04_市川の家
母親の軽自動車に乗せられ、市川が自宅に着いたのは夜の11時を少し回っていた。
家は築30年を超える公営アパートで、そこに母、中学生の弟、小学生の妹の四人で暮らしているらしい。父親は、市川が小学生の時にパチンコに行ってくると言って出ていったきり帰ってこないという。つまりは母子家庭だ。
家に入ると、中はしんと静まり返っていた。弟達はもう別の部屋で寝てしまっているのか見える所に姿はない。
「私は明日も早いからすぐ食べてちょうだい」
そう言うと、母親は帰宅の途中で買ったコンビニのおにぎりを市川に放り投げるようにして渡し、自分はあちこちに放置されている食器や洗濯物を忙しなく片付け始めた。彼女は小さなスーパーの副店長を任されており、毎日朝早くから夜遅くまで働いているらしい。
だからかもしれないが、彼女は事故にあった息子に「大丈夫?」と優しく声をかけることもなく、明日の仕事の事ばかり気にかけている。まあ、心配するほど市川が大きな怪我をしているわけでもないから仕方ないかもしれないが、でも、まさかその息子の中に他人の魂が入り込んでいるとは夢にも思っていないだろう。
「……」
市川も春馬のことは一言も口にせず、言われた通りおにぎりを食べ始めた。
(味が、ない……)
ここでも春馬はおかしな体験をする。
口が動いている感覚はわずかだがある。しかし、その中で噛み砕かれているはずのおにぎりの味がほとんどわからなかったのだ。匂いもわからない。どうやら春馬の感覚は、視覚と聴覚は普通、触覚はわずかに感じられる程度で、味覚と臭覚に至ってはほとんどないといった状態のようだ。
おにぎりを食べ終わると、市川は母親に追い出されるようにして居間を出た。部屋数が少ないから母親は居間のソファーで寝ているのだ。
市川は長男のためか一人だけ自分の部屋を持っていた。玄関から入ってすぐ、日当たりの全く期待できなさそうな部屋だ。
彼は黙ってその部屋の前まで移動したが、何故かすぐには中に入らず、急にそわそわし始める。
(どうした?)
不思議に思って春馬が尋ねると、市川は言いづらそうに答えた。
「……オシッコ、したい」
(オシッコ? すればいいじゃないか)
「で、でも、見えちゃうんでしょ?」
(見られたくないのか?)
「当然だよ」
(じゃあ目をつぶってすればいい)
「そ、そんな器用なことできるわけないじゃないか!」
(ったく、いいじゃないか見られたって、男同士なんだから)
「嫌だよ」
(…………はぁ)
春馬はつまらない言い争いに思わずため息をつく。いや、ため息をつくような感じで酷くウンザリする。
(じゃあしなきゃいい)
「……」
春馬の突き放した台詞に、市川は言葉を失う。しなきゃいいと言われてもずっと我慢しているわけにもいかないではないか。
「できるだけ見ないでね」
市川は、自分と同じものを見ている春馬に無理難題を押し付た後、仕方なさそうにトイレに駆け込んだのだった。
……しかし、そこで春馬は驚くべきものを目撃することになる。
(い、いいもん持ってるじゃないか……)
市川の部屋は四畳半くらいだろうか、春馬の部屋の三分の一にも満たない広さだった。
そんな狭苦しい部屋に、あっち系のマンガやラノベ、フィギュアなどが所狭しと並んでいる。典型的なオタク部屋だ。
(す、すごいな、お前の部屋……)
中を見た春馬はその光景に思わずドン引きする。「オタクとはこういう所に生息しているのか」ちょっとしたカルチャーショックだった。けれども、市川はそんな春馬のことなどお構いなしにいつも着ているのであろうよれよれのスウェットに着替えると、
「あー、もう今日はほんとに疲れた。寝る」
と、ベッドにごろりと寝転んでしまった。
(あっ)
途端に春馬の視界が真っ暗になる。市川が目をつぶったのだ。
(おい市川! 体が心配だから明日できるだけ早く病院に行ってくれよな)
春馬は言いそびれていた事を急いで言ったが、
「……」
しかし、もう市川の応答はなかった。本当に速攻で寝てしまったようだ。
(ったく、歯も磨かずに寝やがって)
ただ、そういう春馬も心なしか眠い。眠い感じがする。どうやら体が無くても眠くはなるようだ。
(確かに今日は色々あったからなぁ)
あり得ない事の連続で、いくら魂だけだといっても春馬には相当負担になったに違いない。
しかし、まだ生きるか死ぬかの瀬戸際にいる彼には、どうしても市川のように安穏と睡眠をむさぼることなどできなかった。今後の事について考えずにはいられなかったのだ。
(ずっとこのままなんて耐えられない。早く元の体に戻りたい)
一番の願望。ただそう思う一方で、
(いや、でも、もしかしたら事故に遭って本当は天国に行くはずの俺の魂が、市川の体の中に入り込んだがために死なずに済んだのかもしれない。だから無理に戻ろうとするとかえって危険なのかもしれない)
という不安も浮かんでくる。もともとあり得ない状況なのだ。どんな危険が隠れているかわからない。けれども、しばらくそういった懸念をあれこれ考えていれば、
(いや、でも、やっぱりこのままなんて絶対に耐えられない……)
また願望がぶり返す。堂々巡りも甚だしかった。
「はぁ……」
春馬はため息をつき、右手をおでこに当てた。その仕草は、彼が困っている時にする癖のようなものだった。
「…………」
彼が眺める薄暗い天井には、美少女アニメの特大ポスターが貼られている。そんな物を見るにつけ、春馬はさらにため息が出る思いに駆られるのだった。残念ながら彼にはそういう系にまったく興味がなかったのだ。
「まったく、あれの何がいいんだよ…………………………………って、おい!!」
その瞬間、春馬はある事に気付いて飛び起きた。
「体が、動かせる!? い、市川の体なのに!?」
そう、春馬はいつの間にか市川の体を動かしていたのだ。ごく自然に、自分の体のごとく。しかも、動かせるだけではない。着古されたスウェットの肌触り、わずかに口の中に残るオニギリの風味、日が当たらない部屋特有のかび臭さ、全ての感覚が完全にクリアなのだ。
「市川が寝ている時は、この体を自由にできるということか」
勘の良い春馬はすぐに現状を理解する。そして同時に、最近巷で流行っている事柄について連想せずにはいられなかった。一つのものを複数の人で共有するスタイル、シェアハウスやシェアサイクルのような……。それは、現在の春馬と市川の状態にも当てはめることができるのではないか。
「体をシェア、つまり、シェアボディってことか……」
春馬は薄暗いオタク部屋の中で一人、そう呟いたのだった。