第一話
わたしがぐっすり眠るあいだに、誰かが死なせてくれたらいいのに。首をすっぱり切り取って、わたしは痛みなく息を引き取る。それって素敵だなあ、なんて、わたしは妄想した。
高校二年生、一月二十日、神戸市にある高校の数学の授業中。気が付くとわたしは死ぬことばかり、考えている。いつからだろう、死にたい、と思うようになったのは。
「おい、橋本、聞いてるのか」
意識が現実に引き返す。数学教師の山田がわたしのほうを見ている。
「わかりません」
わたしは問われた題を答える。ワカリマセン、ワカリマセン。ずっとそんな風にして、答えてきた。死んだ後にも世界はあるかな? ワカリマセン。
わたしはそこまで頭がよくない。でも頭がよくなくたって、ここでじっと先生の授業を聞いてる生徒も先生も、百年後にはみんな死んじゃうことくらいなら、わたしにだってわかる。じゃあ、なんで生きてるんだろ? わたしはそこで、立ち止まってしまう。今死ぬのも百年後に死ぬのも、たいして変わらない。
『人間は死すべき存在である』
ちょうどこのあいだ、倫理で習った。たしか、ハイデガーって人の言葉。人間は最後には死んでしまう。その時になるときっと、わたしの魂みたいなものは消えて、わたしは何かを感じることも、悩むことも、何かを思うこともできなくなってしまう。真っ黒の世界がそこから無限に続いていくのだ。それってとても、怖いや。
生きているのが嫌なのに、死ぬのが怖いって、矛盾してる。わたしはくすりと頬を緩める。でも、しょうがない。きっと生きる意味なんてない。みんなうすうすそのことに気が付いてるんだ。でも、その事実と向き合うのが怖くて、目をそらし続ける。どれだけ頑張ったって、成功したって最後には死んじゃうのに、まるでそんなことがわからないみたいに努力して、楽しげに笑いあって肩を叩きあう。わたしはそういうのにちょっとだけ辟易していて、それがわたしの死にたい願望をより一層強めていたりもする。それでも死ぬのは、怖いんだけど。
わたしはそのまま眠りに落ちる。数学なんて学んだって、死ななくなるわけではないし。
友達と分かれて、自宅への道を進む。身体を抱きしめるみたいにして、すきまから入り込もうとする冷気に対処する。冬は寒いから、嫌いだ。空気と孤独がわたしを冷たく縛っていて、死が、隣を歩いているみたい。
「……はぁ」
いろんなことに、疲れてしまった。受験も家族も友達も、ひいてはそれらの関係も。
「恋人でもできたら、少しは楽しいのかなぁ」
白い息を吐き出すみたいにして、つぶやいた。恋人なんて、いたことないけど。別にそういう相手が欲しくないとか、そういうわけじゃない。わたしだって女の子だ。誰かから愛されたくて、愛し合いたいっていう願望は少しくらい、ある。ただ、それに見合う相手がいないだけ。
「よう、橋本。どうしたんだそんな暗い顔して」
ふと後ろから声をかけられてぎょっとする。振り返らなくたってわかる。わたしの幼馴染の、詩生 章だ。変わった苗字の持ち主で、そのそこそこ良いルックスと快活な性格のおかげで、けっこう女子から人気があったりする。わたしはそんなに得意じゃないんだけど。ついでに、わたしの幼なじみでもある。
「そんなに暗い顔、してたかな」
「おう。明日死ぬんじゃねえかってくらい暗い顔、してたぜ」
「ちょうどそんなこと、考えてた」
わたしが言うと、詩生は声をあげて笑う。
「冗談よせよ。橋本がそんなこと、考えるわけないだろ」
「いやいや、案外考えるって。詩生はそんなこと、全然考えないだろうけど」
わたしがそう言うと、詩生は一瞬遠い目をする。
「まあ、俺は、そういうことあんま考えねぇかな」
その言い方が、どこか引っかかった。
「俺は?」
「なんでもいいだろ、そんなこと。俺たちは高校生なんだから、そんなこと考えなくたって生きていける。死とか人生とか考えだすのは老人と、あと満員電車のサラリーマンだけだ」
「……そう、かもね」
私は呟いた。それと同時に、詩生はくだらない雑談をわたしにし始める。やれ隣の女の子がかわいいだの、やれあのカップルが別れただの。わたしがこいつを苦手としているのは、こいつのこういうところ。端的にいうと、馬鹿なところ。何も考えてない、薄っぺらな人格。そんな風に詩生をつぶさに観察していたからだろうか、詩生はわたしのことをじっと見る。
「なに俺のこと見てんだよ」
「別に。相変わらず馬鹿だなぁって」
「うるせえ、馬鹿で悪いかよ。馬鹿は世界を救うんだよ」
詩生は授業中常に爆睡している。だからテストの点もすこぶる悪くて、いっつも教師に怒られている。
「なにそれ、変な言葉」
「ほら昔の人も言うだろ、知恵をつけすぎることも考えものだ、って」
「はいはい。馬鹿でようござんしたね」
わたしは適当にあしらう。ちょうどそこらへんで、わたしたちが分かれなきゃいけない曲がり角に差し掛かって、わたしたちはそこで別れた。
「じゃあな! 橋本!」
そう言って詩生は手を振った。相変わらず、テンションの高いやつだと思った。
一人で歩く道の途中で、さっきの詩生のことをふと振り返った。いつからだろう、彼があんなに明るくなったのは。そうだ、ちょうど高校に入った時からだ。彼は中学までは、とても暗い男だった。そうだった時の彼のほうが、わたしは好きだったんだけど。
詩生は一人暮らしをしている。他の家族は、みんな死んでいるからだ。中学二年の時、彼の家族は皆死んだ。他殺だったのかも、わからない。事情は一切公開されなかった。ニュースにもならなかった。わたしが偶然詩生と親しかったから、その話を知ることができただけ。学校にいるほとんどの人は、詩生の家族が死んだことすら、知らない。ずいぶんおかしなことだと思う。でも、当時の中学二年生のわたしは、それを変だと思わずに、ただ家族がみんな死んで悲しんでいる詩生を、慰めた。
中学の二年間は、ショックに立ち直れずに、詩生は学校休みがちになった。そもそも、その時から家族がいないのに生活費をどうしていたとかは、わたしは知らない。でも、異常と言ってもいいくらいに、誰も詩生に関心を持たなかった。今思うと、ほんとうに異常といってもいいくらいに。詩生は暗くて、ずっと、人生に絶望していた。わたしはそんな彼が、好きだった。でも今の詩生は、違う。快活で明るくて、つまらない。
今わたしが詩生のことをよく思っていないのは、彼が明るさを繕っているように、見えてしまうからだ。それがなんだか痛々しくって、わたしは目を逸らしてしまう。彼だってきっと、わたしと同じように死に悩む人だったはずなのに、そうじゃなくなって、悔しいのかもしれない。そんなことは、わからないや。詩生が友達と楽しそうに笑っているのを見るたびに、わたしは彼が死んだような目をして、絶望ばかり口にしていたころを、思い出す。そしてその天と地ほどのギャップに、混乱してしまう。自分でもよくわからない、もやもや。わたしは首を振った。本でも読んで、眠ろうと思った。