02_現状把握
春馬の体はストレッチャーに乗せられたまま病院内を慌しく運ばれていく。
それを追うようにして春馬の視点もゆっくりと移動していた。
(…………)
春馬は、ここでようやく自分がまったく別の人間を通して外界を見ていることに気付く。何故か「市川尚之」という人間を通して。
(市川……尚之……)
彼について春馬は思いを巡らす。
(確か市川は俺と同じクラスだ、だったはずだ。見たことはある、何となく。確かなで肩でなよなよしていて大人しくて、それから……)
しかし、それ以上いくら考えても春馬は彼のことをほとんど思い出せなかった。いや、思い出せないのではない。そもそも記憶にないのだ。
春馬はクラスでも人気者、いうなれば強い光を放つ恒星だった。彼の周りにはいつも沢山の男子や女子が惑星のごとく集まっている。だから、春馬の重力圏外にいるわずかな星々については残念ながら彼からは見えづらいのだ。
ただ、それにしても市川というクラスメイトの印象はおぼろげだった。
ほどなくして、春馬の体を乗せたストレッチャーは救急処置室と表示された部屋の中へと運び込まれていった。
そのすぐ後ろを歩いていた市川もそのままそこに入ろうとしたが、
「ここでお待ちください」
と、看護士から手前の部屋の長椅子で待つように指示される。たぶん怪我の状態を見て、医師が春馬の体の治療を優先させたのだろう。
反対側の椅子には見覚えのある小学生くらいの女の子も座っている。トラックにはねられそうになっていたあの女の子だ。
少し服は汚れていたが、見たところ大きな怪我はない。どうやらトラックからは逃れられたようだ。
ただ、事故にあったのがよほどショックだったのか、さっきから付きっ切りで女性看護士に慰められているが、しくしく泣き続けている。
(…………)
けれども、今の春馬にはその女の子に気を配る余裕などなかった。体と魂が分離してしまっている、その認識が彼の心に途轍もない不安を作り出していたのだ。
(これ、まずいよな、絶対に。体の方は大丈夫だろうか? まだ生きてはいるようだけど……、いずれにしてもこの状態はまずい。まずすぎる。このままだと死ぬような気がする。死ぬ、……し、死ぬって!? は、早く元の体に戻らないと)
彼は市川の体から抜け出そうと必死にもがいた。いや、もがこうとした。が、魂だけの彼にはどこにどう力を入れてよいのかさえわからない。
(こ、これって……)
そこで彼は、自分の運命が完全に詰んでいることに気付く。
普通の幽体離脱だったら、もしかしたら自分の体にすんなり戻れたのかもしれない。何事もなかったかのように目を覚ますことができたのかもしれない。しかし今、春馬の魂は完全に閉じ込められてしまっている。それも自分の意思ではまったく自由にできない他人の体の中に。これでは自分の体に近付く事さえできないではないか。
(まずい、まずいよ、まずいすぎる。このままじゃ……)
自分の死がすぐそこに迫っている、でも、どうすることもできない。その思いが普段冷静な彼を激しく動揺させた。
(どうすりゃいいんだ、どうすりゃいいんだ、どうすりゃいいんだ……)
心がどんどん乱れていく。混乱の度合いが大きくなっていく。
(くそぉ)
彼は堪らず叫んだ。いや、叫ぶような感覚で強く思った。
(どうすりゃいいんだよ俺は!!)
「!?」
すると突然、先ほどから床に固定されていた視界がびくっとして右に左に何度か動いた。
そしてその後、
「……だ、誰?」
小さく不安げな声が聞こえる。自分が発した声を自分の耳で聞いたような感覚。そう、市川がしゃべったのだ。春馬の思いに反応するようにして。
(もしかして市川は俺の声が聞こえるのか?)
その疑問が、春馬の混乱を一気に沈静化させる。
彼は試すように市川に呼びかけてみた。いや、呼びかけるような感覚で強く思った。
(市川、俺の声が聞こえるか?)
すると彼はびっくりして立ち上がり、
「だ、誰!? どこにいるの!?」
と、あちこち見回しながら大声で叫んだ。
(やっぱり聞こえてる!)
まったく外界と遮断されているわけではない、その思いが春馬に一条の光を与えた。
ただ、市川の突拍子もない大声に、前に座っていた看護士はびっくりしたように目を丸くし、泣いていた女の子でさえちらっと市川の様子を確認した。
それを見て春馬は慌てて市川に声をかけた。いや、かけるような感覚で強く思った。
(ちゃんと聞こえてるから小声で話せ、変な奴だと思われるぞ。まあとにかく座れ)
「え? うっ……」
春馬に言われ、市川も前の二人の視線に気付いたのか、恥ずかしそうに腰を下ろした。
そして、二人が自分から視線を外したのを確認した後、改めて小声で、
「だ、誰なの?」
と、お腹に話しかける様に俯きながらまだ見えぬ誰かに尋ねた。
(俺は、俺はな、……青木春馬だ)
「青木、くん? え、でも君は今……、ちょっ、えっ!? うそ! ま、まさかゆ、幽霊!?」
市川は驚いて大声を発し、再び前の二人をびっくりさせてしまう。
(違う! ……い、いや、そうとも言い切れない。実際、幽霊なのかもしれない)
「ええ、そ、そんなぁ!?」
市川は前の二人の視線などお構いなしに酷く動揺した。まあ、それはそうだろう。いきなり幽霊のようなものに話しかけられたのだから。
(落ち着け! 確かに今の俺は幽霊のような状態だが、まだ死んでない。……たぶん。体の方も今のところ生きているみたいだし。ただ、どうやら俺は体と魂が離れ離れになって、そのうちの魂がお前の体の中に入り込んでしまっているようなんだ)
「は、入り込んだ? え? ど、どこ?」
春馬の説明に、市川はとっさに自分の体を見回す。
(どこにいるかはわからないけど、確かに俺はお前の体の中にいる。俺はお前が見ているものを見ているし、お前が聞いているものを聞いているんだ)
「ど、どうしてそんな事に?」
(俺だってわからないよ。トラックにひかれそうになっていたそこの女の子を助けようとして車道に飛び出したところから記憶がないんだ。状況から考えてたぶん俺ははねられたと思うんだが……、いや、お前の方が詳しい事を知ってるんじゃないのか? 同じ救急車に乗っていたんだから)
「え? う、うん……」
春馬に促され、市川は思い出すようにしてあの時の事を語り始めた。
市川は女の子より少し前にあの横断歩道を渡っていたらしい。そして渡り終えた時、突然ブレーキ音が聞こえ、振り返ると女の子の目前にトラックが迫っていたのだそうだ。「危ない」と思った瞬間、春馬が横から走り込んできて、女の子を道の外に突き飛ばした。それで女の子は助かったのだが、春馬はもろにトラックと衝突し、吹き飛ばされ、その先にいた市川と激突したのだという。
(俺とぶつかってよく無事だったなお前)
「無事じゃないよ、あちこち痛いし、手だってほら、擦り傷が」
市川は春馬に見えるよう手のひらを目の前に広げてみせた。
(トラックにはねられた奴とぶつかったんだぞ、それくらいで済んだのは奇跡だよ)
「……そ、それはそうかもしれないけど」
(ただなるほど、その話から考えると、俺がはねられてお前とぶつかった時に俺の魂がお前の体の中に入り込んでしまったのかもしれないな)
「そ、そんなこと信じられないよ」
(俺だって――)
その時、二人の会話を遮るようにして救急処置室の扉が開き、中から男性の看護士が顔を出した。
「サキちゃん、中へどうぞ」
どうやら次は女の子のようだ。
呼ばれた彼女は最初入るのを嫌がったが、付き添いの看護士になだめられると、仕方なさそうに処置室へと入っていった。
「……」
(……)
春馬と市川はその様子を黙って見ていたが、処置室の扉が閉まり、部屋がまた静かになると、市川は少し怒り気味に春馬に訴えてきた。
「と、とにかく、早く出てってくれよ、これは僕の体なんだから」
会話が途切れたために、彼は自分にとって不都合極まりないこの状況を冷静に把握することができたようだ。事故に遭った春馬に「出て行け」とはあまりにも冷たいような気もするが、他人が自分の体の中にいるのだ。良い気分がしないのも当然だろう。
(俺だってそうしたいよ。このままじゃ本当に死んじゃうかもしれないし……、でも出られない。どうしたらいいかまったくわからないんだ)
「そんな、困るよ。何とかし――」
するとその時、また救急処置室の扉が開き、さっきまで女の子に付き添っていた看護士が出てきた。
彼女は市川に近付くと、
「痛いところがあったら教えてください」
と、優しく問いかける。どうやら簡単な問診をするようだ。
「ええと、右膝が痛いです。あと手のひらが……」
市川は言われた通り答え始める。さっきあちこち痛いと言っていたが、冷静に答えているあたり、やはり大した怪我はないようだ。
「他には?」
「え? えっとぉ……」
それだけ? という雰囲気が看護士の表情に表れ、市川は言葉を詰まらせた。その時、
(……そうだお前、俺の今のこの状況の事を聞いてみてくれないか?)
春馬は思い立って市川に頼んだ。
人と人がぶつかるという事故はそれほど珍しいことではない。特にサッカーや野球など複数のプレイヤーで行なうスポーツではよくあることだ。だから、看護士なら今の春馬のような事例を知っているかもしれないと彼は考えたのだ。
「あの、青木君……、トラックにはねられた彼の事なんですけど……」
市川も良い機会だと思ったのか、さっそく看護士に詳しい説明を始める。
「なるほど、彼の魂が。それで?」
看護師は市川の話に何度も頷き、真剣に聞いてくれた。そして最後には、
「すぐに先生を呼んできますから、待っていてください」
と言い残すと、そのまま急いで処置室の中に入っていった。
その様子に、
「やっぱりこういうことはよくあることなのかも知れないね」
(そうだな。ちょっと気持ちの悪い話だから単に表に出てこないだけかもな)
市川と春馬は安心して医師が来るのを待っていた。
しかし、先ほどの看護士が医師を連れて戻ってくると、
「さっきからおかしな事を言っています。外傷はないみたいですが、頭を打っているかも知れません。早めに検査したほうが」
看護士は医師にそう耳打ちしたのだった。