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05_ダイブ

(起きろ市川! 病院に行くぞ!!)


 次の日、春馬は朝の8時を過ぎても一向に起きる気配のない市川を大声で――大声を出すような感覚で――起こした。生きるか死ぬかの瀬戸際にいるかもしれない春馬には、日曜日だからといってゆっくりとうたた寝を楽しむ余裕などないのだ。まあ、病院に行ったところで春馬の体に近付ける保証はないが、でも、ここにいるよりはずっと安心できるだろう。


 そんな春馬に対し、

「うーん、体の中からあんまり大声出さないでくれよ。耳を塞ぐこともできないんだから」

 などと市川はのんきな抗議をしたが、業を煮やしきっている春馬は全く聞く耳を持たない。彼は煽りに煽って市川を強引に病院へと向かわせたのだった。



 病院に到着し、受付で聞くと、春馬の体はすでに集中治療室から一般病棟に移っているとのことだった。昨夜はかなり危険な状態だったのに……。どうやらすぐにでも死んでしまいそうな状況は回避できたようだ。春馬はとりあえずほっとする。

 そしてさらに、

「好都合だね」

(ああ)

 そう、一般病棟なら彼らの「春馬の体に向かって思いっきりダイブする」計画が格段に実行しやすくなるはずなのだ。彼らの期待はいやが上にも高まる。

 ただ、面会時間は午後からということなので、春馬は一旦市川を病院から出させ、

(金は元の体に戻ったら倍にして返すから)

 と、かなり不確実な約束をしつつ、フラワーショップで花束を購入させる。お見舞いという名目で病室を訪問した方が自然だろうと春馬は考えたのだ。自分自身にお見舞いの花を持っていくなんて何とも滑稽な話だが、今の春馬は気付かない。



「市川君……、だったわね」

 面会時間になり、さっそく市川が病室に行くと春馬の母親が一人出迎えてくれた。父親と妹は一旦家にでも帰ったのか不在のようだ。

「迷惑をかけてしまったのにお見舞いまで……。本当にありがとう」

 そう言って、母親は花束を持つ市川に笑顔で応じようとした。が、表情を司る神経が麻痺してしまっているのか顔の筋肉がぎこちなく、前髪を垂らしてお辞儀するその様はもう柳の下の幽霊にしか見えない。「奇跡のアラフォー」と近所で評判の若々しく美しい彼女ではあったが、今は目の下にくまを作り、一日で何年分も歳をとってしまったかのようにやつれている。恐らく昨夜は一睡もしていないのだろう。


(母さん……)

 そんな痛々しい母親の姿を見て、春馬は自分が市川の中にいることをすぐにでも伝えたい衝動に強く駆られてしまうのだった。伝えて、伝えた上で「俺は大丈夫だから心配しないで」と慰めたかった。

 けれども彼は思い止まる。たぶんそれを伝えたところで絶対に信じてはもらえないだろうし、そればかりか昨日の医者のように「不謹慎な奴」という烙印を押されてしまうかもしれないと思ったからだ。


 市川はお見舞いの花束を母親に恭しく渡した後、病室内に入った。

「うっ!?」

 入った瞬間、彼は驚きのあまり思わず仰け反る。それもそのはず、その病室は彼がイメージしていたそれとはまったく違っていたのだ。

 やたら広い室内に大きなベッドが一つだけ置かれ、その脇には高級感漂うレザーのソファーが、壁には50インチほどの巨大なテレビまで取り付けられている。シャワー室や洗面スペースも当然完備。その上、最上階だから窓からの景色も最高ときている。どう見ても病室とは思えない。ちょっとしたホテルのスウィートルームに匹敵する快適さ。

 もちろん、普段からこんな環境が当たり前の春馬は別に驚かない。しかし、市川は「金持ちとはこんなものか」と、そう思ったに違いない。なにせ彼のアパートの部屋より100倍は居心地の良い空間だったのだ。


「どうぞ」

「……へ? あ、はい」

 春馬の母親に声をかけられ、市川は我に返り、おどおどしながらベッドに近付く。

 そこには、魂を失った春馬の体が仰向けの状態で寝かされていた。頭と左腕には包帯が巻かれており、顔は死人のように青ざめている。

(……)

 その姿に春馬はしばし言葉を失う。当然だろう。誰だって自分の死にそうな姿を見て平気でいられるはずはないのだ。


 ただ救いもあった。ベッドのすぐ横に据え付けられている心電図モニターの表示が、春馬が見るかぎり特に異常を示してはいなかったのだ。等間隔に振れる心拍の波形と、それに合わせてピッピッと鳴動する電子音のリズムが小気味よい。血圧の値も至って正常。本当にこれが死体のような春馬の体とつながっているのか疑ってしまうほどに安定している。


「……ど、どんな具合なんですか?」

 市川もしばらく無言で患者の様子をうかがっていたが、その後、春馬の母親に気兼ねしつつも尋ねた。事故の関係者とはいえ赤の他人である市川にとって込み入った事を聞くのは非常に忍びがたかったのだが、彼の中にいる春馬に激しく乞われたために仕方なしの質問だった。


 そんな市川に、母親は息子の顔をぼんやり眺めながら力なく答える。

「……よく、わからないのよ。大きな傷もないし、脳や内臓に目立ってダメージがあるわけでもない。なのに何故か意識が戻らなくて……、先生は、脳にCTやMRIじゃ見つけられない損傷が隠れているかもしれないとおっしゃっているけれど……」


 そこまで言って春馬の母親は絶句した。恐らく「よくわからない」というのが彼女を必要以上に衰弱させている原因なのだろう。意識が戻らない理由がわかれば――それがたとえ最悪の事であったとしても――心を定めることは可能かもしれない。だが、原因不明という不安定な状況ではなかなかに難しい。たぶん彼女は今、出口の見えない迷路をひたすら彷徨っているような状態なのだ。


 ただ、春馬には見当がついている。意識が戻らない理由の。

(……魂が抜けているからだ)

 恐らくそうだろう。いくら体が健康でも魂がないのだから意識が戻るはずはないのだ。

 そして、そのことが春馬に強い確信をも与える。「魂さえ戻れば何の問題もなく復活できる」という確信を。


 春馬は計画を実行に移す決断をする。善は急げ、もう迷ってなどいられない。しかし、さすがに母親の前でベッドにダイブするわけにもいかない。


 そこで春馬は一計を案じる。

「あ、あのぁ、その花なんですが、水がないとすぐに枯れてしまうらしくて……」

 これは春馬が市川に言わせた方弁である。春馬は花の知識などないし、逆に母親はよく知っているかもしれない。が、送られた相手にそう言われてしまえば、

「え? あ、ああ、ごめんなさい。今すぐ花瓶に生けるわね」

 そう答えざるを得ないだろうと春馬は踏んでいたのだ。


 果たして、母親は花束を持って洗面スペースの中に消えた。そこはドアこそないが壁によって隔てられており、ベッドに対し完全に死角の位置にある。


 準備は整った。ついに計画を実行に移す時がきたのだ。

(よし、市川やるぞ!)

「う、うん」

 市川は春馬に促され、ベッドから一番離れた部屋の隅に急いで移動する。幸い部屋は広い。ここからなら結構な勢いで春馬の体にダイブすることができるはずだ。

 その場で春馬は市川に一呼吸置く時間を取らせた後、母親がまだ洗面スペースから出てきていないことを確認すると、「時来たれり」とばかりに叫んだ。


(行け! 市川!!)

「うん!」


 市川はベッドに向かって駆け出す。「絶対に元の体に戻ってやる!」という春馬の強い願望と共に。

 母親が出てくる様子はまだない。大丈夫だ。

 市川は可能な限りの速さで走り、勢いがついたところでベッドの手前にあるソファーに飛び乗った。そしてさらにひじ掛けに足を掛ける。


(飛べ! 市川!!)

「っ!!!」

 

 次の瞬間、彼は宙を舞った。蝶のように華麗に……、いや、大空を夢見たペンギンのような鈍臭さで。一体誰が想像しただろう、病院のベッドに思いっきりダイブする高校生の姿を!

 その後、彼は地球の重力に任せて急降下、今度はあり得ない速さで春馬の体に向かって落ちていく。


 ゴキッ!!?


 病室に鈍い音が響き渡った。市川が春馬の体に見事に激突したのだ。

(よし!)

 そう思った瞬間、春馬の視界が真っ暗になる。


 ………………。


 永遠に続くかと思われるほどの長い一瞬。しかし、

「ううっ」

 という市川のつらそうな呻き声によって時がまた動き始めた。


(……元の体に、戻れたのか?)

 自分の魂がどうなったのか、春馬にはすぐにわからなかった。元の体に戻れたような気もするし、戻れなかったような気もする。ただ、

(体を動かしてみればわかる)

 そう思って、春馬はとりあえず目を開けてみようと試みた。

 すると、真っ暗だった視界に光が!?


(も、戻れた!!)


 ……が、しかし、そう思ったのも束の間だった。明るくなった視界に飛び込んできたのは、春馬自身の青ざめた寝顔のどアップだったのだ。

 どうやら春馬の魂はまだ市川の中にあり、彼が目を開けようとしたのとほぼ同時に市川も目を開けたため、彼は一瞬戻れたと錯覚してしまったらしい。


「ど、どう? 戻れた?」

 そんなこととは露知らず、市川はぶつけたおでこを手で押さえながら期待を込めて春馬に確認したが、

(だめだ、失敗だ)

「そ、そんなぁ」

 春馬の返答にがっくりとうなだれてしまう。

 春馬もショックだったが、市川もかなりショックだっただろう。何と言っても実際に激突して痛い思いをしたのは彼なのだから。


 ただ、二人に気落ちしている時間はなかった。

(市川、もう一回やるぞ!)

「うん!」

 他の方法が思いつかない以上、この方法にかけるしかないのだ。彼らは何度でもチャレンジしてみるつもりだった。


 市川は急いで春馬の体の上から降りようと両腕を突っ張る。

 が、その時だ。

「うっ!?」

 凍りつくように冷たい視線を背後から感じたのは。


 市川は春馬の体に覆いかぶさったまま、恐る恐る後ろを振り返った。

 そこには、……呆然と立ち尽くす春馬の母親が、いた。真っ青だった顔を一層真っ青にし、手に持つ花瓶を小刻みにプルプルと震わせながら。


「……え、っと、あの、こ、これにはわ、訳が、……」

 市川は完全にパニクり、反射的に自分の現在の状態を説明しようとした。が、口も頭も完全に空回りしてしまっていて何を言っているのかさっぱりわからない。さらに、

(……)

 共犯者である春馬も、市川に助け舟を出すことができずにいた。まあ、それも仕方がないだろう。誰が説明できるだろうか、意識不明で寝ている病院の患者の上に、四つん這いになって覆いかぶさっているこのおかしな状況を。


 やがて、春馬の母親が市川の言い訳を無視し、無表情のままポツリと呟く。

「出てって……」

「いや、あの、だけど、ぶ、ぶつかれば、春馬君の魂が――」

 それでも市川は言い訳をしようとしたのだが、次の瞬間、母親の顔がまるでカラクリ人形のように一瞬で鬼の形相に早変わりした。

「出て行きなさい! 人を呼びますよ!!」

「は、はいいい!!」


 結局、春馬と市川は目的を果せぬまま病室から追放されてしまったのだった。


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