『第五章:心狂う者〝狂者〟』
*
山一つを残して、一人で行けるねと言われた少年は、頑なにそれを拒否した。
女性は吐息一つ。説得を諦めた。
仕方ない、とでも言いたげな苦笑付きで彼女は告げた。
『それなら、私のお願いを一つ聞いてくれる代わりに、ちゃんと、森の外まで一緒に行ってあげる。それで、いいよね? 大丈夫。お願いっていっても難しい事じゃないよ』
ぱあっ、と彼の表情は明るくなる。安堵の色に変わったのだ。
自分よりもこちらを優先してくれた事に、彼は胸を撫で下ろす。が、それと同時に、村へ行くのを拒んだ事に訝りを得た。
しかし、今はそれも些末だ。とにかく、一緒にいられるだけで彼は嬉しかった。
*
*
五月中旬の昼下がり。青々とした空に、綿あめのような雲が風に載って流れていく。
穏やかな陽気の中、しかし二年D組の教室に、高圧的な女性の怒鳴り声が響いた。
「何を言ってますの蒼衣・空! 我が儘はよして、貴女はさっさと家に帰りなさいな!!」
熱があるというのに、空が早退を拒んで家に帰ろうとしないのだ。
「やだもん! 帰らないもん! 絶っ対嫌だぁ!!」
「子どもですか! 何をそこまで嫌がってますの!?」
「だ、だって……、家帰っても、お兄ちゃんも麻亜奈さんも修学旅行でいないんだもん」
そういう事ですか、と小声で呟いた波坂は心の中だけで舌打ちした。
現在三年は修学旅行中。ここ一週間は帰らない。加えて、蒼衣邸の侍女は櫛真一人。他を雇うのも本家の人間を館に入れるのも蒼衣が了承していないため、結果空は帰宅後も一人になるのだ。
口喧嘩を皆が我事関せずとしつつも心配する中、ある少年が声を発した。
「大変そうだな波坂。冷かしてやろうか?」
流石に波坂だけじゃ無理か、と遠野は助け船を出してきた。額に手を当てていた波坂は、
「……ええ、そうですわね。どうぞご自由になさって下さいな。ワタクシは知りませんわ」
すると、遠野は立ち上がって空に目を向けた。窺うような目付きで、空は後ずさった。間近で見ると分かるが、頬は火照って少し赤くなり、目はしょぼしょぼするのか瞬きが多い。
「空、そんなに家に帰りたくないのか?」
ん、と空が力無くも頷いた。遠野は口元に手を当てて逡巡。現状打破だけの案をとりあえず出した。
「放課後までなら、別に問題はないだろう。保健室のベッドを借りれば済む事だ。――が、肝心の家に帰る帰らないは俺にはどうしようもない。空、お前はどうしたい?」
「……お兄ちゃん家には帰りたくない。でも、熱い……」
駄々ばっかりだな、と遠野は素直に感嘆した。だがそれでいい、とも思った。だから、
「だ、そうだぞ、波坂? お前は、どうする気なんだ?」
振り向きざまの問いかけに、目を閉じて黙考していた波坂が吐息した。目を開けて、
「案外短い冷やかしでしたわね。まぁこの際いいですわ。――蒼衣・空、貴女今日からウチに泊まりなさいな。無論看病付きでもてなしますわ。問題ありませんこと?」
「え、いいの伊沙紀ちゃん? ほんとに? ほんとのほんとに? ほんとなんだよね!?」
「何故そこまで心配されないといけませんの……!!」
「ご、ごめんなさい!」
謝る空だが、それは遠野も同意見だった。彼は波坂に言う。
「――だが、本当にいいのか? 波坂。正気の沙汰とは思えんぞ」
「貴方までそんな事を……。ワタクシの扱いが日に日に落ちていく気がしますわ……!」
とはいえ、信じがたいのは事実だった。
こうは見えても、波坂は守銭奴だ。それは周知の事実でもある。一月ほどの付き合いしかない空でも分かっている事。しかし、波坂は自ら家に来ないかと申し出た。
商いにおいて、提案と招待はサービスの証。いわば無料。こちらからの頼みならば、有料だった筈だ。
「結構ですわ。――蒼衣・空、どうですの? こちらは準備万端ですわよ? それこそ、同じ布団で寝て差しあげる、というサービスでも付ければ満―――」
「行く! 行くよわたし! ――い、伊沙紀ちゃんと一緒に、ベッド、インっ‼」
鼻息荒めに勢いよく手を挙げて同意した空。あまりの興奮具合に、波坂を含めた皆が少し引いた。
「……ま、まあイイですわ。遠野・和時。貴方もそれで構いませんこと?」
ああ、と波坂の視線での問いに、彼は肩を竦めて苦笑で応えた。
波坂は頷き一つ。そして優しげな微笑を浮かべて、空に手を差し伸べた。
「それでは、蒼衣・空。契約成立ですわね?」
「うん! 色々ゴメンね伊沙紀ちゃん。今日からよろしく!」
二人は握手を交わした。
そして、空は保健室へ、波坂たちは五限目のために席に着いた。
*
*
……色々ゴメンね、か。アイツの悪癖はいつになったら治るのやらだな。
そう思いながらも彼は、国学の講義に耳を傾けていた。
男性講師の声が室内に独り紡がれる。
「――神州を主に知らすのは、イザナキとイザナミが最後に産み落とした三貴神です。〝高天原〟を含めた神州全域を包み守護する日天神アマテラス。夜を食らい頂きに昇る月天神ツクヨミ。荒れ狂う海原を己が剛毅で鎮める大地神スサノオ。――現在この三柱のうち、襲名がなされているのは竜王のツクヨミだけであり、残り二柱は未だ候補すらおりません」
これは大変な事だ、と講師の男は言った。継承者の数が強みである神州に、最高神級に欠席がある事は国勢に関わる事だ、と。
「その上、ツクヨミに関する神話は殆どなく、神州を代表する神は他の二柱。六世孫であるニニギを地上に降ろしたアマテラスと、三つの顔を持つ謎の英雄神スサノオなのです」
講師の話は徐々にスサノオの神話に移っていく。
遠野は予習した事を頭の中で回想した。
……本当の顔が分からない英雄神だ。その表情は話ごとに移り変わる。初めはイザナミに会いたいと泣き喚いた子どもの顔。次に、高天原で働いた暴虐と狂気の神殺しの顔。そして、下界に追放された後、美しい姫を守るために邪龍ヤマタノオロチを討ち英雄となった顔。
スサノオには一貫性というものがない。絶えず人格は変わり、最後には英雄となった。
彼の性格が何故変わっていくのかは、未だ不明とされているが、遠野はこう思っていた。
己が無力に初めは打ちひしがれて泣き、しかし力を自覚しておもむくままに暴れた。後に本当にやるべき事を見付けて闘い、スサノオは勝利したのだ、と。
……正に英雄にして神。無力でしかない俺とは段違いだ。
彼は小さく苦笑して、窓の外、蒼く高い空に目を向けた。脱力した、力無い瞳で。
「――スサノオには謎が多く、その深淵は深まるばかりです。だが、この世で初めて歌を詠んだ文化神としても知られており、非常に才能豊かな神だった事が窺えます」
講師の話は続いた。が、途中から、彼はそれを殆ど聞いていなかった。何故ならば、
……俺は、無力だなぁ……。
この十年間、思い知らされ続けた。皆はそれぞれ自分の力を持っていて、自分だけが、それを持っていない。学力が良かろうが運動ができていたようが関係ない。だが、それが自分にとっての普通なのだ。
無い事が普通。羨ましいとも妬ましいとも思いはしない。
ただ、ただ何故なんだろうと、ずっとそう思ってきた。物心ついた時から、自分には力が有ると言われてきた。でも、実際に箱の中身を空けて見ればコレだ。
努力した。力を付けようと、努力した。だが、その結果得たモノは、諦めと疎外感だけだった。
失ったモノは少ないが、あるもの全てが、無意味に、無価値に、無必要なモノに劣化し、無力になってしまっていった。
両親も。友も。見知らぬ誰もが。皆が持っている筈のモノを、自分は持ってなかった。
彼は思わず自嘲する。気紛れに外を眺めた。雲がゆっくりと流れていた。
どこぞの馬鹿には謝られてばかりで、もう諦めた事だというのに、無性に胸の内がもやついて仕方がなかった。
謝られるのも礼を言われるのも好きではない。謝られると同情された気分になり、礼を言われると不満足だった行いに釈然としなくなるからだ。
そう。結局は、自己満足が己の全てなのだ。卑しい自分が嫌になる。
……誰かのためではなく、自分のため。だから俺は力を得られなかったのかも知れないな。――全く、愚かな事この上ない。まだ、俺は諦め切れていないのか……。
そう思った時だった。ふと彼は、音を聞いた。天を穿ち飛空する轟音を、だ。
? と疑問符を打った彼は、窓から覗ける空を見渡した。
音からして飛行機だが、出雲上空は迂回する規定になっている。飛ぶとしても事前に、学園、ひいては自分たちに連絡がある。
遠野はそれを知らない。教室内を見た。皆にも聞こえている筈だが、特に気にしているふうではなかった。おそらく、疑問は得たものの、とるに足らない事だと判断したのだろう。
しかし、遠野は妙な違和感を得ていた。いつもならば自分も流すような些末事だが、今日この日、この状況、この時分においては、何故か違った。彼は、
「……どこだ?」
遠い騒音に彼は耳を傾け、その正体を目の動きだけで探した。
二十秒足らずで発見した。
蒼天、無数の雲を串刺しするような航跡を残すそれは、一見、巨大な塊に見える。が、
「……ッ、あれは!? ――機甲兵かっ!?」
椅子から屹立した。窓を力任せに開け、遠野は桟に両手を着いて目を見開く。
遠い空に米粒大で覗けるそれは、前面を椀部で浅く抱くように、しかし脚部は気流に任せて天を滑空している。
犬型頭部に、鎧の如き重厚な外殻装甲。肩に背負うのは長大なバズーカ砲。左腰には機甲兵用の短剣を帯刀している。明らかに攻撃意思がある重厚装備だった。
狙いはいわずもがな、この学園だろう。だから彼は、室内に振り返って、その危険を皆に知らせた。遠野の唐突な行動に呆けた表情をするクラスメイトたちや講師に、
「――逃げるぞお前ら! 少なくとも外に――――」
言い切る前に、遠野の声は学園全域に響き渡った警報音に掻き消された。だがその直後、彼らは警報とは違う激音に身を竦ませた。
轟く爆音と閃光の殺到。大爆発の音だった。
『――!?』
爆風と巨岩が崩れ落ちていく地鳴りが伝わってくる。
廊下側からのガラスの破砕音を契機に、室内は隅を基点に膜が張られたように青白く発光する。危険を察知した教室の防護用術式結界が自律起動したのだろう。――三年科教棟が爆撃されたのだ。
遠野は奥歯を噛み、窓の外、青白い発光越しに機甲兵へと視線を飛ばした。距離数百メートル。バズーカ砲を肩に構えたままほぼリングを続ける機甲兵の姿が見えた。
冷たい顔は無機質そのもので、視覚素子だけが作業結果を記録していた。
静まり返った室内に委員長である岩戸の叫びがこだました。危機回避を促す命令は、
「た、退避ィイ―――っ!!!」
掛け声を合図に、教室内の全員が、窓ガラスを蹴り破って地上五階からダイブした。
*
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落下する生徒たちの中盤につけた波坂は、風圧に目を細めながらも、傍にいたスライム種のジョニーを見とめた。魔術による気流操作と自らの身の翻しで、彼女は思いっきり彼を、
「先に落ちなさいジョニー! いきますわよ!!」
スライムを蹴り落とした。結果、ジョニーは誰よりも早く地面にめり込んだ。
ジョニーは一息の間に、ぶにぶにとした肉体を増殖させて体積を数十倍になる。急ごしらえの衝撃吸収マットに変貌した。
そして弾力性に富んだマットは、落ちてきた生徒を受け止め、体内に吸収して地面の近くで排泄していった。
波坂もスライムに落下。一瞬、身体が溶けるような心地よい感触がしたかと思うと、いつの間にか体外に出ていた。何度も経験したが、未だにこの感覚と現象には慣れない。
ふ、と短く息をついた波坂は、直上を、機甲兵が飛んでいったのを、その巨影と轟音で悟った。
どうやら三年棟側の中庭に着地したようだ。――彼女は、彼を探そうかとも思ったが、その前にやっておく事がある。
曲りなりにも彼女は今、三年のいない学園を預かる身なのだ。故に、
「(――学園全域に通達しますわ! 現在、学園は未確認物体による奇襲を受けています。よって、三学年不在時の緊急措置を施行。只今をもって、学園総隊指揮権をワタクシ、大佐相当官、生徒会会計、波坂・伊沙紀が保持しますわ! 一年は階層に退避後、出撃準備を整えて待機。二年陸上科は校内の避難誘導。航空科は周辺域の防衛と避難命令。海上科は研究・開発科と共に本部へ降り、神州に厳戒態勢を指示! 地下実働部隊は地上にて敵の退路を防ぎなさい!)」
一方的に念話を全方位に向けて発した波坂は、次に、急いで彼の許へと走った。そして、
「手短に聞きますけど、何を知ってますの貴方?」
スライムから吐き出され、やる事も無さげに立っていた彼は、こちらの質問に即答した。
「前に言っただろ? 一月前に空を襲った機甲兵、アレだった」
成程、と頷いた波坂は、彼に少し笑んで見せて、こう言った。
「ではどうなさいますの? ワタクシはこれから前線に出ますけど、大佐補佐である無能者殿は、前には出れないでしょう? 別行動にして差し上げましょうか?」
遠野が面喰ったようにぽかんとした。が、ややあってから苦笑して、
「そうか。礼を言う。俺は空を連れてそのまま地下へ逃げよう。アイツは病気だ。無理はさせれない。今日からお泊りなんだろ? ――敵は生半可な強さじゃない。死ぬなよ」
最期に告げた言葉は、真剣そのものだった。
骸のような彼の瞳、不屈の闘志を見え隠れさせる瞳が、こちらを見据えている。――ああ、と波坂は心の中で思った。
……この目ですわ。この目に、ワタクシはやられてしまったんですわね。
彼の目。絶望に染まり、光沢の消えた黒真珠の瞳は、まるで事実を受け入れたくないと駄々をこねて、こね続ける子どものような目だ。これまでの付き合いの中で、波坂・伊沙紀は知っている。
……老成した立ち振る舞いも、本当はただの見栄でしかない。それを理解できた時のワタクシはもう、貴方しか見れなくなっていた。気高く孤高でしかいられない貴方の事しか。
打ちひしがれる無能者。努力が実らない不運なヒト。聞き分けのない負けず嫌いな少年。
……イザナミは神州の母。ワタクシには、貴方を包み込んでいい資格があるんでしょうか? ――ねぇ、和時さん。何故、貴方はあの子しか見てくれませんの? ワタクシは――――。
思いはしたが、口にはしなかった。否、できる筈もなかった。彼は、自分の事を〝悪友〟と呼ぶ。それが、答えだ。
だから波坂は、いつものように余裕の笑みを浮かべて、
「ふっ。貴方が他人事を理由にするなんて、随分と変わりましたのね。良い変化だと、そう思っておきますわ。――分かりました。貴方に任せましょう。では」
二人は互いに頷き合い、二手に別れた。それぞれが目指す場所へと、だ。
他の、クラスの皆も自分たちに課せられている非常時の役目を果たしに、八方へと駆け出した。
水色の長髪を揺らしながら、機甲兵の許へと疾走する波坂はこう思った。
……ほんと、しくりましたわね。入学式の日、もう少し柔和に話し掛けるべきでしたわ。でしたらもっと、しおらしく接してこれましたのに。人見知りがこれほど仇になるなんて。
波坂は眼球に内燃魔力を集約させた。直後、碧眼が黄金色に輝く。
彼女は気を引き締めるために叫んだ。
「何はともあれ、――存分に縛して差し上げますわ!!」
*
*
「――空!」
職員棟一階にある保健室に駆け込むと同時に、遠野は少女の名を呼んだ。
三年教棟とも繋がっている職員棟だが、幸い室内に傷は見られなかった。震動で、机や棚の上の備品が倒れて床に落ちている程度だ。
室内の状況を一目で確認した彼は、返事も聞かず、カーテンで遮られたベッドへ近付き、カーテンを剥ぎ取った。が、彼は眉をひそめた。
「……いない? 逃げたか? いや、アイツに限ってそんな事は。――なら、行ったのか」
少年は嘆息した。
ベッド横の窓に視線を移す。開いていた。おそらくあそこから出たのだろう。その証拠に、ベッドは毛布が剥がれた状態で、窓はリュウ属の腕力でいきなり開けられたためヒビが入っている。――考えるよりも先に、遠野は動いた。少女に続いた。
保健室は、中庭ではなく外庭の方に位置している。無論ここから出れば、それだけ目的地までの距離は遠ざかる。無能者として危険を犯すよりも安全を重視したのだ。
先程から、遠野の鼓膜は震えっぱなしだ。
教棟の向こう、広場を挟んだ場所にあるグラウンドから、幾度となく爆発音や閃光、建物が倒壊する撃音が轟いている。機甲兵と波坂との戦闘だと思っていたが、やはり爆音の正体は、空の神力〝劫火業炎〟だったようだ。
窓の傍は、棟を囲む植林。草地に降りた彼は、左右を見た。規格外の戦闘から鑑みて、なるべく迂回して行くべきだ。三年教棟側は破壊されて危険であるから、残るは、
「……一年教棟を回っていくしかないな。一キロも無いが時間がかかりそうだ」
と呟いた彼は、右手の植え込みを直に走り出した。行ったとしても、自分には何も出来ない事を承知した上で、だ。
行かなければならない気がしたのだ。
*
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広葉樹が砂利の参道の上を覆ってトンネルとなっている。
その門前といえる場所には、正門である大きな鳥居が佇んでいた。
日差しは青く澄んだ快晴。鳥居の柱に背中を預けて、蒼天を鋭い双眸で眺める彼は腕組みをしている。傍に立つ櫛真は念話を切り、機構からの報告を彼に述べた。落ち着いた声で、
「新東合学園に機甲兵が現れた模様です。侵入感知の結界しか展開していなかったため侵入は許したようですが、現在は実働部が退路を塞ぎ、波坂会計と空お嬢様が迎撃に当たっているようです。生徒らは地下階層に退避中、との事です」
櫛真の声には、彼にしか分からぬほどのわずかな動揺が感じられた。故に彼、蒼衣は視線で、どうしたと問うた。はい、と頷いた彼女は、一度目を伏せ区切りをつけてから、
「――迎撃に向かった空お嬢様ですが、どうやら風邪をひかれているようです。かなりの高熱で魔力代謝にも乱れがあり、短時間でも戦闘に従事するのは極めて困難だ、と……」
淡々とした口調だが、やはり動揺が覗けた。
無論、彼も全く気にしなかった訳ではない。わずかに視線が鋭くなっていた。が、ややあってから蒼衣は、腕を解くと共に鳥居から背を剥がして、
「草薙のオニと書記を呼べ。緊急帰還だ。――オレは今から出雲に戻る。その間に貴様は三年どもを御しておれ。ここは熱田だが、一両日以内に帰路に着く程度で構わん」
「了承しました、龍也様。では委細はお任せする事になりますが、問題は?」
「ない。――麻亜奈よ。お前も好きにするがいい」
櫛真の銀眼を直視した彼は、しかし次に、彼女から離れた。歩いている。樹のトンネルではない、鳥居からも離れていく方向へ、だ。
ではな麻亜奈よ、と背中越しに片手を挙げて、彼は両手をポケットに入れた。
背後、櫛真が深く腰を折ったのを気配で感じ取る。自分と彼女が離れて行動する際、彼女はこちらが消えるまで頭を上げようとはしない。いなくなるのを見るのが、好きではないようだ。
ふ、と蒼衣は小さく笑った。
彼女との距離を十メートル開けて、彼は心持ちを前方に集中させた。ごく自然な動作で腰を落とし、下半身に瞬発的に力を込めた。
直後。彼がいた場所に小さな砂煙が上がる。
彼の姿は跡形もなく消えていた。
*
*
五メートルはある短剣。その豪速な振り下ろしに、地面が揺れて割けた。
近くにいれば衝撃だけで即死するような威力だ。
金属の巨躯は求めた結果が得られていない事を視覚素子から知覚して、すぐさま左に向き直った。視界の先、身長百四十センチほどの少女が、股をやや広げた体勢でいるのを確認する。
濃紺の長髪を振り乱して、少女は垂直にジャンプした。
その高さ十メートル。機甲兵との目線と同じ位置に至った。だが巨体とは思えぬ俊敏性で機甲兵は動いている。機甲兵が右手に握る短剣をまず左に振り、そこから少女を薙ぎにいった。
途端。機甲兵の身体が、全身を打ち据えられたように急停止した。そして、
「いきなさいな! 蒼衣・空!!」
波坂の叫びに、空中にいた空は応じるように上体をのけぞらした。
深い吸気と共に魔力光が喉元に充足する。一息の後、自分の体躯よりも数倍大きい火球を、少女は機械目掛けて吐き飛ばした。
直撃だった。轟音が唸り、星屑のような魔力残滓が黒煙と一緒に盛大に巻き上がっていく。
「どうですの……ッ!?」
機甲兵の背後で身構える波坂は鋭い声を発した。
先、あの巨躯を縛して停めた異能〝邪眼束縛〟の手ごたえは未だ強く残っている。倒せてはいないのは明白。つまり、傷を与えられたかどうかの話だ。
……ここまでに蒼衣・空の神力を五度ぶつけましたけど、そろそろ傷程度はついて欲しいものですわね。せめて、彼女が本調子ならば……。
黒煙から、波坂に向かって機甲兵が顔を出した。順に、金属の身体が黒影の中から露わになっていく。波坂は奥歯を噛み、思わず後ずさった。
「……技の特性から、ワタクシの方が厄介だと判断しましたの?」
「――伊沙紀ちゃん!」
「蒼衣・空? わざわざ迂回して来ましたの?」
黒煙を避けて駆けてきた空。波坂に軽く頷いた少女は、彼女と肩を並べて構えた。
「全く。倒せていないのが分かってるなら、もう一発くらい叩き込めばいいですのに」
「ご、ゴメン。でも連射すると貧血みたいに頭くらくらするから……」
「そうですの。では、どうします? あの機械、話よりも随分と強いですわよ? ヒト型で風邪をひいて弱っているとはいえ、貴女の〝劫火業炎〟を六発も食らってもまだピンピンしてますし、少々手強いですわね……」
彼女の苦笑に同じ笑みを返して、空は額の冷たい汗を袖で拭った。
機甲兵はもうすでに煙の外。距離でいえば十メートル以上はあるが、あの巨躯ならば三秒で接触だ。
空は無理を承知で、波坂に提案した。少将荒れた息遣いで、
「伊沙紀ちゃん。やっぱりさっきの、続けるしかないと思うよ……?」
「ええ。それしか、本当にそれしかなさそうですわね」
不服と言わんばかりな態度ながらも、波坂は了承した。
*
*
遠野が戦場を直視できる位置につけたのは、空が十発目の神力を放った時だった。
紅蓮の炎。灼熱の疾風。黒煙と魔力の残滓が柱となってグラウンドの幾か所からも直上を昇っていく。
遠野はそれを、百メートルほど離れた、グラウンド横の大広場から見ていた。
波坂の束縛。空の神力。機甲兵の反撃。そして再び波坂が束縛を掛けて空が神力を放つ。
繰り返し、繰り返して、繰り返し続けている。
回数分。機甲兵にはススや損傷が微々増えている。だが、それよりも、
……空の消耗が激しいな。波坂の補助があるとはいえ、精製の暇なく魔力を消費し続ければ飛竜種の貯蔵魔力でも持たんぞ! はやくケリを……!!
霊体と肉体は表裏一体。魔力の消費は、そのまま体力の消耗へと繋がる。風邪で体力が鈍っている状態で、あれほど強力な神力を十回以上繰り出すのは、自殺行為でしかない。
長い戦闘にはならない筈だ。――十二度目の爆発が起こった。
機甲兵の関節部や背部の排熱口からは陽炎が揺らめき、肩や腰の装甲は砕け、唯一の武器となった短剣も刃こぼれが酷い。波坂と空は制服をススで汚し、肩で息をしていた。
「――何も、出来ないじゃないか……!」
この状況で、無能者である自分に出来る事などない。手助けすら、ただの邪魔だ。
ギシリと奥歯を噛み締めて、少年は二人に視線を飛ばした。見えるのは、股を少し開いて姿勢をやや崩しながらも身構える二人の背中。ひ弱で、大きいとは言い難い背中だ。
が、華奢なその背中は、一体どれほどの重責と覚悟を背負っているのか。それが、自分には理解できないと分かっているからこそ、やりきれない気持ちが胸を軋ませる。
異能も魔術の技も無く、体内の魔力すらも操れない自分。ここにいるというだけで、どす黒い劣等感が己を蝕み、屈辱に身体が震える。自分はこんなにも、二人を助けてやりたいのに。
――お前には力が有る。だから、何でも出来るんだ。
力なんてない。何も出来ないのだ!
黒煙と爆炎が交錯する中、機械の翻りに煙が撒かれる。
空いた腕で巨躯は、正面の空を真上から叩き潰しにいく。が、その直前、腕と少女の間に、波のような揺らめきが発生した。振り下ろされた腕は宙を滑るように右へ逸れ、空の横数メートルを叩いた。
空は慌てて巨躯の手とは逆の方へ飛んだ。
「波坂か!」
機甲兵の間合いぎりぎり、両手を前に翳して静止する波坂の姿が見えた。おそらく、彼女の神力〝黄泉津追縛〟で咄嗟に空間を縛し、軌道を逸らす程度の薄い壁を造ったのだろう。
埋もれた手を引き抜いて、機甲兵は上体を起こす。空は距離をとろうと駆ける。
が、直後、機械から十メートルも離れていない場所で、空は躓き、前に勢いよく倒れた。
「――あの、馬鹿ッ!!」
反射的に遠野は足を踏みだした。空を直視する視界の端で、機械も彼の視線に続いた。
ッ、と彼は喉元で舌打ちするように息を詰めた。距離的に、もはや間に合わない。
機甲兵が、空との間合いを詰めて右半身をやや引く。再度右腕で攻撃するのだと悟った。
ただの人間の脚力で走る。自分では間に合わない。唯一間に合うとすれば、それは、
「波坂……!?」
獣の如き瞬足で、機械と少女の間に長身に水色の長髪を持つ少女が滑り込んだ。
彼女は仁王立ちの姿勢。両腕を横に振り切って、右手を高く振りかぶった機械と相対する。空は尻餅を着いたまま。突然の事態と肉体の過労でまともに動けていない。
そして、波坂の周囲全ての空間が歪んだ。光が屈折し、現実が魔力ごと鱗の如く波を打つ。
数秒後、空気が硬直して衝撃を吸収する障壁が生まれた。
振り下ろされた豪速の右腕。一瞬で障壁の半分を叩き割った。
豪速の勢いが落ちていく。
だが、それにも限界があった。波坂の方に、だ。
通常、彼女の神力を発動させるには、十秒近くの空間処理の演算が必要だ。先の空を守った壁も軌道を変えただけで崩壊した。圧縮時間が足りなければ、必然的に束縛した壁の耐久力は落ちる。
故に、二人を守る壁も同様に弱く、そして脆いのだ。
未だ駆ける遠野は目を剥いた。壁が破砕されたのだ。巨躯の剛腕は、力を残したまま振り抜かれる。
巨大な掌には、ヒトがあった。
長い一房の髪はたわみ、長身は薙がれた。
神経回路、――――全開。
発動者が吹っ飛ばされて、歪みが完全に解けた。
十メートル以上飛んだ彼女は、地面に強く打ち据えられた。受け身もとらずに数度バウンドして制止。それ以後動かなかった。
「――波坂ァア!!」
彼は波坂の許へと駆け寄る。膝を着き、そっと抱き上げた。
赤黒い血の、どろりとした生温かい感触が両手に来た。全身の至る所は骨折し、最悪背骨も折れている気がした。――ススと血に塗れた顔で、波坂は、焦点すら定まらない瞳でこちらにやっと気付いた。
「……アァ、あなた。もォしわけ、ありません、わ、ね……」
彼女は心底残念がるように呟く。
「しくりま、し、たわ。まっ、たく、自分を守れもせずにヒト助けなんて。怒ってます? ――そらさんも、あな、たも」
「喋るんじゃない。大人しくしてろ。機甲兵は空が相手してる。問題ない。安心しろ」
魔力炉、――――全開。
背後、機甲兵と空がいるであろうその場所からは、先から爆音が絶えない。おそらく空が、孤軍奮闘してヤツを足止めなりトドメなりをさそうとしているのだろう。
「……ええ、分かって、ますわ。あのこは、そォうゆゥ方、ですもの。――でも、あた、くしは、あなたに、イイたい、事が、あります、の。あなたに、言いたい、大切、な、事が」
気休めに微笑む彼女。しかし、その真剣な呼びかけに彼は押し黙る。視線で、彼は尋ねた。
筋稼働率、――――全開。
彼女は頷こうとしたができず、見えているのかも怪しい眼を閉じて苦笑一つした。まともに動かない口を動かして、消え入りそうな声で、彼女はこう告げた。
「――くしは、―なたのォこと、を、ずっと、……ずっ、と、……シタ、って、―――」
最後まで言えずに彼女の瞳からは完全に光が消え、己を支える力すらも無くなった。
眠ったように四肢はダラリと伸びている。その顔に、彼が慕っていた笑みはもうない。
内側が痺れた。
思考回路、――――暴走。
胸の内が軋む。奥歯はギシリと音を立てる。屈辱に身体が震える。
何を考えればいいのか、分からない。
これからどうすればいいのか、分からない。
ただ一つ言えるのは、このままこの激情の奔流に身を委ねて暴れる事だけ。それはどんなに楽だろうか。もはや己に、それを考える力は無い。
どこかへ、捨てられてしまったから。
どうせなら己に残された最後の感情に、この肉体は応じるべきだろう。
そう。
感情回路、――――暴走。
己の内側。内包する。己が有する力で、何もかもが出来るこの力で行う。
彼の意志に、身体は無条件で応じた。
大切な友人の喪失に彼は、己の枷を引き千切った。
異能〝狂者〟、――――発現。
「――――!!」
彼は獣の如き絶叫を天に捧げた。
がくり、と俯いた彼は、腕の中のモノをそっと地に寝かした。何故か、そうしなければと感じたからだ。
訳も分からず、彼は背後へ振り返る。巨大な金属を視界に捉えた。
腰を落とす。そして、大地を穿つほどの震脚で、彼は壊すために一直線に跳んだ。
彼には、何故そうしたのか理由が分からなかった。
ただ己の内にある、ただ唯一の言葉に、彼の肉体が応える。彼の意志に、身体は応じているのだ。
――壊す。壊してやる。何もかも全て。たった一人の悪友をコワシタ貴様を、コワス、と。
彼の漆黒の瞳が、黄金色に変貌した。まるで、彼女のように。
*
*
鼓膜を震わす、雷鳴の叫びが聞こえた。
神力が効かないと判断し、獣化して一気にケリを着けにいこうと思案していた空は、その絶叫に思わず肩越しに尻目で後ろを確認した。
だが、それとほぼ同時に、黒い影が空のすぐ傍を機甲兵目掛けて突っ切っていった。
速い。
突然の出来事に、空は目を見開いた。遅れて、眼球の動きでその姿を思わず追った。
疲労で息が上がり、熱でぼやけた頭でだったが、少女はその光景を見間違えはしなかった。
機甲兵の右手がいきなり破砕していた。
巨躯の攻撃を純粋に脚力だけで回避し、暴力としか言いようがない〝束縛〟で機械を徐々に瓦解させていく化け物がいる。彼から発せられる魔力は凄まじく、そして醜かった。
「……かず、とき、くん……っ!?」
右手に続き、右腕が〝歪み〟で大破した。黒い潤滑油が血のように装甲板の間から飛沫を上げる。
「――!!」
彼は叫びを挙げながら駆けて、歪めて、そして壊していった。
空は唖然とし、無能者である筈の彼の暴走を眺めた。
かの嵐神、天を轟かせ天界を追い出された英雄神。小さく強張った声で、矮躯の少女は、彼の名を呟いた。
そこに少女の知る、冷たくも心優しい彼の面影は、一欠片も残ってはいなかった。
「……和時君」




