダダンダダンダダンダダンダン、タララタララタララタララダンダン……」
という妙に耳に残る女子高生の変身シーンのメロディーを聞きながら、春馬はそう嘆くのだった……。