浮上
初めまして、砕と申します。
よろしくお願いします。
沈む、沈む、沈む。水面から遠ざかる。
躰を包む冷たい水の感触も、息が出来ないことの苦しさも、いつの間にか消えていた。
下へ下へと沈んでゆく感覚だけが、終わることなく続いている。
ここに来るまでに、全て失ってしまった。光も、音も、家族も、友人も、繋がりも、楽しかった時間すらも。
そして、この命さえ失おうとしている。何もかもを胸の奥に押し殺して守り抜いた、俺にたった一つ残されたもの。思いの外呆気なく、俺の手から離れていくんだな。
死。生の終着点、抗えぬエンディング、絶対平等のピリオド。もうすぐ俺の元へと訪れる、永遠の安息。
ようやくしがらみから解放されて、俺は自由になれる。やっと死ねることに、俺は喜びすら覚えていた。
自由になったら、何をしようか。何がしたいか。何が出来るか。
――何が出来る?
俺はこれから死ぬ。死んだら俺の意識は消滅する。沈む躰はやがて朽ちる。かつて繋がりのあった人々の心には、もう俺の存在は残っていない。俺があの世界に残せるものは何もない。
死ぬことは、いなかったことになるのと同義なのだ。
何故そんなことにも気付かずに舞い上がっていたのだろうか。
理解した途端、心の奥底から、水より冷たく湖底より昏いものがせり上がってくる。それは俺が三年間閉じ続けてきた蓋を容易く除け、錆びついた喉を震わせ、
「あ……」
小さな一つの音を漏らす。音は凍った聴覚を解かす。
「た……て……」
喉が段々動くようになる。口の中にまで出てきたそれは、簡単に言葉となり、抑える間もなく飛び出した。
「たすけて…………」
言葉になったそれは、逃れようのない明確な存在として俺の意識を責め立てる。
死への恐怖。生きとし生けるあらゆるものが本能として持つ根源的で絶対的な感情は、最初の言葉を切っ掛けに堰き止められることなく溢れ出した。
「嫌だ。死にたくない。嫌だ、誰か、誰か! 助けて! 死にたくない! 嫌だ、助けて! 死にたくない! 誰か! 山吉! 阿久井! 助けてくれ! 渋川、大友! 俊本!」
返事がないと分かっていても、意味がないと知っていても、叫ばずにはいられなかった。そうでもしていなければ、今にも自分の存在が消えてしまいそうな、そんな気がした。何故声が出るのかなど、気にもならなかった。
俺を見捨てた、或いは俺と同じ境遇にいた奴らの顔が浮かんでは消えていく。名前を声に出すたびに、彼らは俺に背を向けて立ち去って行った。
「いやだ、だれか、しにたくない、たすけて、」
言葉が単調で支離滅裂になり、息切れを起こす。頬に熱いものが伝う。
「なんで、だれか、たすけて、どうして、おれが、」
何故。どうして、俺はこんなところで死ななければならないのだろう。
死への恐怖が、少しずつ変質していく。
全てを奪い俺を死に追いやった奴への、そんな理不尽を、不条理を許す世界への、怒り。憤り。
恐怖で冷え切った躰が、憤怒の熱に灼かれる。目の前が赫に染まる。
「――――――――あああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァッァァァァァァァ!」
枯れて上手く発声出来ない喉を酷使し、獣のように叫ぶ。狂人のように感情を暴力的に表出させる。
「ァァァァァァァァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ、」
喉が限界に達したのか、息切れが酷くて、ああ、もう終わりなのか、消えてなくなって、跡形もなく、なにもかも、なく、なって、
めのまえに、ひかりが、てんごく? もう しんだ の あれ、めが、みえて、視覚が、戻って、いる?
僅かに全身の感覚がある。水らしき冷たさと、それを上回る芯の熱さ。そして目の前に突然現れた、不思議な光。
身体の熱が、光に惹かれるように強くなる。もしかして、あそこに辿り着ければ、死なずに済むのか?
頭で分からなくとも、身体がそれを肯定した。力が湧いてくる。光に向かって、必死で這いずり出す。
近くならない。ならもっと速く。もっと強く。生きられるのなら、全てを捨てて、なりふり構わず、砕けた筈の腕を脚を、前へ前へと、ただひたすらに。
生きたい。生きていたい。それがすべてで。それだけのために。先へ先へと、振り返らずに。
それでも、光に届かない。近づけない。
何が足りない。何が違う。何故だ。また、駄目なのか。まだ、世界は、俺を、拒絶するのか!!
憤怒の赫が視界を塗り潰す。
ずるり、と。何かがずれた感触。前を見ると、光は目と鼻の先だった。
よく分からないが、この光は先程のものとは違う。俺を受け入れようとしている。
だから俺は、その優しい輝きに、身を委ねた。
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