八月七日
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この日、正午を過ぎたばかりの時間に僕は特別校舎三階にある美術部の門を叩きに階段を上っているところだった。いくらか心臓の鼓動が速くなっているのが分かる。また、一から始めるんだ。
そういう気持ちでトイレの洗面所の鏡で自分の顔を見て気合を入れると、美術室の前に立ちつくす。
顧問は僕を見てなんて言うのか。美術部のみんなはどう思うのか。そんなこと考えると引っ込み思案の僕は委縮してしまうけれど、今はそんな悠長にしてはいられない。絵を上達するためなら。そのために来たんだ。恥ずかしいことじゃない。決意を胸に僕は美術室のドアを開けようとした。
ところが、ドアは勝手に開いた。美術部の後輩が何かの用事で僕より先に開けたのだ。
「あれ? 新井先輩じゃないですか。どうしたんですか? 何か用ですか?」
「あ、いや、ち、ちょっと顧問に用があってね」
「そうなんですか。顧問ならちょうど美術室にいますよ。じゃあ失礼します」
「……ああ」
佐々木は礼儀正しい後輩だよなあ。とはいえ自分の中で少し調子がくるってしまった。とにかく美術室に顧問はいるらしい。
一歩美術室に足を踏み入れると、美術部のみんなが僕のほうを一斉に見る。シーンと静まり返るこの空気に僕は凍りついた。
懸命に喉から何とか声を絞り出してみんなに挨拶をかけた。
「や、やあみんな」
美術部の部員達は何もなかったかのように作業を再開し始める。ふ、ふう。でも、声かけてくれないのは寂しいよなあ……。
「おー! 新井! 何で来たんだ!」
大きなトーンで僕に声をかけてきたのは顧問の大鳥先生だった。でもこの先生、これが普通のテンションだった。僕は顧問に頭を下げて懇願した。
「実は大鳥顧問。僕、この夏休みの間だけでも美術の勉強がしたくて。もう一度、籍入れさせてもらえませんか」
目をつぶり大鳥顧問の返事を待った。大鳥顧問は考え込んでいるらしい。即決に返事は返さない。
「だーめだ!」
うっ。やはりだめか。
「おまえ受験生だろ! おまえのような学力のない生徒が、夏休みを無駄にしてまで美術に力を注ぐべきではない! 受験に備えろ! いいな!」
わかっているよ。そんなこと。
「わかっています。でも、今やらなくちゃいけないんです! 顧問! 僕は絵がうまくなりたいんです!」
「駄目に決まっとろうが! せめて担任に相談するか、学年主任に相談してからもう一度来い!」
ああ、なんか面倒くさいことになりそうだなあ。担任も主任も説得するのは至難の業か。でも、もう一度絵を描くためならしかたないそうす――。
「私はいいと思いますよ」
突然、優香が僕と大鳥顧問の話の間に入り、さらっと発言する。後ろの窓際の席で。
「ん! 優香! おまえが何言っとる! おまえが美術部で活動できるのは、優秀だからだろう! こいつがおまえほど優秀ならわしもそりゃあ文句言わずに認めるが!」
「三年生でも部活に没頭している生徒もいるんですし、創太ならギリギリ底辺校には受かるから心配ないですよ」
おい! その言い方はなんだ優香! 確かに的は得ているけどムカつくしあんまり説得力ないだろ!
「おまえが言うなら仕方ないな! そのかわり面倒はおまえがみろよ! わしゃ知らん!」
え?
「じゃあ夏休みだけな!」
この顧問、本当に生徒の事考えているのか? 担任や主任の意見を聞かず、優香の一押しで納得するなんて。
「おもいおもい勉強しろ! 後悔はするなよ! 好きな席につけ!」
そういうと顧問は美術室の奥の顧問専用のアトリエへと入っていった。なんかドタバタしたけど、一件落着ってとこか。僕は優香のすぐ前の席に着くとお礼を言った。
「はあー。優香。絶妙な間合いで助かったよ」
「顧問は私には甘いからね。私知ってるんだ」
「やっぱりひいきの生徒には弱いんだね。ちょっとムカつくけど」
久しぶりに優香と会って話をして気分は落ち着いた。午前中に買った美術の参考書を開くと、彼女のアドバイスと本の内容を照らし合わせて自分の手をデッサンすることにした。
二時間後、完成したデッサンを優香に見せると、もうちょっとここはこうしたほうがいい。とういようなアドバイスをもらった。どうやら僕の画力はまだまだらしい。そのことはもちろん承知しているけれど、優香は具体的にどう思っているのだろう。その答えという代わりにスケッチブックに過去に描いた優香の自分の手のデッサンを見せてくれた。う、うまい。感嘆の声をあげそうになった。そのデッサンは素晴らしく、僕のと比べるまでもない。優香のアドバイスを聞きながらもう一度描くことにした。
今日の部活動が終わった後、自然と優香と一緒に帰ることになった。その帰り道で上機嫌で優香が言う。
「いつも自分の好きな絵しか描かない創太がまた美術の基礎からやり直すなんてどうしたのー? もしかして、美術の青南高校目指すとか?」
「前に優香に将来の事について聞いたじゃん。もちろんそういうこともあるけれど、まず僕にとって絵を勉強することがすべてのことに通じているような気がして。将来の自分、今の自分が納得できることをする。それが絵を描くことだから。学校の勉強を大事にすることも、そりゃあ学生である以上しっかりしないといけないけどさ」
「うん。創太がそう思うならきっとそれが大事なんだよ」
「優香が色々教えてくれるしさ。優香がいて助かるよ」
「……。ていうか、創太ってそういうとこやけに素直だよねー。ふふっ」
「実はこんな風に美術に取り組めるようになったのもある人がきっかけなんだ」
「ある人?」
「うん。バスケ部の女子で、広場で絵を描いていた時に知り合った人なんだけど」
「う、うん」
「絶好の絵が描けたと思ってたんだけど、突然の雷雨が襲ってきて絵が濡れると慌てふためいていたらその人が傘をかしてくれたんだ」
「え……」
「それからなんだろう、何度か会っているうちに彼女のことが気になってて。そんなことがあったんだ」
「よ、よかったねー」
それからしばらくお互い黙ったまま歩きつづける。さっきまで上機嫌だった優香は黙々と歩いている。
「優香、どうしたの?」
「なんでもないって」
それからまた歩いていると優香は僕に尋ねてきた。
「その人の名前、なんて言うのー?」
「うん。小柳亜悠っていうんだ」
「ふーん」
「八月十五日に女子バスケの全国大会があるらしくて、それをぜひ観に行けたらいいなと思ってるんだ」
「……観に行くのー?」
「うん。いきたいな」
しばらく二人で歩いていると優香は小さい声でこう言ってきた。
「あの、良ければ私も行ってもいいかな。邪魔かなー」
亜悠の姿を見に行くことが一人じゃなければいけないなんてことはない。むしろ優香がついてくれれば一緒に楽しく観戦することができる。僕はそれも悪くないと思った。
「いいよ」
僕がそう言うと優香は空を見上げる。夕焼け空が綺麗だ。
「ありがとう。私と一緒に行ってくれるなんて創太は優しいね。大丈夫、邪魔はしないから」
「邪魔って? ああ、遅刻しないようにね。っていうか優香が遅刻した事みたことないし大丈夫か」
「夏休みの息抜きとしてならいいし、創太は創太で、私は私でいい想い出になりそう」
そう言うと優香は鞄をゆっくり振り回しながら二、三歩前に出てジャンプした。
「ジャンプ!」
「どうしたの?」
「ううん、べつに」
やがて両腕を左右に広げ、鞄の遠心力に任せてクルクル回りながら夕焼け空を見上げて歩き続ける優香。
「おいおい、あぶないよ」
そんな僕に対して優香は短い制服のスカートをひらひらと揺らしてそのまま回り続ける。
「創太、こうしてると気持ちいいの」
なんだかそんな優香は幼い子供みたいだ。僕は穏やかにその様子を見つめる。実際、僕達は子供だけど、中学生だけど、やがて迫る大きな将来に対してこのままのんびり過ごせていけたら、生きていけたらいいのになと夕焼け空を見上げながらぼんやり思った。でもきっとこのままではいけないんだろう。夕焼けを覆いそうな雲がそう語っている気がする。
次は八月十五日の三部構成でお送りする予定です。読んでくれた方、ありがとうございました。