01_事の始まり
どうしてこんな景色になっているのか、自分は今どういう状況なのか、彼にはまったくわからなかった。
けたたましいサイレンを響かせて走る救急車の中で、青木春馬は、救急隊員の処置を受ける自分の体を何故か傍から呆然と眺めている……。
事のきっかけは土曜日の夕方だった。
「たまには青木も片付けていきなさいよ」
「うっさいなぁ楓は。俺はやらなくていいって部長も言ってるじゃないか」
「部長はいいって言っても、私はダメなの!」
「何だそれ、マネージャーは部長より偉いのかよ」
春馬が通う「城ノ上高校」は県内屈指の進学校だけあって土曜日でも普通に授業がある。ただ大抵は午前中だけだったため、午後は、多くの運動部が練習や稽古を行う時間として活用していた。
それは春馬が所属するサッカー部も例外ではなく、この日も彼は夕方近くまで苦しくも清々しい青春の汗を流した。
しかし練習が終わると、彼は後片付けをする部員達を尻目にそそくさと帰り支度を始める。実はこの後、彼にはもう一つの大切な青春イベント、付き合い始めた彼女との下校タイムが待っているのだ。
春馬の彼女、高宮彩乃はこの学校一の美少女と呼び声高い新体操部のエースだ。
春馬よりひとつ年上の三年生なのだが、先に声をかけたのはなんと彩乃の方だった。
といってもそれは特別なことではなかった。何故かといえば、春馬は学校一のイケメンで、学年一の秀才で、しかも家はお金持ちで、おまけに運動神経抜群というスーパー高校生だったからだ。
当然彼は女生徒達の憧れの的であり、だから、人気者同士の彼と彩乃が付き合うようになったのも極々自然の流れだった。
そんな二人のラブラブな下校タイムを「練習の後片付けをしていけ」といつも無慈悲に妨害してくるのが鬼マネージャーこと井上楓だった。
髪が短く、見た目も性格もボーイッシュな彼女は、女の子らしい女の子が好きな春馬との相性が最悪で、顔を合わせればいつも喧嘩ばかりしていた。
練習の後片付け、それは運動部の下級生にとって当たり前の作業であり、楓の言うことは至極もっともなのだが、しかし、春馬にはそれをしなくてもよい理由がちゃんとある。
彼は去年、創設から現在まで一貫して県大会一回戦負け、今年はいよいよ廃部になるのではないかと噂されていた城ノ上高校サッカー部を、一年生ながら県ベスト8まで押し上げた。
このため、上級生を含めたサッカー部全員が春馬を「救世主」と呼んで崇めているのだ。そんな彼に「後片付け免除」の特権が与えられたのも当然のことだろう。が、楓はそれを当たり前のように受け入れた春馬のことが気に食わないらしい。
彼女は春馬にとって唯一の天敵と呼べる存在だった。春馬のまとうイケメンオーラは強烈で、少しくらいわがままを言っても大抵の女の子はそれを「おちゃめ」ととらえて笑って許してしまうのだが、どういうわけか彼女にはそのオーラが効かないのだ。
「また井上さんとけんかしたの?」
腰まである長い髪を風にたなびかせながら校門で待っていた彩乃が、不機嫌そうな顔で現われた春馬にそう声をかけたのは、今日で何度目だっただろう。
しかし、春馬の鬱憤はすぐに晴れてしまうのだった。美しすぎる彩乃の笑顔が、楓の鬼の形相などいとも簡単に忘れさせてくれるからだ。
二人は、新緑の街路樹が美しい駅までの道を並んで歩いた。普段は学生やサラリーマンだらけのその道も、土曜日のせいか今日は家族連れやカップルが目立つ。学校指定のブレザーを着てはいるものの、手をつないで歩く春馬と彩乃になんら違和感はなかった。
ただ、今日の春馬の幸せは少し短かった。塾だという彩乃といつもより数百メートルも早く別れることになったからだ。「受験生だから仕方がない」と頭ではわかっていても、もう少しだけ彼女の手に触れていたいと思ってしまうのは、見た目によらず春馬が女性に対し意外に純情だという証拠だった。
仕方なく、彼は人波に消えていく彩乃の後姿を見届けた後、彼女とつないでいた左手を大事そうにズボンのポケットに入れ、自宅の方へと歩き出した。
そう、この直後だった。おかしなことになったのは。
「!?」
その時、春馬は不自然な光景を目撃する。
彼の進む先にある横断歩道は青信号、にもかかわらず左から大型のトラックがまったく速度を緩めずに近付いてくるのだ。
横断歩道の上には小学生くらいの女の子が一人。健気にも右手を上げ、何の迷いも無く道を渡っている。猛スピードのトラックと小学生と青信号。あまりにも非常識で、あまりにも非日常的な組み合わせ。
見れば、あろうことかトラックのドライバーがよそ見運転をしているではないか!
「っ!!」
春馬はとっさに飛び出す。運動神経抜群の彼の体が、頭で考えるより先に行動に移ったのだ。
その時にはドライバーも気付いたらしく、トラックは猛スピードで突進する自らの巨体を何とか停止させようと悲鳴のようなブレーキ音を上げ始めた。
そして、その音の向かう先には呆然と立ち尽くす少女。
「間に合ってくれぇぇぇ!!」
…………そこで、春馬の記憶は途絶える。
気付いた時にはすでにこの状態。自分の体を傍から見ている状態だった。
(な、何なんだよ、これ……)
最初、彼は夢を見ているのだと思った。まあ、それも当然だろう。自分の体をまったく違う位置から眺めているのだから。感覚も、視覚と聴覚以外はぼやっとしていて何となくリアリティがない。
ただ目の前の光景はどう見ても「夢」で片付けられるような生易しいものではなかった。実用的な医療器具、頭を固定されピクリともしない患者、病院と連絡をとる救急隊員の切迫した声。見えるもの全て、聞こえるもの全てが「これは現実」と彼に訴えかけてくるのだ。
(恐らく俺はあの後トラックにはねられたはずだ。それもかなりの勢いで。その結果が今のこの状態なのか……)
春馬は混乱しながらも今の自分の状況を把握しようと必死に考えた。
(……とすると、これってもしかして幽体離脱というやつか!?)
幽体離脱なんてオカルトチックな話を、彼は今まで信じた事がない。しかし、現に今、彼の魂と体は別々の場所にある。
(でも、それにしてはおかしい)
幽体離脱というと、魂が空中をふわふわと浮いているようなイメージが春馬にはある。でも、彼はちゃんと座っていた。座っているような感覚があった。それは、視界の下の方に時々映り込む手や足の存在でも認識できる。
(それじゃあ、誰かと体が入れ替わった?)
映画か何かでそんな話があったことを思い出す。男と女が入れ替わるようなコメディーを。しかし、それとも違っていた。入れ替わったのなら、自分の体でないにしろ、手や足を動かすことくらいはできるはずだが、いくら動かそうとしても春馬の意思ではまったく動かせなかったのだ。視点すら自由にできない。全てが勝手に動く。まるで動画サイトでFPS(※)の実況中継を見ているかのような感覚……。
(どうなってんだ)
結局、春馬は目の前に横たわる自分の体を呆然と見つめる事以外何もできなかった。
やがてサイレンが止まり、救急車も停まった。病院に到着したようだ。後ろのハッチが開くと、外にはすでに看護師達が何人も待ち構えていた。
すぐさま春馬の体は救急車から下ろされ、ストレッチャーで運ばれていく。
その脇で、置いてけぼりにされた彼の魂も車内から外へと勝手に移動した。
途端、視界が真っ赤に染まる。夕日の光だ。彩乃と別れてからそんなに経ってはいないのだろう。が、何時間も救急車に乗っていたような気分の春馬にとっては意外な光だった。
そんな中、
「あなたもこちらへ」
女性看護師の声が横から聞こえ、それに応えるようにして春馬が見ている視界もゆっくりと病院の方へスライドし始める。
それにつれて、彼の意識もまた夕日から病院へと自然に移行していった。
と、次の瞬間、視界に入った救急入口のガラスドアに、このFPSのプレイヤーと思しき人の影が写り込んだ。
(ええっ!?)
それを見て春馬は愕然とする。彼にはその影に見覚えがあったのだ。
(い、市川、市川尚之!?)
(※)FPS:ファーストパーソン・シューターの略称。シューティングゲームの一種で、ゲーム画面がプレイヤーキャラクターの視点になっているもの。