旅
「こんなことやってられるかよ! くそじじいっ、オレぁもうこんなこたぁ、やらねーからな!」
アスランは癇癪を起こし、手に持っていた木刀を投げ出した。石畳に虚しくカラカラと乾いた音が立つ。アスランのいる居間は冷たい石造りで、円状になっている。テラスの向かいの壁には三つの穴が開いていて、太い柱によって区切られている。その三つの穴のなかに、背の曲がった小さなハゲたじいさんがひとりずつちょこんと座っていた。左から順にラスクル、ナスクル、マスクル。
この三人の老人は、トグノ山の賢人なのだ。そして、アスランはこの三人に約十六年育てられてきたのだ。
今日も彼は剣術の稽古をするはずだった。が、彼は三老人の力で投げ出された木刀をいっときは受け止めたが、何を思ったか力いっぱい床に放り投げたのだ。
ラスクルがカサカサに乾いた声で言った。
「どうしたのじゃ? 昨日は負けじと魔法の剣とやりあっていたではないか?」
アスランは頬をふくらませ、ぎろりとラスクルを睨み。下唇をつきだして、思い切り眉をしかめた。
「くそじじい! おまえら、オレがガキの頃にオレの親は死んじまって肉親さえいねぇって言ってたよな? こんのぼけじじいっ! なぁにが孤児だよ! あの肖像画の女の子、オレにそっくりじゃねぇか!
出て行く! 今日限り、ここを出て行ってやる。――そりゃぁ、魔法とかよ、あと字とか算術とか色々難しい勉強を教えてくれて、オレぁ、感謝してるよ。これだけは礼を言うよ。でも、もーういやだっ! 毎日こんなことをしてて何になるってんだ? おれはおまえらにこき使われて一生を終えるつもりはねぇんだ。どっちにしろ、もう飽きた! もう、このカビくせぇ寺なんかにゃ帰ってこねぇからなっ!」
アスランはくるりと三人に背を向け、広間の扉に向かって駆け出そうとした。すると三人がかすれた声で呼び止めた。
「これ、慌てるでないぞ、アスラン。たびに出るなら、ほれ、個々にあるこうりの中身を持っていけ。役立つぞ。まぁ、その娘御がお前の肉親とは言いがたいが、似てるからそうなんじゃろうなぁ。ま、達者でいけ!」
三老人は勝ち気な少年にそっけなく別れを告げ、さほど大きくないこうりを魔法で出した。
アスランは目を輝かせ、こうりを開いた。そのなかには新しい服とベスト、革靴、古ぼけた本、肩から下げることのできる革の鞄、とてもそこらの農民が持つことのできないほど、装飾の素晴らしい細い剣があった。
その剣は大変美しく、ひと目で彼を夢中にさせた。しかし、その剣は錆びているのか、全く鞘から出せなかった。
「アスラン! その剣は人を殺すためのものではない。無闇に自慢し、見せびらかしたりしていると、決してろくなことが起こらぬぞ!」
心配症のナスクルがか細い声を出した。
アスランはそれを聞くと深く頷いた。
新しい服はちょうどよく、ダブダブでも窮屈でもなかった。革靴はブーツになっており、地味で、足に馴染んだ。
本には、今まで習った魔法が全部書いてあった。ただし、新しい魔法については一切書かれておらず、彼の習ったものは下級の魔法使いや魔道師でも習う、足を使わずとも移動できるという便利な魔法などは問題外であった。
「金がなくなったらどうすんだよ」
「働けばいい。おまえのように元気な若者は、どこにいっても喜ばれるからの」
口の悪いマスクルは、鼻で笑った。
「キタラを持って行ってはどうじゃな? アスラン、おまえは声がいいから役立つじゃろ」
と、ラスクル。
「駄目じゃ、駄目じゃ。こんな可愛い小僧が歌っとると、良からぬ輩にちょっかい出されるに決まっとる。そうなってしもうたら、わしの可愛いアスランがかわいそうじゃ」
ナスクルがけしからぬ考えに泣き出した。
「吟遊詩人か――。いいな、オレ、やってみようかな」
彼の忘れにし名を
覚えしか君
閉ざされし時を
戻したければ
唱え 歌え 我が名を
闇を打ち砕き
光 取り戻せし
永久なる眠り 覚めし
「なんじゃ、その詩は」
と、ラスクル。
「この歌? オレがガキの頃に聞いた歌だよ。……でもどこで聞いたんだろ?」
アスランは一言つぶやくと、すっくと立ち上がり、膝をはたいた。
「さぁね、どうでもいいさ――おい、くそじじい。あんた達ともお別れだ。じゃあな!」
扉もなく、アーチ状になっているただひとつの出入口へと彼は走っていった。
アスランが十六の年まで暮らしてきた家は、とても家とは言いにくい古びた寺院だった。
寺院は、トラス峡谷を造る山のひとつである、トグノ山の山麓に建っている。山麓といっても、ほとんど道もできていない山奥にあるので、ここに寺院があることすら知らないものが多かった。それゆえ、訪問者や参拝者などくるはずもなく、そこは一種の秘境のようなものだった。
フツ川が近くを流れているのだが、水脈がこちらまで通っていないのか、岩盤が邪魔しているのか。しかも、山中なので水路も引けず、井戸さえも作れないので、彼は一番近いところで約20ヨルン(大体20分)もかかる場所まで水を汲みに行かなくてはならなかった。
三老師は彼に魔法を教える割には、それを自己のためには絶対に使わせてくれなかった。
そして、彼に修行僧、いやいかなる貴族でさえ修得することのない帝王学も教えていた。
アスランが何のために存在しているのか、誰一人知る由もなかった。彼は三老師の息子ですらない。孫でもない。
アスランが聞いたところでは、三老師は16年前まで、とある国の学問所で魔術を教えていた。しかも、国王の意図から宦官として仕えていた。彼らはそれでも国王に忠誠を誓っていたが、国王の怒りを買い、国を追われることになった。そして、ここ、ホスマークのトグノ山まで逃げてきたのだった。その時に連れていた赤ん坊が、アスランだったのだ。
三老師は、アスランにははっきりとした出生を話したことがなかった。親なし兄弟なし、とそれだけしか聞かせていなかった。
しかし、アスランは掃除をしていて、今まで扱ったことのない場所から、自分に瓜二つの少女の肖像画を見つけ出した。絵の裏には『ラグナロク』と記されていた。
『ラグナロク』……神々の黄昏。謎めいた言葉。銀色のインクで書かれたあった。それはまるで肖像画の少女の名のようだった。絵のなかの少女は、真っ直ぐな金髪で、それを髪飾りで結わえてあった。少しふせられた瞼は、どことなく寂しげだった。瞳はすみれ色で、いつのものかホコリが溜まり、色あせていた。
アスランは、ナイフや金貨、火打ち石、魔法書などのはいったかばんといっしょに、その手のひらほどの肖像画を押し込んだ。
彼は、二階の階段を下りながら思った。
「これが見納め。今までは爺さんたちが俺の肉親だったけど、これからはこの肖像画の人がそうなんだ。こんだけ綺麗なんだ。名前だってちっとは知られてるかも知れねぇ。……もしかすると、この人はオレの母さんかも知れねぇな……。
オレ、爺さんたちがオレを育ててくれた恩は忘れねぇよ。色々と酷使してくれたことも。もし、オレが肉親を一人でも見つけることができたら、オレはまっさきに爺さんたちに知らせるよ」
アスランはかばんを軽く叩くと、外に出た。
まっすぐに寺院を見上げたあと、急いでそこを立ち去った。