八月十五日 その1
それでは三部構成の八月十五日です。
八月十五日
この日、僕は亜悠が試合を行う中体連女子バスケットボール全国大会の会場に向かうため早起きした。前日の夜に父親からデジカメを借りるお願いをした。
正直、いつも大事に使っているデジカメをすんなりかしてくれるとは思わなかった。父親はカメラ大好き人間で、休日には時々デジカメを持って写真を撮りに出かけている。
そんな父親の宝ともいえるこのデジカメを僕に託してくれたんだと考えれば、僕を少し認めてくれたのかなあと思った。粗末にはしたくない。手に持つとじんわり父親の愛情が湧いてくる。少し嬉しくなる。さあ、こいつとともに出かけよう。
携帯電話、財布をポケットに入れてこいつのストラップを首にかける。着替えの入ったスポーツバッグを肩にかけて半ズボンとTシャツというシンプルな軽装の支度を済ませて家の玄関のドアを開けた。
早朝とはいえ日差しは強く、外の景色は眩しいほどだ。こんな天気を待ってたんだ! 試合を一緒に観にいく優香とは佐々高駅前で待ち合わせすることになっている。
開催場所は静岡県。女子大会は男子とは別の会場で行われるらしい。亜悠はもう会場入りして、開会式も昨日行われたらしい。今日、予選リーグで明日に決勝トーナメント、明後日に決勝戦が行われることが調べてわかった。だから亜悠のチームが勝ち上れば一泊することになる。お金は母親が用意してくれた。ありがとう、お母さん。試合は九時に行われる。だからそれまでに着けばいい。
僕は自転車を漕ぎ、駅へと出発した。道を走りながら、夏休みという実感を改めて噛みしめた。胸がワクワクしている。この衝動をペダルに重ねて、駅へとグングン加速していく。どんな旅になるだろう。
バスケの試合や雰囲気を撮るために借りたこのデジカメで、途中の景色を撮るのもいいな。色々撮りたいものはある。でも、一番は亜悠の姿を撮りたい。亜悠の姿を想像すると全身が波打つ。この感覚はなんなんだろう。あの不思議な絵を描いていたそれと近い。
不思議なことにあれ以来、僕の中で変化しているものがある。それは意識とでもいうのだろうか。それを確かめにこの旅を行くかのようにも感じられる。
駅が近づき、優香と待ち合わせる改札口の前を一瞬確認する。すると、カウボーイハットを被った優香らしい女の子が一人、駅バス停留所の所で立っているのが見えた。
「あ、優香だ」
自転車置き場に自転車を停めて、管理人に100円玉を渡す。そしてズボンのしわを簡単に手で伸ばすと、停留所へと歩く。
でも、優香とはあまり学校以外で遊ばないし、一泊になるかもしれない遠くの旅行をするのは初めてになる。僕は緊張したまま近づいた。
「やあ、優香」
「おーい、遅いぞー」
「ああごめん」
頭に大きなベージュのカウボーイハットの優香は、当たり前だが学校と雰囲気がだいぶ違う。
「遅いから近くのコンビニでお菓子買っておいたよ。電車の中で食べようよ」
優香の服装は、上はピンクと水色のボーダーベストの下に白のTシャツ。アクセサリーは首と左手首に金色の星と月の形を施されたネックレスとブレスレット。下は腿までの灰色のスパッツというかレギンスを履いていて、その上に革の細いホワイトのベルトをつけた薄い紺色のデニムのショートパンツを着ていた。やや細い体のラインがコーディネイトをさらに整えている。うん。かなりいい。
「いいね。似合ってるよ! かわいいな」
「創太に言われなくてもわかってるし」
自分に自信があるような優香の素振り。でも、そんな優香を僕は嫌いじゃない。
「でも、ありがとー」
優香は少しいたずらっぽく笑う。本当に芸術だけに情熱を傾けているあの優香と今の優香はイメージがかけ離れている。そういう変化が女の子は本当に魅力的だ。
「とりあえず、切符買って構内で電車待ってようよ」
「うん」
切符の販売機に向かおうとして駅に入ると、いくつか並んでいる椅子に一人のおばあさんが座っていた。そのおばあさんと目が合うと僕達二人に、「あななたたち、どこいくの?」と声をかけてきたので、僕は「静岡です」とだけ答えた。「気をつけてね」と心配してくれるおばあさん。優香はそのおばあさんに、「あっ」と一礼だけする。
このおばあさんは僕達をどう思っているのかな。そんなこと考えていたら、僕は優香を女性として思いっきり意識した。優香はクールだけど、意外な面もある女の子だ。
これから優香と電車で何を話そうか、思案した。でもそんなに神経質にならなくても優香とは長い付き合いだから普通に過ごせる。それは分かっているんだけど、今日の優香にはドキドキさせられる。僕に続き優香も切符を買う。その姿を見てるとやっぱり魅力的だ。
「あ、ドリンク買うの忘れてた。買ってくるから待っててー」
「じゃあ先に構内行ってるよ」
「うん」
改札口を通ってホームで待つことにした。やがて優香がドリンクを持ってやってきた。
「はい、創太はコーヒーでいいね」
「お、ありがとう」
優香はオレンジジュースだった。
「ベンチに座ろうか」
僕はそう言うとベンチをみつけて一緒に座った。
到着時刻に近づいてきたため、僕達の周りには人集りができてきた。
その間ずっと空を眺めて電車を待っていると、優香はこう話しかけてきた。
「創太、空になにかあるのー?」
「いや、特にないよ。ただ眺めているだけさ」
「そうは見えないけど」
「え? そうか?」
「創太が描く絵はいつも空ばっかでさ。最近はそうでもないけど。空が友達なの?」
僕はその質問に下を向いて考えた。
「うーん」
「それとも、空の向こうに誰かいるのかな?」
「え、なにそれ?」
「さあね」
「?」
優香はグビッとオレンジジュースを一口飲む。一体何だよ優香。
空。僕は空に何を見てるんだろう。
アナウンスはなにも流れないまま静岡行きの電車がやってくる。僕達は立ち上がると電車がホームに流れ込むのを待つ。
電車がホームへとゆっくり減速しながら停車する。電車の中にはまだ朝早い事もあって、人々の姿はまばらであった。
「ボックス席座ろう。長旅にはボックス席がいいからさ」
僕達は対面するかたちでボックス席に座った。
これから静岡の駅に着くまで二時間半、電車に揺られることになる。目的地に着くまでの過程が旅の面白い所だ。優香となら退屈せずにいられる。
電車が駅に停車するたびにデジカメで風景を撮った。その作業が楽しく夢中になった。もっともっと撮ろう!
「わっ!」
突然デジカメの視界が真っ暗になった。急に優香がレンズの前を手で遮ったのだ。
「驚かすなよ。てか邪魔だよ」
「さっきから景色ばかり撮ってないでさー。私も撮ってよ」
「え?」
「だからー、私。せっかく綺麗な女がいるんだから撮ってくれもいいでしょ」
そういえば、優香を被写体にして撮ってなかった。なんだか悪い気にさせちゃったかもしれないな。よし、これからは優香もバンバン撮るか!
「さあ、いくよー。おいっちにぃ」
「おいっちにぃ、だって。ダサ」
「この掛け声ダメかよ? なんだっていいだろ」
「イチ、ニのサン、ハイ! でしょー」
「なんかそれもちがくない? せーの、だろ」
「ま、タイミングよく撮れる合図があればなんでもいいよー」
「おいっちにぃがダサいって言ったのおまえだろっ!」
「ふふっ、あはははは」
そうしたやりとりを経て撮った写真は優香が口元にピースしていたり、変顔したり、無邪気にウインクしたり、テヘペロな笑顔をしたりと様々だった。その間はとても楽しかったし、お互い笑いあった。やっぱり神経質になることなんてなかったな。僕達が楽しく会話している間、電車は静岡の目的駅に着いた。
「えー。もう着いちゃったのー。早いね」
「なんかあっという間だったよな」
電車を降りて改札口を通過すると、今度はタクシー乗り場でタクシーに乗り込み会場へと向かうことにした。運転手は僕達二人を見て微笑んだ後、運転してしばらくしてこう言ってきた。
「お二人さん、デートですか?」
ギクッ!
「何言ってんですか!」
僕は慌ててごまかした。僕と優香は友達であって、決してそのようなことは……!
「あはは! 創太とそうだったらいいんですけどねー」
優香はさらりとそう言うので僕は顔が真っ赤になっているのが分かる。彼女を見るとけろっとしている。ていうか、それどういう意味なんだ。
「いいですねー。私は若い頃はあなたたちのような交際はしてなかったのでうらやましくて、つい」
運転手の顔をフロントミラー越しに見ると、笑顔でしんみりとした口調で喋っている。見た感じ五十代の人だろうか。白髪が所々生えており、眼鏡をかけていてそこからのぞく瞳は酸いも甘いも経験してるような眼で、しかし情は嬉々とした双眸を滲ませている。
「だから車の中で空を見ているとたまにそんな苦い青春を思うときがあるんですよー」
僕は何か運転手に言おうと思ったが、言葉が胸に詰まった。この人はそんな風にして空を見ているんだな……。
「だってさー、創太。運転手さん、創太も空ばかり見てるんですよー」
「そうなんですか。でも、今の私とあなたが見る空とでは同じ空でも違う空が見えるでしょうね」
この運転手は僕と近い何かを感じているかもしれない。そう思い尋ねてみることにした。
「運転手さん、空って運転手さんにとって何ですか?」
「そーですねー。簡単にいうと人生ですかねえー」
「人生ですか……。僕も空が好きでよく空の絵を描いているんですが、空に何があるかは実はよくわからないままただ描いているんです」
「ほう」
「でも、空を描いてると落ち着くっていうか、気分がいいんです」
「空の絵とはどんな絵を描いているんですか?」
「色々な空です。曇り空とか、快晴の空とか、夕焼け空、明け方の空だったり。夜空も」
「そうですか。色々な空を描かれているんですね」
「はい」
「色んな空が世界にはあります。きっと私達が想像できない空もあるはずです。あなたはそんな空に自分の想いを託すことができるのではないでしょうか。私はもう眺めることしかできませんが。色々な空を経験されるといいでしょう。感動できるようなとびっきりの空の旅を。なんちゃって、これはタクシーですが」
僕はそんな運転手の話を聞きながら、しばらく感傷に浸った。運転手の話は冗談もまじってはいるものの、どこか悲しい響きが残ったからだ。僕はまだ中学生で、運転手に偉そうなことはいえないけれど……。
「運転手さんだって、空の旅ができますよ。これは冗談じゃなくて」
「その想いがあなたの空なんです。その想いだけで私には十分です。ありがとう。さあ着きましたよ。お代を頂戴します」
幸い駅からそんなに遠くない会場でタクシー代は安く済んだ。タクシーの運転手に料金を手渡す。
「ご利用、ありがとうございました」
後部座席のドアが自動で閉まると、タクシーはUターンして走り去っていった。
「この静岡に来て、最初の人と空の話ができるなんて思わなかったな」
「空はみんな毎日見てるものだしねー」
「ああ」
きっと使う言葉は違う国でも、生き方、考え方はそれぞれ違っていても、どこにいても空はみんなの中にある希望、救いの象徴ではないかと気づかされた。しみじみ旅っていいな、ここに来てよかったと思いながら歩いた。
次の回はやや文学的な描写が多くなったり。