八月五日
八月五日
この日起きたのは正午すぎだった。昨日、漫画を最終巻まで一気読みした疲れもあった。
ベッドから体を起こしさっそく自分の部屋の窓を開けると、じんわりとした外の空気の熱気にやや気怠さを感じるなり、アイスクリームを食べようと思いつき階段を下りて一階のキッチンにある冷蔵庫から一本とりだして口に頬張る。そのまま居間の椅子に腰かけぼんやりとしたままテレビをつけるとニュースにチャンネルをまわす。どうやら今日から真夏日が続く本格的な暑さが始まるらしい。夏は小さい頃から好きでよく花火を見たり、そうめんを食べたりしたけれどそういった恒例の事が退屈に感じられる最近だ。
今年の夏はどんなことが起こるのか。特にこれといった期待をしないでいる分、何か寂しい感じがする。
アイスクリームの消えたスティックをゴミ箱に放り投げると居間から二階に上がるその階段に向かおうとして廊下に出る。その廊下から奥に見える玄関には壁によりかかったあの子の細く長くしまわれた赤い傘が存在している。玄関まで行き、その赤い傘を見ると昨日の出来事が強烈な印象として思い起こされる。彼女のおかげで絵が濡れずに家まで持って帰ることができたんだ。感謝感謝。
……また今日も広場に行ってみようか。赤い傘を見るなり、そんな気持ちにかられた。
画材道具を持ち、広場に着いた、自転車を広場に置きっぱなしにしていたため歩いてここにたどり着くまで暑さにうなだれたのはいうまでもなかった。
そして倒れている自分の自転車が置いてある場所まで行くと、自転車を起こしながら広場を見渡す。そこにはいつももゲートボールをしている老人達が映っていた。
「あれ」
しかし今日の広場に集まっていた人達はそれだけではなかった。女の子が三人、広場の真ん中でボールを使って何か練習をしているようだった。見た感じバスケのドリブルをしているようで、ボールをパスしたり忙しく動き回っている。
「へえ、珍しいな」
いつもそんなに人がいない広場なだけあってその三人が特別鮮やかに見える。僕と同じ中学のジャージを着ている。この静かな場所に人が来るのはいいことだ。これだけ無駄に広いとゲートボールしている老人達だけじゃもったいなくてしょうがないよ。
堤防を上ると、いつもの川は昨日の夕立のせいで水かさが若干増している。
昨日描いた不思議な空。その余韻がどことなくこの広場には漂っている。そのまましばらく堤防の道に沿って歩く。
MP3プレーヤーでお気に入りの曲を聴いていると自然と気持ちは落ち着いてくる。そろそろなにか描こうか。しかし暑くて日差しを直にうけている場所では今日はつらいだろう。
ジリジリとした日差しが照りつけている。僕は木陰で休みながら描ける場所を選んだ。
ペットボトルの水を飲んだ後、あぐらをかいて画用紙を広げる。対象を何に絞るか迷った挙句、近くのベンチにすることに決めた。
絵を描こうとする矢先にそのわきで三人の女子の一人がこちらに近づいてくるのが見えた。
あ! もしかして!
その女子が僕の目の前までくる。僕はその近づいてくる姿をみて理解した。赤い傘をかしてくれた彼女であった。僕は立ち上がり、彼女を見つめた。このただならぬ暑さの中、彼女はTシャツの肩の裾で顔の汗を拭い、日差しの強さに目を細めながら僕を見ている。柔らかい表情だ。僕は軽い挨拶をしてやや訥々としながら話しかける。
「あのあとずぶ濡れで風邪ひかなかった?」
髪を覆うように赤いタオルがまかれた彼女の頭は後ろから少しだけ髪が露出し、おでこは丸見えのボーイッシュないでたちだった。そんな彼女を前に、僕はまたしても気恥ずかしさが募った。
「あのあとね、家に着くまで結構かかってお母さんに傘、どうしたの!? なんて驚かれちゃった。理由はちゃんと言ったんだけどね。こんな天気にそんなことするなんてバカじゃないのって言われて、私はこんな天気だからしたんだけど! って言ったの」
彼女は屈託のない表情で言う。僕もそんな彼女の様子につられて流れるように話をすすめる。
「でも本当に助かったよ。ここはいつも人がいない場所だから今度あんな状況になったら確実にびしょ濡れだからね。絵は無事持ち帰ることができたよ。僕も母さんにあの傘どうしたの? って訊かれたから困ったよ」
「ふふっ。ビックリしちゃったんじゃない?」
こうやって話してみると彼女は開放的で、いかにもスポーツをする活発な人という印象だ。
「御飯を食べながらだったから喉が詰まるかと思ったけれどね。あの時、不思議な空だって言ったじゃん。絵を帰ったあとに広げたんだけど本当に不思議な感じでさ。見てると今までの絵となんか違うんだ。
僕がそう言うと、彼女は僕の顔をじっと見ながらなにか窺っているようで、僕は自分の顔に何かモノでもついているか気になった。
「なんか不思議って君が思うならその絵はただの絵じゃないんだよ。きっと!」
「え? どういうこと?」
「私にはその絵が何をいっているかわかる気がする」
「え?」
「綺麗な絵とかただの落書きのような模様の絵にもきっと言葉ってあるのかもね」
「哲学的で考えさせられるなあ」
「私は君の絵をみてそう思ったの。私に問いかけてきたの」
そう言われて、気恥ずかしさよりも嬉しさが心の中に満ちた。あまりにさらっとした流れで僕の表情はそれほど変化はしなかったんだけど。なんで彼女が僕の絵に対してそう言えるのか、訊ねてみたくなった。冗談交じりでこう言ってみた。
「なんで僕の絵にそこまで影響されてるの? あんな絵、大したことないよ」
彼女は即答だった。
「私の中で意味がある絵だったの。君が毎日描いてる絵は君にとっては大したことなくても、私には大きな意味がある。君の中にそれを感じた」
僕はすぐにその先を知りたくなった。
「じゃあ、言葉にするとしたら僕の絵にはなんて言葉がぴったりなんだい?」
「うーん、自由に空を飛んでいるかな。それを描いた君は自由に空が飛べる人だよ」
「飛んでいる……?」
訳が分からず少し考え込んだ。
「初めてこの広場で絵を描いている姿を見てそんな気がした。でも近くで絵を見たときに思ったの。やっぱりそうだって。思いのまま空を飛べるんじゃないかって」
それは一体どういうことなんだろう。
「パラグライダーやバンジージャンプならしてみたいけど」
そう言う僕に対し、彼女はむすっとした表情で、「もう、そんなことじゃないのに」と言う。そして続けてこう言う。
「……鳥っていいよね。空飛べるんだもん。なんで人間には羽がないんだろう」
そう言う彼女は、僕と同じように空に関心があるのかもしれない。
「僕は空を飛びたいと思ったことはないなあ」
「君! なんか夢がないね!」
「そう? あ、でも空飛べるとしたら地上を見下ろしてみたいな。タワーから眺める景色は好きだから」
「へへーん。私は空を飛んで見下ろしたことあるよ!」
「あ、うらやましいなあ」
「ふふっ。私、気球に乗ったことがあるの。幼い頃に。沢山のバルーンが空を飛んでて」
「うん」
「で、様々なカラフルな気球でみんなで青い空を進んでいくのが楽しくて、とても嬉しかった」
「へえ。そんな経験あるんだ。飛行機じゃなくて気球ってのがいいね」
「君の絵を見たとき、その光景がバアッと浮かんだの」
そんな話をしているうちに彼女は僕と同じ感覚をどこかに持っているのかもしれないと感じた。
「君も空が好きなの?」
僕は少しドキドキしながら聞いてみた。
「君こそ好きなの?」
え? 意外な返答に僕は戸惑った。けれど、その答えなら明白だ。
「もちろんだよ。色々な空が僕は好きさ」
「私もそうだよ。今日の空は元気だね!」
今日は青い色が空に澄み渡っている。うん、たしかにそうだ。
「ここの場所っていいね。心洗われるっていうか」
彼女は少し遠くをみつめるような切ない目をしながら言うもんだから僕は黙った。ただ、一言「……うん」と頷いた。
「あー、ここにいるとのんびりしちゃう! 私もう眠たい!」
「そういえばいつからここで遊んでるの? もう三時だし」
「遊びじゃないよ! 練習なんだから!」
「練習って、バスケの?」
「そう。今年ラストの大会が控えてるし、朝から特訓! 君もやってみる?」
「僕はいいよ」
「私ばっかり日焼けしないで君の体焦がしなよ。スパルタで鍛えてあげる」
「じょ、冗談だろ? この炎天下であんなところで朝からって、すごいなあ」
「いっとくけど、私女子だかんね」
「ははは」
彼女は下は青色の学校指定のハーフパンツでそこからのぞく脚は細くも無駄のない肉つきで短いソックスにシューズを履いている。上は白いTシャツで肩は右の裾をまくっている。体は女性の運動している逞しい健全ないでたちのそれだった。締まった体だ。頭に巻いた赤いタオルからのぞく髪がおしゃれだ。両手を腰にあてて立っている。その姿やしぐさもかっこいい。セーラー服を着ていた時とはだいぶ違う雰囲気であった。
昨日の彼女よりも今日の彼女のほうが魅力的にみえる。ちらっと僕は横顔を見る。意志が強そうな瞳。
「私、あの絵をみて幼いころからの夢をおもいだして。頑張らなくちゃって思えた」
彼女はニコッとほころばせた後、僕を見つめてきた。僕は彼女の視線に一瞬たじろいだが目を逸らしちゃいけないと思った。彼女の瞳を受け止めようとしたものだから、ぎこちのない力を込めて見つめてしまった。
「あ、そういえばあの傘……」
今日会えたのに傘を忘れてしまった。俺ってばいったい何してるんだろう。
広場でバスケの練習をしている他の二人が僕達に近づいてくるのが見える。その内の一人が僕の隣にいる彼女に声をかけた。
「お~い! 亜悠~。いつまでのんびりしてんのー。ずるいぞー!」
「ごめーん! 実奈~!」
彼女は二人のほうに駆け出す。その姿に僕は慌てて声をかけた。
「あ! 今度傘を返すよ! よかったら学年とクラス教えてくれない?」
彼女は、「あっ」と小さく慌てた素振りをみせると僕のほうを振り返る。
「私は亜悠。小柳亜悠三年三組。今度バスケの公式大会があるの。このところ毎日練習だから明日でもお昼頃体育館に来てよ! 私、そこにいるから」
そういって彼女は敬礼の軽い腕のしぐさをしてみせた。
「僕は新井創太。三年一組! おっけ。了解!」
彼女のお茶目な慌てぶりにクスリと笑うと挨拶を返す。
明日、お昼に体育館か。彼女の名前もクラスもわかったしこれで確実に渡せそうだ。あれ、でも三年生はもう部活引退しているはずなんだけれど、大会?
「え、ちょっと待って……」
彼女は今度は僕の声が聞こえなかったのか二人の場所まで一直線で駆け出していた。その後ろ姿はまるで夕立がふりかかるあの後ろ姿の彼女と変わらない。まさに風のようなその姿。
亜悠さんは僕の絵にも僕の印象についてもしっかり答えてくれた。それなのに僕はといえば、「ここの空はどんな空?」と訊かれたあの時、ろくに考えもせず上辺のセリフでごまかした。みっともない。
今日は彼女と打ち解けた。彼女の考えていることが気になって気になってしようがなくなっている自分がいる。もっと彼女の素顔を知りたい。そしていっそう絵が描きたくなった自分がいる。明日、絶対傘を返しに行こう。
ここまで読んでくれた方に感謝します。がんばって完結まで書ききろうとおもいます。




