『第七章:掌の舞台』
*
木目の多い調度品が置かれるのは、白く明るい壁に覆われた病室。
窓からは温かな朝日が舞い込んでいた。
病室のベッドに横たわるのは、水色の髪を持った少女だ。
そして、その白いベッドの傍。丸椅子に腰掛けている少年は、水色の少女の頬をそっと撫でた。怪我もやつれもない、綺麗な肌だった。彼は微笑して、
「……こうやって眠ってさえいれば、お前もいっちょ前の美人なんだろうがな。ああも金に五月蠅くて高飛車じゃ、寄ってくる男なんて一人もいない」
いつものように軽口を叩いてみた。しかし、それに応える声は無い。
彼は、短く吐息した。が、ややあってから、
「――、っと、治療符入れ替えねえとな」
医療術式の符が交換時期になっている事に気付き、手早く彼は符を取り換える。ベッドの支柱に据えられた棒状の術式柱及び符。白が黒に変わったら替え時で、空間浄化のために定期的に交換する必要がある。絆創膏ならぬ絆創符だ。
学園襲撃から五日が経過した。――遠野率いる襲撃対策部は、本日より活動を開始する予定だった。
故に神州を発つ前にと、彼は波坂の見舞いに来ていたのだ。今は休憩して波坂の顔を見ているが、遠野は時間の許す限り病室の手入れをしている。
特に意味がある訳ではない。ただ何となくここに来なければならない気がして、やる事もないので手持無沙汰にしていただけだった。
「ふぅ……」
ここ最近、溜め息ばかり着いているような気がする。やはり、今自分がおかれている状況に、彼は納得ができていなかった。
復讐するのは構わない。敵を倒すのもいいだろう。だが、しかし、彼女を守れなかった自分が何故適任者とされたのか、それが未だに理解できなかった。
自分にならできるかも知れない。だが、それを行うだけの資格がない。
彼はずっとそれを思って、心の中に溜め込んで、吐息として出していた。
――そうして、幾ばくの時が経ち、彼もそろそろ病院を発たねばならなかった。
ベッドの傍、遠野はボストンバックを手に提げて、眼下で安らかに眠る少女を見下ろした。彼は自嘲するような口調で、
「全く。不甲斐無いもんだな。あれだけ好き勝手言っておきながら、俺は今もこの有様だ。アイツ同様、馬鹿なのは俺もだったよ。波坂。意外と世話焼きなお前はどう思う? 自分が傷つけられてそれを仲間は報復に行こうとする。――望みやしない、よな……」
言って、遠野は目を閉じて苦笑した。続けて彼はこう言った。
「お前、どうして俺を補佐なんかにしたんだ? 伍長だった俺に合わせるためにわざわざ大佐止まりになってまで。――無能者で馬鹿な俺を、見ていてくれたのか?」
彼は思い出す。一年前、急に自分の前に現れて人事異動の通知書を見せ付けた時の、彼女の顔を。
高圧的でこちらを嘲笑うような言動と立ち振る舞いばかりだったが、彼女の顔はどこか嬉しそうに笑んでいた。
……ああ。
その時、初めて自分は、認められた気がした。この十年間で初めて、無能者の自分を必要としてくれた気がしたのだ。何故なら、たとえどんなに笑われようとも、あの時の彼女は真摯に、
……俺の目を見て、俺に何かを語りかけようとしてくれていた。
あの時ほど、必死に自分と真正面から向き合ってきたヒトはいなかった。だから、自分は彼女を信じ、彼女ならば信じていけると確信したのだ。
「…………」
視線を右にずらした。ベッドの右上にある棚を見て、彼は苦笑する。棚には受け皿と一緒に小鉢に植えられた掌に載るくらいのサボテンが活けてあった。遠野の見舞品だが、
「手入れの手間少ないって聞いたが、やっぱ駄目だな。看護婦に睨まれるのはこれきりにしたい。――じゃあな波坂。俺は行ってくる、復讐しに、な。俺が帰ってきて、もしお前が起きてたら、いつかの酒の礼でもしてやるよ。愚痴にでも何にでも付き合ってやる……」
そう言い残して、彼は部屋を後にする。が、彼は、戸に手を掛けた時ふと小声で呟いた。
「……起きてくれよ波坂? 心配は要らない。全身不随だろうが、失語症だろうが、面倒は俺がずっと見てやる。それが、俺に出来る最大の償いだ……!」
白亜の建物を立ち去る彼は、不意に天を見上げる。そこには彼女の髪の色のように、淡く澄んだ空が広がっていた。
*
*
和泉にある関西国際空港。和食店で軽く昼食を済ませた遠野と、他四名の対策部部員。それに加えて副会長の櫛真。食後の茶をすすってはいるが、和気藹々の会話は一切無い。
静寂。自分たちに怯えて他の客は皆出ていき、今や貸し切り。彼は視線を左右に振った。
異彩を放つ存在が二つあった。
まず右に座るのは長身痩躯、細目に眼鏡という風貌の少年だ。生徒会書記を務める菅原・道正だ。八雷神を襲名したヒト種の魔術師で、どこか飄々とした雰囲気を放っている。
そして左。頑丈な椅子に腰を据えるのは、体長二メートルを超す赤肌の巨漢。毛の無い頭部からは水牛の如き角が二本。腹には晒、肩からは拳大の数珠を掛けて、その上に制服の上着を羽織っていた。――三年の、草薙・剣三郎だ。役職付きではないものの、神州武力の象徴的存在として認知される、オニ属きっての継承襲名者だ。襲名神は剣霊アツタ、だ。
……よりにもってこの二人が俺の下につくとはな。学園の幹部と実働部最強の鬼神。他が空と岩戸なだけでも幸いと思うべきか。いや、勝手は悪いが最高の面子だな、これは。
遠野は前を見た。侍女服姿の櫛真がいた。彼女は居住まいを正して、口を開いた。
「――そろそろ本題と参らせて頂きます。説明を始めます。――現在の時刻は十三時。チャーター便の出発は十五時。目的地は聖書共同体本部が羅馬。ピエトロ・サン大学院です。現地ではできる限り侵士の情報を得、可能であれば下手人の追跡を開始していただきます」
そして、
「追跡に関してはある程度の強行も認めます。が、特一級の異業や能力の使用は厳禁です。それ以外でならば多少の無理は構いません。遠野部長の異能も許可します。確実に下手人を捕らえるか、やむ負えず命を奪う事になってもさして問題はありません。第一優先は下手人の特定と報復だけです。背後に何かあるならば話は別ですが。――何か、質問などはありますか?」
鉄仮面の冷ややかな眼差しに、右の菅原が応じた。彼はオーバーリアクションに、
「成程成程要点は分かったわ。そやけど櫛真ちゃん? 何でこの人選なんや? 調査や追跡ならもっと上手いヤツ、ぎょーさん知っとるでぇワイは」
「外交というものがあります。たかが一騎に神州の本丸を撃たれた、そのような不名誉甚だしい話を捨ておく訳にはいきません。よって大々的に対抗策を打ち出し、周りに牽制を図っているのです。貴方たちは言わば精鋭部隊ですので。よろしいですか?」
櫛真の答えに菅原は納得したふうに頷いた。しかし、赤鬼の草薙に対して、
「やってよ剣ちゃん。理由はどうあれ良かったなあ。久しぶりに暴れられるでえ?」
「ッか、知るか。俺様が一番強いんだ。誰の指図も受けん。叩き潰すだけだ!」
「そないな事言うても剣ちゃん? 会長に熱田で置いてけぼりくろうと時〝のしたるゥ!〟ってわめいとったわりにはまだのしとらんやん。――ワイは知っとるでえ? ほんまは会長が怖いんやろ?」
菅原の言葉で場が一瞬凍り付いた。しかしすぐに溶けて、代わりに赤鬼は、
「っハ、ぬかせ。俺様は自由だ。――初めから最後まで。そしてこれからもだ」
「……そーかいそーかい。ならもうええわ。――んで櫛真ちゃん? 何でもありは分かってけど、なんか他に言う事あるか? あるんなら今うちに聞いときたいさかいに」
「はい。可能な範囲で外交を踏んでおく事。侵士との再戦もあり得るゆえ、情報には多角さを考慮するよう。また、飛行機は中華道州とスラブ機構の上空を跨ぐ事になりますが、テロの危険もありますから注意を。――話を聞かぬ菅原書記とは思えぬ発言でしたが、言っておくべき点は以上です」
あはは、と菅原は笑い出す。ちゃうちゃうと右手を振った彼は、向かいの空を見つつ、
「そこのお嬢ちゃん、さっきからお昼寝しとるしなぁ。剣ちゃんはハナから闘う事しか考えとらん。部長は初対面やし、面識あんのが少佐の岩戸ちゃんだけやからなあ。ワイは他が聞いとりそうやったら流すさかい。逆の時はちゃんと聞くお利口さんなんよ」
「成程そうですか。では次の会議からは龍也様にも告げ口しておきましょう。波坂……、波坂会計が復帰された場合にも同様の対処させていただきます」
「あ、そら困る! つーか今生徒会開いても三人しかおらへんで、もろワイ空気!!」
「――副会長。それと書記。同学年で弾むな。こっちと岩戸の身になってみろ。――で、書記はもう聞く事は無いのか?」
そやな、と返事を受け取った遠野は、視線を左に移した。櫛真の左、ずっと黙って肩身を狭くしていた岩戸に向ける。眼差しで、どうだと問うた。すると首を横振りされた。
……ま、行ってみなけりゃ分からないからな。手練れも多い。心配は要らないか。
彼は吐息一つ。再び顔を正面に向け直した。櫛真を見て、問いかけた。
「俺も一つ聞きたい事がある。会長は、アンタに何か言ってなかったか? 何でもいい。できれば俺に関する事で、だ」
「特には。ただ万事滞りなく作戦が進むよう、ヤツらを送れ、と」
「そうか。ならいい。好きにしてくれ」
「会長が自分を選んだ事が、まだ不服なのですか? それともこちらに隠し事があるとでも? もしそうなのでしたら甚だ遺憾ですが?」
冷たく問い詰める銀眼。濡れたように輝く銀彩を直視して、しかし彼は目を伏せた。
「いや、違う。前者は少し近いが、やはり違う。――最近芯がぶれているような気がしてな。何か整理に使えそうなものでもあればと、ただそう思って聞いただけだ。詫びる」
ならば結構、と櫛真は言って、おもむろに席を立った。少し距離をとって姿勢を正す。尻目でうたた寝をする空を一度見たが、彼女はいつもの落ち着き払った声でこう告げた。
「私めはこれにて失礼します。搭乗までは係りの者でも呼んで案内させて下さい。
では、再度ここで件の命令を言い渡します。――遠野部長、以下四名は、対策部として先日の学園襲撃事件の首謀者を捕縛を命じます。貴殿らの権限は、件に関する行動に限り全部長と同等であり、今後の神州を大きく左右するものである事を肝に銘じるよう」
櫛真は空に視線を送った。連日の介護に疲れ、睡魔に敗ける少女を見詰めて、しかし、
「――侍女として、ですが、空お嬢様をどうぞよろしくお願い致します。神州はともかく、海外に伝わる火とは神聖な存在。苦痛を感じる事は無いでしょうが、――お願致します」
侍女として、櫛真は腰を折った。学園の彼女しか知らぬ岩戸や菅原は面喰っていたが、少しすると真剣な眼差しで頷いた。――彼女は最後に、遠野に対して口を開いた。
「遠野部長。貴方の悩みは皆が、否、あの変革よりずっと考えてきた事です。恥じる事ではありません。何のために何をし、何をしたいかなど、明確に持つ者などは一握にも満たないでしょう。私めもあの方の受けより。大多数が模倣にしか過ぎません。しかし、」
しかし、
「――貴方は違います。貴方はスサノオを襲名した。継承なき名ばかりの神。しかし龍也様と同等の位置につける神でもある。己を縛る必要などありません。純粋に、己が欲望に付き従えばいいでしょう。それが貴方のすべき事。狂乱者の、貴方にあたう行いです」
そう言い残すと櫛真は踵を返して、この場から立ち去った。歩調に合わせて揺れて微風になびく彼女の闇色の髪は、狼の体毛のように滑らかで、そしてどこか、孤高の輝きを感じさせた。
「……狂乱者の欲望。ただ動き、問いもせず敵を討つ。それしか、出来ないのか……?」
小声で呟き、しかし遠野は周囲を見回した。自分と共に、波坂に重傷を負わせた下手人を探すための部員たちがいる。岩戸。空。草薙。菅原。たった五人の部だが、問題は無い。
何故ならば、
「――やろうか。個々の主義思想、思惑や考え方は当然違うだろうが、目指す結果は同じだ。誰が下手人だろうと俺たちは捕らえるだけ。一騎当千を越える俺たちなら容易い事だ。
――では飛行機まであと一時間。交友のために和気藹々と話でもするか? どうだ?」
*
*
「――行った、か」
吐き捨てるような呟きが、地下深くの生徒会室に静かに溶けた。
新東合の学生服に身を包める蒼衣は、デスクを前に革椅子に腰掛けている。
「しかし外界も手緩い。神州で何か起こった事は先刻承知だろうに、干渉する者がいないとは。こちらを恐れたかあるいはハナから興味が無いのか。まァ、どちらでも構わぬがな」
くつくつという失笑が漏れる。蒼衣はタッチ式のデスク画面を数度弄った。
すると、真向いの壁際にスクリーンが降下してきて、プロジェクタが作動した。
更に手を動かす。スクリーンには一枚の写真。風景写真が映し出された。
それは、頂付近に白化粧を残す連峰。流れる大河は広く緩流で、森林は樹海のよう。そこは、遠い異国の地にある大自然の風景だった。
彼は、眉尻の下がった微笑を浮かべた。
……長かったな。だがようやっとだ。この事変の結果はどうあれ、アヤツが目覚めたのだ。もはやオレの悲願が一歩を踏み出すのは時間の問題と言えよう。
視線を右の壁にずらした。領有地を示す世界地図がある。彩色なのは十八の地域だけだ。
東から、千島と樺太を吸収した神州。
朝鮮半島。
モンゴルと合併した中華。
殆どの諸島が沈み、しかし数島生き残ったオセアニア。
東南アジアと経協圏を形成する印度。
中東を縦断するゾロアスター。
強者に挟まれる弱小バビロニア。それとウガリット。
アフリカ北東部を治めるエジプト。
マケドニア中心のギリシア。
東半分を捨ててカザフ、旧ソ連諸国と再締結したスラブ。
アフリカ北部と欧州列強を呑み込んだ聖書。
北欧諸国。
イギリスのケルト。
ガーナを中心に細々と過ごす最弱のヴードゥ。
メキシコから諸島を挟んだブラジルまでのマヤ、インカ、アステカの三神話同盟。
それ以外の、世界全土の約四割はすでに無法地帯、未開と化している。唯一政府が生きているのは無所属の台湾とフィリピン、南アフリカだけ。消えた国の殆どは、民族間抗争、テロが激化し荒廃した。
誰が見ても、世界は崩壊へと進んでいる。肥沃だった土地も継承者が少なければ廃れて、砂の世界となる可能性もある。早々に打開策を見出さなければ、取り返しがつかなくなる。
「……あの日からもう九年になるのだな。早いものだ。時も、瓦解もだ」
スクリーンの風景に再度目をやる。懐かしい。幼い日はよくよく訪れたが、九年前を皮切りに赴けていない。襲名活動や研究に時間を注ぐあまり、行く事が叶わなかった。
できれば、もう一度だけでも行きたかった。そして、一人の女性を探したかった。幼い日に会った以来ゆえ、もうだいぶ歳を食っている筈だ。
会ってどうこうではない。だが、姿だけでも目に焼き付けておきたかった。少なくとも、今自分が神としてここにいる理由は、そこにあるのだから。
――九年前の話だ。神役を賜ってすぐ、幼い少年は避暑地として毎年赴いていた北欧の借り別荘にその年も行った。危ないといわれたが、恒例ゆえ無理に行ったのだ。
少年はそこが好きだった。祖国とは違う自然、ヒト、雰囲気、全てが楽園だった。
毎日のように村で遊び回ってはふざけ、楽しい日々を過ごしていた。だが、ある日、彼は近く森を探索するうちに帰り道が分からなくなってしまった。
土地勘のない場所、延々と続く深い森は、彼をどんどん奥へと誘っていった。
徐々に時間と体力は浪費され、とうとう夜となり、彼の身体も限界を迎えた。広葉樹林の腐葉土の上で少年は倒れ込んだ。
しかし、そこにふと救いの手が差し伸べられた。
一人の女性に、彼は助けられたのだ。黒闇で判然としなかったが、黒髪を流した長身の女性はとても美しく、彼には神々しく映った。まさに救いの女神だった。
彼女はこの森に住んでいるらしく、村までの道案内をしてくれた。長い道のりの中ではあったが、彼は疲れを忘れて、彼女との談笑を楽しんだ。そうして、あと山一つという所で、何故か彼女は、少年にこう言った。もうここからは独りで行けるね? と。
無論少年は頑なに拒んだ。彼女も粘ったが最後には折れ、何かお礼をしてもらう代わりに最後まで一緒に行く事を約束してくれた。――二人は森の出口に辿り着いた。
彼は彼女に、お礼は何をすればいいかと尋ねた。彼女は困ったような顔をした。嫌がっていた手前、何もなしに折れるのが気まずく嘘をついたのだろう。
だからか、彼女が告げた願いは途方もなくおかしなものだった。
――私の世界を広くして。
意味もない愚かな戯言。お礼に能う価値もない単なる誤魔化し。その筈だったのだろう。
しかし、本当に愚かだったのは少年の方だった。
彼は、本気でそれを叶えようとしたのだ。命の恩人の願いがどんなものだろうと、嘘でも叶えなければならないんだ。神となった己の責務だ、と。
故に、彼は、彼女に絶対その願いを叶えると約束して、力強く頷いて村へと駆け出した。
「――愚かだな。ただの道案内に、よもやここまで人生を左右されようとは。――九年。数えれば両の指で事足りる。だがその歳月で、神州の基盤は整った。侵略や内政崩壊さえ起きなければ神州の治世はしばらくは保つ。故に逆賊には、鉄槌を下さなければならぬのだ」
そして、
「その役目はヤツらに任せた。――ツクヨミは神話では食夜の王。月を読み日の昇らぬ夜を食いこれを制す。ハ、役不足も甚だしいものよの。だが、それで良い」
くつくつと彼は喉を鳴らした。
そしてしばらくして、彼は一息をつくと、笑声を静かな微笑に変えていた。
半円卓を持った広い生徒会室がひんやり静まり返る。哀愁味を帯びた微笑みと共に、彼は一つの歌をそこに漂わせた。
さねさし、相武の小野に燃ゆる火の
火中に立ちて、問ひし君はも
彼は内心で問いかけた。なあ恩人よ。貴様の願いは、これで合っていたのか、と。
「オレは出来うる限り世界の傾きを抑え、政を圧しながらも存続に繋げた。貴様のいる北欧は神話再現と謳って内情を取り纏めておるが、貴様はどうなのだ? やはり、駄目か」
彼が独りだけの時に発する、彼の本心。応じ答える言葉などある筈がない。
しかし、続くモノはあった。それはあの日の翌朝に偶然出会った、同じ年頃の少女。親がいなくなって独り身になった。雇ってくれないか、と尋ねてきた、黒髪銀眼の少女の声。
「(――龍也様。ご報告したい事がありますが、よろしいでしょうか?)」
「麻亜奈か。よい、話すがいい。ヤツらの事であろう?」
念話の声は頷いた。
「(はい。対策部一行は無事神州を発ちました。遠野部長にはまだ迷いが見られましたが、概ね龍也様のご想像通りで御座います。多くは告げずに、しかと送り出しました」
「そうか、分かった。そのまま帰路につくがよい。自国を堅牢にするために人員はあまり割けなんだが、ヤツらならば相手が侵士だとしても善戦しよう。期待して待つとする」
彼の返答から、口籠るような小さな間が空いた。蒼衣は気にも留めずに待った。すると、
「(……私めは、あまり良くは思えません。侍従の身分で勝手は過ぎますが、時期尚早だったのではないかと存じます。数少ない衛星でも北米の実情は依然掴めず、三神話同盟は分からないの一点張り。欧州とインドの交易路は荒れる一方と聞き及びます。龍也様……)」
「問題はない。いつ分かるかも知れぬ事に、一々気に病んではおれぬ。それは貴様が弁えておけば足りる事だ。それに、これ以上世界が荒廃するのを見ておれるか」
しかし、と櫛真はなおも食い下がる。いつになく諌めにこようとする彼女に、蒼衣は念話越しに魔力で威圧を加えた。返ってくる念には、息を詰めたような震えが感じ取れた。
「話がしたいと言うなら直接会って言え、麻亜奈。第一、侍女の分際で生意気な。嫌ならば職を降りれば十分であろう? 貴様の好きにすればよい。降りたければ降りろ」
蒼衣の言明に彼女は若干の迷いを残すものの、了承しました、と言葉を返してきた。
そこで念話は切れる。そして彼は息を吐いた。
気だるそうに背もたれに寄り掛かる。毛嫌いはしていないが、彼女との念話は好きではなかった。何故だか、櫛真と念を送り合っていると、彼女が悲しそうな顔をしている気がして集中できないのだ。否、本当にそうだとしたら自分は―――。
考えそうになって、彼は息を呑んで思考を止めた。それだけはいかぬ、と。
「世界は思い通りにはいかぬ。ならば、――無理にでも引っ張るしかあるまいて」
彼は薄笑いを浮かべた。愉しみだと言わんばかりの口調で、
「和時よ。貴様は、どれほどオレの期待に応える。貴様は、力を有する者なのだからな」
室内に、感傷めいた吐息が漏れた。
*
*
地中海に突き出す地形を持った半島。
煌びやかな海を近くに持つその街は、古代の趣を強く残した造りだった。
快晴の下、過去皇帝を擁した帝国の繁栄を裏付けるような遺跡や建物の中にそれは屹立していた。
周囲の趣を一層濃く持つ楕円形の大広場。中央には巨柱、外郭には無数の石像を有している。
遠野率いる対策部は、広場を越えてその神殿と呼ぶべき元教会に足を踏み入れた。
白亜の城。聖書共同体における襲名組織の本拠地、ピエトロ・サンセント大学院だった。
案内役に連れられて、遠野らは大学院の中を見学させらた。健壮な回廊や、簡素だが見上げれば天上絵画のある部屋。幾何学式の庭園。
神州機構の和装に似た正装を着ている彼らは、それらに素直に感嘆の声を挙げた。
最近、地下本部の整備が整ったと聞いてはいたが、地上部も大層なものだ。
元の建築物は昔のものだろうが、わずかながらもやっと魔力が認識できるようになった遠野にも分かる。ここは出雲に比類するほどの霊地だ。それも、この建物は霊脈を統御して周囲一帯に結界に似た護りを自然と起たせている。魔力抽出も容易いだろうから、技術研究にも向いているのだろう。
とある回廊。後ろを呑気に歩いていた菅原が、ふと憚りもなく口を開いた。
「欧州はぼらけて勢力落ちたあいうけど、どこがやねん。むしろ最盛期迎えとるやないか」
「いえ、そんな事は無いですよ菅原先輩。ここは旧伊太利亜すけど、元から南北格差が激しくてこの十年でまた開いたと聞きますから。おそらく権力集中の結果ですね、ここは」
「おお、そらぁ怖い怖い。そんで、そういう岩戸ちゃんはどうなんや? 欧州は今や地中海の実質統括が八割。インドとの貿易量は神州よりも上。土地ごとの差は開いても世界の列強である事に違いない。――一小隊長としてどう捉えるんや?」
神州神話機構の正装を気取りなく着る岩戸は、くすくすと笑って、
「分かりません。――だって、外を考える必要なんてありませんでしたから」
「そやな。――でも」
前を歩いていた遠野は、背後から視線を感じた。菅原のものだ。しかし、不意に、
「スズメちゃんスズメちゃん。わたし特務官で印度に言った事あるよ! 凄いでしょ?」
「ええ、知ってますよ。私も末端ですけど報告書もらいましたから。――あー、でもー」
空気を読まずに空が二人の会話に水を差した。だが少女の言葉に、岩戸は誤魔化すように目線を逸らした。空が小首を傾げる。と、重音響かせて歩む草薙が、鼻を鳴らして言った。
「っハ、あのふざけた報告書の事か。何だアレは。会議であんなもん聞いたのは初めてだ」
機構の主要幹部を集めた報告会や会議がある。草薙が言ったのはソレだろう。
「? そお?」
お間抜けな顔で不思議がる空。岩戸は苦笑。菅原は笑いを堪えるのに必死と見えた。
そこでやっと遠野は口を開いた。前を行く案内人を見失わないよう前を向いたまま、げんなりと、
「空。お前何やった? 印度視察は知ってるが、まさかお前……」
「ん、面白かったよ? ちゃーんと報告書に書いたもん。〝よく分からなかったけど楽しかったです、まる〟、って」
おい、と彼は口を挟んだ。が、少女は実に楽しそうに思い出を語った。
「あとねえ? 飛んで帰る時に人助けもしたんだよ? 危ない物がいっぱい埋まってるんだけどどうにかして、って何回も言われたから毎回上から吹き飛ばしてお掃除したんだから。みーんな泣いて喜んでくれたよ? 五体投地じゃないけど頭抱えて土下座みたいになって」
そこまで言って空は遠野に頭を叩かれた。彼は嘆息一つついてから空をなめつけた。
「お前の頭のネジはどこか飛んでるのか。視察の報告を小学生の感想文にしてどうする。畑に埋まった地雷を畑ごと吹き飛ばしてどうする。馬鹿かお前は? 否、馬鹿だったな」
「ええ!?」
空の驚愕に、菅原は堪え切れずに腹を抱えて大笑いし出した。草薙は興ざめしたように外を見やっている。岩戸ともなると、あはははと苦笑して、遠野は眉をしかめて肩を落とした。
「……お前はなぁ」
どうにかそれだけ口にして、彼は先を行った。案内人に連れられて地下へと降りていく。
古めかしい石造の螺旋階段。高低差が分からなくなるが、それなりに下がったところで再び開けた横長の廊下に出た。そこは、オフィスのような現代的な趣になっていた。
……最近整備されたのは本当か。ここは表層部だろうから、間者の意味は無いな。魔術的加工が多いようだが、聖帝が元魔術師じゃあこんなものか……。
聖書のトップは、尊称で〝聖帝〟と呼ばれている。神州の〝竜王〟のようなものだ。襲名組織の長に付けられる異名で、ギリシアの〝雷王〟。バビロニアの〝水君〟などがある。
案内人の女性に着いていきつつ、遠野は、時間潰しとして空に報告がいかに大切かを説いてやった。殆ど無駄とは理解できていたが、見捨てる訳にもいかなかった。
「――この部屋にて、少しお待ち頂けますでしょうか。只今担当者をお呼び致します」
少々手狭な会議室に勧められて、遠野たちが残された。案内人はそそくさと出ていった。
部屋にはスクリーンとプロジェクタ。椅子が五つ分、すでに用意されている。
「ッけ、ここのヤツらなめ腐ってやがる。俺様はオキモノじゃねえぞ」
独りごちて草薙が、入り口から一番遠い場所に用意された立方体の大理石――他の四名は革椅子――をつま先で蹴った。それだけで大理石は、五センチほど容易く動いた。
担当者が来るまでの間、遠野と草薙を省いた面子が和気藹々と歓談した。
が、ややあってから、会議室に一人の女性がやって来た。長い金髪に碧眼。歳は二十前後。主翼補助翼合わせて金翼四枚を背に持った女性だった。背中が大きく開いた、白黒入り混じった制服を着ている。
翼人、と皆はそれを見た途端に思った。神州では珍しい。天狗がせいぜいだからだ。
金髪はにこやかな笑みをもってこちらに歩み寄り、流麗な日本語で自己紹介をした。
「――お初にお目にかかります。私、聖書共同体所属、〝聖天使の御山〟の守護を務めるミカエリア・ハウと申します。神役継承者であり襲名を被っております。種族は六大亜人の一つである羽人。以後お見知りおき願いたく存じます」
互いに敬礼を交わすものの、草薙だけは何故か彼女を毛嫌いしたようで、頑なに礼をしようとはしなかった。やれやれと思いつつ、遠野は一歩前に出て、ミカエリアに日本語のまま、
「俺は遠野・和時だ。竜王が勅命で下四名と共に赴いた。すでに伝わっていると思うが、侵士の情報を細かに説明してほしい。よければこちらの要求にも色々と応えてくれ」
「はい。無論了解しております。――どうぞお掛けになって下さい。将来対立する間となるかも知れませんが、今は知を交し合った仲。最大限、力添えを確約致します」
ああ、頼む、と遠野も返して、尻目で部員らに座るよう促す。再度、前を見やった。
「もはや国家が世界単位ではなくなった世の中だ。数少ない寄り合いで、覇を競う事がなければいいと、そう思っている。俺個人で、だがな」
「ふふ、それはまた怖い表現の仕方ですね」
失笑に肩を震わす彼女。揺れに、肩にかかった柔らかい金糸が胸元に落ちた。
軽く笑みで応じた彼も、すでに席に着いた部員たちに続いた。入り口に近い方から、岩戸、遠野、菅原、空、草薙の順になった。――ミカエリアも、スクリーン横に移動をした。
「ではこれより、我が組織の技術の粋を集約して創った、機動兵士についてのご説明を始めたいと思います。スクリーンのスライドをご覧下さい。まず始めに規格ですが―――」
室内がうす暗くなった。天井のプロジェクタはスクリーンに光を照射。侵士の画像が出た。
丸暗記なのかミカエリアはカンペも見ずに、微笑みも絶やさず説明をしていった。開発動機やそのスペック。継承する神役による能力値の変化や、その均一化への理論構想など。多岐に渡る極秘情報の羅列が流れていった。仕舞いには姉妹機の研究開始まで付け加えられた。
「――つまり、この機動兵士の登場が、魔術と異業、神力を重視するようになった戦闘論に革新を呼び、これからの人類の技術の展望を大きく左右するものなのです。――簡略化したため説明は以上になりますが、皆様、何かご質問などは御座いますか?」
ミカエリアの柔らかい口調に、しかし皆は黙考するように押し黙った。少ししてから、
「一つ、いいか?」
遠野が片手を挙げた。はい、とミカエリアは笑顔で頷き、身体も一緒に向けてきた。
「――変革から十年で、これほどの物を完成にもっていけるとは到底思えない。そもそも第六世代の戦闘機ですら神州でも試作中だ。一から概念を創るとしても十年では短すぎる」
「……か、和時君、わたしには何が言いたいさっぱりなんだけけど。どういう意味?」
「要するに、いつからアレを造り出して、アレを造る下敷きになったモンはなんや? やろ?」
菅原の注釈に遠野は目配せで頷いた。空はまだ首を傾げていたので無視した。
こちらの会話を聞き、ミカエリアは笑顔だが逡巡するような無言を開けた。すると、
「成程。竜王も貴方様も聡いですね。初めは探りかとも思いましたが、愚直な問い。とても彼の王がさせるとは思えません。本当に侵士の事だけを教えてあげたかったのですか……」
小声で呟いて、しかしミカエリアは前に進んだ。静かに、遠野の前に歩み寄る。彼の眼前に行き着いた彼女は腰を折って、自分の顔を彼の首筋に持っていった。耳元で囁かれた。
「……この世界には面白いモノが埋まっています。オーパーツ。調べる価値は大きいですよ」
「オーパーツだと? どういう事だ?」
ふ、とミカエリアは微笑して身を剥がした。彼女は元いた場所にゆっくりと戻っていった。そして振り返って、彼女は視線で、質問はないかと再度問うた。反応があった。菅原だ。
「ま、元からそこ聞けるとは思うとらんかったからな。ほんなら、そろそろ本題に行っとこか」
彼は椅子から立ち上がると、左右に並ぶ部員らを細目で交互に見た。
「――今日ここにお邪魔させてもろーたのは二つ理由がある。侵士の情報が知りたかった。それと、――侵士のいまんとこの売却ルート、横流しの可能性についてや」
聞いた瞬間、ミカエリアの眉がピクリと反応した。その一方で草薙は、未だ興味無さげに腕組みしてそっぽを向いている。気にせず菅原は、言葉を作った。
「神州に侵士がおったんや。それも格闘用にチューニングされたもんがな。ワイらはその侵士の所有者、つまりは犯人を捜しとる。何でもええ、情報が欲しいんや」
「――――」
ミカエリアは困ったような苦笑を浮かべて、考え込み始めた。
聖書の襲名者は希少ゆえ権力はそれなりにあるのだろうが、権限にも限度がある。おそらく一個人では判断できかねる質問だったのだろう。
まあ当然か、と遠野が思った時だった。意外な言葉を耳にした。
「――どういう、事なのでしょうか?」
「? どーゆう、って、何がや?」
「私には、貴方がたが仰られた事の意味が解せません。侵士はまだ実戦配備前の極秘機体。故に私の知る限り、侵士が存在するのは共同体の領域内か、神州しかあり得ません」
「オイっ、どういう事だそらァ……っ!」
赤鬼が重低音ですごんだ。他の部員らも眉根を寄せていた。岩戸が、
「そうです。それに何故、神州に侵士があるんですか? 聖書の極秘なのですよね?」
「ええ、確かにそうです。しかし基盤となる神役継承の理論については、神州からの研究資料の供与が主でした。利権は全てをこちらに移譲して頂けましたが、その代わりとして実験機を数機要求されてこられました。この早期完成も神州のおかげ、その要求もお応えしました」
ミカエリアの思い起こすような物言いに、皆が愕然とする中で、空が小さな声を放った。
「ね、ねえ、ミカエリアさん。――神州にあげた侵士って、どのくらい、なの……?」
空の、眉尻を下げた不安顔での問い。答えはすぐさま返ってきた。
「はい。竜王こと蒼衣・龍也様の実名で、十五機ほどだったと思いますが?」
一番まともな神経をしている岩戸の顔が、その言葉で青ざめた。
ギリ、と彼は奥歯を強く噛み締める。一緒に、憤りで全身は小刻みに震えていた。
……アンタは一体何をする気なんだ? 自分の国に反逆だと? 何が目的なんだ!?
*
*
夜の静まりに沈む、洋風の暗い室内。
大窓が開け放たれて、赤い厚手のカーテンが揺らめいていた。
五月の夜の少しひんやりとした外気が吹き込んで、室内はすでに外とさして寒さに違いはなくなっている。不意に、少女の声がそこに漏れた。
「生まれを考えれば、このくらいの寒さの方が過ごしやすいですね。……そろそろ彼らも事実を知って帰路を急ぐ頃ですから、ゆっくりできるのもこれが最後でしょうか。
――しかし、もう九年にもなるのですね。あの方とお会いしてから……」
独り吐露した少女は窓辺に佇んでいる。十五夜を過ぎた月を見詰めた。
青白い月光は彼女の長い闇色の髪を艶やかに照らして、夜風は髪と侍女服の裾を緩やかにたなびかせた。
櫛真が、短く小さく吐息した。昔、自分の目印としてよく見上げていた〝月〟。北欧神話ではマーナと呼ばれ、〝月の犬〟〝月追い(ハテイ)〟の神話は有名だ。
胸にシコリが残るような罪悪感があった。ここ最近ずっと思い悩んできた事。
「ツクヨミを襲名した彼を、私めは己が追い求める〝月〟にしてもいいのでしょうか……」
そして、
「〝月〟の虚名を愚かにも名乗り、己が守護の役目を捨てて森を飛び出した私めを、彼はどう思うのでしょう。――否、あの方の追う者と、私めはただの別人。そうでしかないのです」
切望は口にはできなかった。そもそもの資格が無いからだ。――何故ならば、
「――私めはただの、狼でしかないんですから……」
彼女は孤高だった。