(1)
アスランは、できるだけ都に近づこうと思っていた。人が多ければ多いほど、この肖像画の人を見知っているものがいると考えたからだ。
アスランが育った国の名は、ホスマーク。統治している国王は、ロレンス4世。といっても、真の支配者ではなかった。四国は皆、ラスグーの黒の王に同盟を誓い、黒の王によって支配されていた。いわゆる、ラスグーと同盟を結んでいる四国は、名ばかりの独立国なのだった。しかし、なぜ黒の王にそれだけの力があるのか――それは、黒の王が悪魔の魂を売ったという噂があったからだ。
だれも彼の姿を見たことがない。ただ一人側近の魔道師がいるが、黒の王はビロードのカーテンの後ろからしか声をかけたことがなかった。彼が決定を下す政は、すべてカーテンの後ろで行われた。それをすべて知っているのはもう一人、彼の娘だった。
黒の王がおかしくなってしまったのは、16年前。
すべてが狂いだしたのも、彼が黒の王と呼ばれるようになったのも、そのころからだ。
アスランが寺院を家出してきたのは、昼に近かった。いくら足腰の強いアスランでも、山谷を三つ越え、日が暮れるまでに町に着くことは無理だった。日がとっぷりとくれてからやっと一番近い町にたどり着いた。
その町の名はルトラン。ライマ河沿いの、ルー中野の西にある。
町に入ると、街路には多くの人びとが行き来し、がやがやとごった返していた。河のおかげで貿易が盛んなのと、周りに村が密集していることから、ルトランは人口の多い町なのだ。
通りの左右には夜なのに露店が開き、いろいろなものを売っていた。特に多くの人が群がっていたのは博打だった。
「ルデュバイン白の手の5! 5だ!」
とか、
「さぁ、どっちの椀に賽が入っているか、当ててみな!」
といういんちき臭いものもある。
アスランもちらりと覗いたが、損するだろうということがあまりにもわかりやすく、無視した。
ルトランは、日が暮れても賑やかだった。
彼が寺院にいた頃、山の上からでもルトランの灯がチラチラと見えるほどだった。
町は、だいたい北東に向かって家々が立ち並んでいる。道は北東から南西に無かって出来ていた。その北東の方角から、何頭もの馬に乗った男たちが、何やら騒がしくやってきた。なにか叫んでいるが、アスランには聞き取れなかった。
アスランは鞄の中にある、金貨の袋を何度も掴みながら、キョロキョロしながら道を歩きまわった。なるだけ危なくない宿屋を見つけようと思ったのだ。そのうちに新しく出来たばかりの宿を見つけた。
扉にはベルが取り付けてあった。彼はドアを恐る恐る押して覗いてみた。カランと澄んだ音が宿のなかに響いた。
小綺麗な宿屋で、宿の主人と女将さんと三人の娘が、それぞれ食べ物や飲み物を運んだり、そして二十代後半らしき男の客などが酒を飲んだりしていた。
宿屋は2階建てで、1階が食堂になっているようだ。宿の名前は「スレンの女」といった。スレンとは伝説の美少女のことだ。
アスランが宿にはいってカウンターにつくと、主人がチラリと彼を見、言った。
「一人旅かい? みたとこ、スレンダの人かね。それともどこの方かね? どこに行くのかね?
腹が減ってここに寄ったんだろう? なににするね」
「オレはトグノ山のアスラン。あのシュバツァの寺院だよ。
ミトゥーに行って人探しをするんだが、この女の人を知らないか?」
アスランは肖像画を鞄から取り出し、主人に見せた。
「うーむ……見たことないねぇ……何かい? あんたの母親なのかい? こんだけ綺麗なら国中の噂になるだろうね」
「ふーん……。そう、がっかりだ。知っていると思ってた」
「ところで泊まるのかい? 泊まらないのかい?」
「泊まるよ。ああ、おやじ、個々の料理で何が一番美味しい?」
宿の主人はそれを聞いてニヤリと笑った。
「そりゃ、あんた、ニンクに決まってとるじゃないかね。それじゃ、それを頼むんだね」
「ああ」
主人はアスランの返事を聞くまでもなく、三人の娘に大声で命令した。娘たちが奥に引っ込むと、しばらくしていい匂いが漂い始めた。娘が一人、ひょいと厨房の戸口から顔を出すと、叫んだ。
「父さん! お客さん、何を飲むって?」
アスランは興味なさげにちらりと娘のほうを見た。娘は田舎特有の真っ赤な頬を更に赤くさせ、直ぐに頭を引っ込めた。アスランはそれを不思議そうに見ていた。
「何を飲むかね」
と、主人に言われ、アスランは困ったように辺りを見回した。部屋の隅で飲んでいる青年に目をつけた。ちょっとためらいつつ、
「あの男と同じものを」
宿の主人はそれを聞いて目を天にしたが、気を取り直して、
「いいのかね?」
「それでいい」
アスランはぶっきらぼうに答えた。主人は肩をすくめて大声で怒鳴った。
「お若いのに、カムル酒を!」
アスランは部屋の隅の男に目をやった。少し男の頭が動いて、顔を上げた。目があったように思えたが、その男の前髪は男の目を完全に隠していた。男がじーっとアスランを見つめていると思ったら、突然ニヤリと笑って、手元の酒とコップを持ってアスランの方へやって来た。