『第三章:彼の王は竜なり』
*
暗い夜の樹海で迷い続けた幼い彼は、とうとう力尽きて茂みの中に倒れた。
彼は己の死を覚悟した。
聞けば、この森には〝神隠し〟のような伝説がある。与太話だと思って聞き耳を立てていたが、ふと彼は、その話を思い出していた。
人間がこの森の深くに入り込むと、影のような化け物が現れ、その魂ごと食われてしまう。そんな話だ。幼い彼は思った。死に際は本当に馬鹿な事しか思いつかないんだな、と。
……どうせなら、その影に食い殺された方が面白そうだけど、でもやっぱ死にたくない。だって、ボクは神様なんだから。もっと生きて、皆の願いを叶えてあげたいのに。
眠るように彼は目を瞑った。
が、少しして不意に、音を聞いた。腐葉土を忍び寄るように踏む、小さな音だ。――もう来たのか、と彼は呆気ない自分の終わりに内心で苦笑した。
彼に近付いてきたのは、彼を食らう化け物などではなかった。優しい声がした。
「――どうしたの、坊や? 道にでも、迷ったの?」
長く美しい黒髪にすらりとした長身。銀眼を持った淑女の姿が、彼の虚ろな瞳に映った。
綺麗なヒトだと思った。
*
*
四限目が終了して昼休みになった。
大半の生徒は食堂へ出払ったが、それでも結構な数が弁当を持参している。その殆どが分隊ごとに弁当を広げているが、遠野は食事もせず自分の席に座ったままだった。
朝の、波坂とした昼食の約束が反故になるのかが分からなかったからだ。
しばらくすると、彼の傍に凸凹な二人がやってきた。まず小さい方が口を開いた。
「か、和時君……?」
「――何だ? 空。それに、波坂」
怯えつつも空は話し掛けてきた。逆に、波坂の方は不服そうに腕組みしてそっぽを向いている。予想は着いているが一応遠野は尋ねた。すると、空は意を決したように頭を下げて、
「ごめんなさい! 和時君ほっぽいて喧嘩しちゃって、ごめんなさい!」
「そうか。で、波坂は何なんだ?」
「ふんっ……、ワタクシは謝る気なんてありませんわ。少なくとも貴方になんて。ワタクシは別件、そう別件がたまたまあってたまたまここに立ってるだけですわよ!」
「な、波坂さん! さっきちゃんと謝ろうって、保健室で言ったよね? ね?」
「ワタクシが了承した憶えはありませんもの。なし崩し的に相槌を打ってただけですわ」
波坂は顔を背けたままだ。空はそんな波坂におっかなびっくり、こちらと彼女を交互に見てあたふたとしていた。謝罪はこの際置いておいて、彼はとりあえず言っといた。
「――まあなんにしろ、空も波坂も、もうあんな真似はするな。二人とも継承襲名者だから特赦されるとしても、犯罪は犯罪だ。波坂の神力は特二級規制で使用には厳重注意が、空の場合は小規模でも天下の〝竜撃〟を使ったんだ。分かってるのか?」
「……う、ごめんなさい」
「考えてみればそうですわね。〝竜撃〟は特一級で完全許可制。使えば懲役処分間違いない訳で、何故放置なのでしょう? 特赦でも聴取くらいはありますし、遠野・和時。貴方何か知ってますの?」
「生憎、詳しい事は俺も聞いてない。ただ会長が傍観の命令を出してたそうだ。流石は神州のドンだな。何を考えているのか、無能者の俺にはさっぱりだ」
遠野の言葉に、しかし波坂は口に手を当てて、神妙な顔で黙考し始めた。会計として会長と面識がある分、思惑を推量しているのだろう。一方で、空は不思議そうに小首を傾げているばかりだった。
ややあってから、波坂は諦めたふうに吐息。片手をひらつかて、
「考えても無駄ですわね。会長の策は理解できた試しがありませんし。――それよりも」
と波坂は、すぐ横に立つ空に対して向き直った。眼差しは真剣なものだった。
遠野と空が同時に訝りを得る中、しゃがみ込んだ波坂が、目線を空と合わせて言葉を作った。
「――別件、ですわ。経緯上、貴方を先に行かせましたけど、今度はワタクシがワタクシの用を済ませる番ですわ。――蒼衣・空。貴女には、確かめたい事がありますの」
その言葉を耳にした瞬間、遠野は悟った。彼女が、すでに気付いている事に、だ。
……来たか。こればっかりは、俺には何も言えないな。物語でしかない神同士のイザコザ。それをお前はどうする気なんだ、波坂? 波坂・伊沙紀。俺の悪友よ。
力の無い瞳で、彼は二人をその視界に収める。子が、母に慰められているように思えた。
「先の手合い、貴方は神力を発動させましたわね? それも襲名者二人がかりでやっと相殺できるほど強力な、燃焼現象の神力を」
ん、と空が小さく頷いた。わずかに、頬が強張っているようみ見える。
「あれほどの神力を得たならば、相応の神名を頂いた筈ですわ。現に貴女は襲名者であり、そしてその名を隠している。初めに言った通り、詮索する気は毛頭ありませんわ」
でも、と波坂が言葉を繋げた。
「ワタクシには否が応でも、貴方の神名に心当たりがありますの。そして貴女が名を隠している事で確信しましたの。――神州神話において、火神として生を授かったのは一柱のみ。他の火神は、その神の屍から成り出たものと云われていますわ。貴方も知っていますわね?」
無言。空は頷きもしなかった。無表情ともとれる表情と眼差しで、ゆっくりと、波坂は告げた。その名を、
「――貴女の神名は、邪神〝火之迦具土〟ですわね?」
昼休みの教室が一瞬にして静まり返った。しかし、波坂はなおも止まらない。
「カグツチの襲名者は七年前に現れ、しかし大神でありながら表舞台に立つ事は一切なく、公開された情報は飛竜種の女性である事だけ。まさかこんなにも唐突に出会えるとは思ってもみませんでしたわ。――初めまして。ワタクシを、イザナミを殺したカグツチ」
空は項垂れた。スカートの裾を握り締める手が、怯えるように小刻みに震えていた。
だが彼は、小さく笑み、そして目を閉じて関わる事を放棄した。お節介なヤツだ、と波坂に全てを預けたのだ。
*
*
ずっと。ずっとそうだった。この名を頂いた時から、ずっと。
家族や使用人たちは、素晴らしい名を貰えて良かったなと喜んでくれた。わたしも喜んだ。
でも、学校に行くと、友達だと思っていた皆の顔が変わっていた。
何故かは分からなかったけど、わたしは怖くなって教室から逃げた。
家に帰ろうと廊下を走った。
すると、角で先生とぶつかって、謝ろうとしたら、先生は、えたようにわたしに平謝りしてきた。
怖かった。今まで楽しかった自分の居場所が、本当は上辺だけの世界だった事が。
次の日もそのまた次の日も、皆の顔は一緒だった。先生たちも、だ。
それは何日も続いた。
次第にわたしは独りになった。だが、それにも慣れてきた頃、わたしの前に、まだ話をしてくれる友達がやってきた。目を泳がせながら、その子はこう言った。
『ご、ごめんね、空、ちゃん。もう、空ちゃんとは遊べないの。何て言うのかな、空ちゃんとあたしは違うヒトっていうか、そーいう事しない方がいいと思うんだ。だから、ゴメン!』
逃げるように、その子は教室から出ていった。わたしをそれを呆然と見送る事しかできなかった。
少しして、わたしの耳には聞こえてきた。否、わざと思えるほど大きな、悦の入った笑い声と共に叫ばれたから聞こえたのだ。それは、廊下から、
『――この学校にいるなんてマジで最悪だよな。恥さらしもいいとこだぜ! 誰だっけ名前、そう蒼衣とかいう女子! アイツ、この国を生んだそれもホントの母ちゃんを、生まれてすぐ焼いたヤツなんだろ!? 母親殺したくらいだ、近くにいたら全員焼かれるかもな―――!!』
その時感じた皆の視線は、とても怖かった。
わたしは、また逃げた。
また先生とぶつかった。また平謝りされる。それで分かっちゃった。先生は、私が怖いんだ、って。
もうその学校には行けなかった。何度か転校したけど、どこに行っても同じだった。
怖かった。この世界には上辺しかなく、上辺の中で悪者だったわたしが、本当に悪者のようにされる事が、恐ろしくて堪らなかった。
高校からはずっと名前を隠してたのに、いつの間にか知られてて、知らない所で何かされていた。最後の方は諦めて、ずっと堪えてた。結局、どこにも自分の行き場所は無くて、ここで駄目ならもうと、新東合学園に通う兄のツテを頼り、わざわざ編入してきたのだ。
これだけ大きな学校だったら大丈夫だと、そう思ってた。でも、やっぱり駄目だった。すぐに、しかも自分からバラしてしまった。――ここでも、また居場所がなくなっちゃうなあ。
……それでも、まだ、大丈夫かなあ。和時君が、いるし。
和時君、わたしといても平気そうだし、和時君が嫌じゃないなら、少しは、休み時間くらいはお話とか、一緒にお弁当とか、できるかなあ? 後から嫌いになられるのは、嫌だな。
……だいじょーぶ、だよ、ね? いい、よね?
抗いたかったんだ、わたしは。抗って、皆に分かって欲しかった。わたしは怖くない、と。でもできなかった、本当に欲しかったものが、すでにいなくなっていた。
彼には〝やれ〟と諭され、彼女は〝嫌われてでも今を〟と言っていた。だけど、わたしには分からない。怖がりのわたしには分かんないよ。だって悪いのは、やっぱ自分なんだもん。
久しぶりにお友達になれると思ったのに、自分から壊してしまった。
わたしは馬鹿だ。彼の言う通り、馬鹿だ。周りが疎かなクセして自分の嫌な事はすぐにキレて抑えが利かなくなる。彼の諭しも、おそらくは解釈すら甚だしく間違えているのだろう。
眼前で膝を着いている波坂が吐息した。もう近付かないで、とか言われるのかな。さっきまであんなに楽しかったのに。教室も静かで、皆がこっちを見ている。
いやだ。
見ないで。
そんな怖い目で、――わたしを見ないで!
目から、大粒の涙を落としそうになる。すると不意に、温かく優しい匂いに包まれた。
「――なみさか、さん?」
抱き締められていた。全身が包み込まれて、違うヒトの匂い、布地を伝ってくる温もりがひどく心地良かった。緊張が解けて、腰砕けになってしまいそうなほど内側が痺れた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
「……え?」
「ワタクシのせいで、貴方には随分と痛い思いをさせてしまいましたわ。そのお詫びを、ここで晴らさせて頂けませんか?」
何で? どういうこと? 迷惑? ――そんなものはない。迷惑をかけたのはイザナミを殺したカグツチではないか。火であぶり殺し、二度と子を産めぬ身体にした挙句、病死させた。夫とは決別、死後はその憎悪から日々千の魂を食らう死の大神にしてしまった。何故、こちらが謝られないといけないのだ。
神州の地母神という輝かしい功績に泥を塗ったのは、紛れもないわたし。カグツチだ。
「こんな事を言ってしまえば、どこぞの不出来に駄々をこねられるかも知れませんが、少なくとも、ワタクシという存在が貴方を苦しめた事に変わりはありませんわ」
「――――」
「ワタクシがイザナミを襲名したのは、貴方と同じ七年前。その時から、周りにいる人間は皆揃ってこう言いましたわ。カグツチがイザナミを貶めた。神世七代に連なる大地母神の顔に泥を塗ったのだと。
ワタクシは思いましたわ。ワタクシは悲しまれるのが関の山だろうけど、カグツチのヒトはどうなんでしょう、と。――正直怖かったですわ。いつの日か、ワタクシを恨んだカグツチの襲名者が現れ、ワタクシは本当に殺されてしまうのではないかと」
そんな事しないよ、と空はどうにか答えた。ええそうですわね、と波坂も頷いて、
「貴方はそんな事など絶対しませんわ。でも、誰が、どんなヒトが、カグツチか分からないワタクシは恐ろしかった。同時に、そんな卑しい考えをする自分を醜いと心底思いましたわ」
でも、
「――ワタクシは決めましたの。カグツチに対する最大の敬意として、ワタクシは死後の自分であらんと。イザナミは死によって、その存在を確固たるものにしたんだと。故にワタクシは言ってきましたわ。ワタクシの襲名神は、死と退廃を司るイザナミだ、と」
波坂は耳元で苦笑した。心からそう思っているように、
「それでも貴方には、何も伝わっていなさそうですわね? やはり独りよがりの責任転嫁でしたか。申し訳ありません。ワタクシの親友、蒼衣・空。何があっても、貴方は友ですわ」
「――――」
何も言えずに、ただ視界が歪んでいった。何でだろう。よく前が見えないよ。おかしいな。
「……ほんとにごめんなさい、空さん」
「え……?」
一瞬何か言われたような気がして少女は聞き返した。が、波坂は空から身をはがすと、
「最後ですが、貴方に言っておく事がありますの」
「……何?」
「この学園に、同族を蔑むような下衆は一人もいませんわ。残念にも、皆、同じですゆえ、貴方の痛みも辛さも理解していますのよ? だから、貴方の周りには人が沢山できますわ」
ああ、そうか。
成程。考えてみれば、そうだ。この学園は神州の兵らが集められる場所。全国から、一か所に、集められた人たちなんだ。誰も彼も、たぶん自分と同じで、一人だけだったのだろう。学園では凡人だとしても、外に出れば非凡の存在。神として、世界の均衡を保つという大役を押し付けられ、それでもなお折れなかった強いヒトたちなのだ、きっと。
……私も、この中に入れてもらえるのかなあ。
声が震えたが、空は問うた。波坂とのやりとりを静かに、見守っていた彼らに。
「今日からこの小隊に編入する事になった、継承襲名者の空です! ――襲名神は、〝カグツチ〟です! 皆さん、私と、仲良くしてくれますか……!?」
空は頭を下げる。周りは無音だった。
――え? と空の心は不安に蝕まれた。
すると、呆れた声が、ふと空の耳に届いた。悲しそうな瞳を持つ、彼の声だった。
「――頭を、頭を上げろ、空。それじゃぁ、床しか見えないだろ?」
諭された。空は、目を瞑って頭を上げた。そしてゆっくりと、目蓋を開けた。途端、
『イィィヒャッホ――イっ‼』
わ、や、お、という罵詈雑言の喝采を空は受けた。
吃驚で開いた口が塞がらない少女に、彼が頭に片手を載せてきた。ぽす、と頭が掌に覆われる。何故だか安心感が胸の中に沸いた。
「良かったな。馬鹿しかいないが、少なくとも楽しい学園生活の始まりだぞ?」
「……う、うん!」
空は、また視界が歪んでいくのを自覚した。何度も、何度も拭うが、どんどん溢れてくる。
……駄目だよ。涙が出て仕方ないよ。どうやったら収まるんだろ? でも、嬉しい、よ。
笑みに涙がまざって顔はくしゃくしゃになる。制服の袖で拭う。が不意に、手を握られた。
「――蒼衣・空、行きますわよ。時分は丁度の昼休み。赴くままに園内を案内致しますわ!」
*
*
波坂が空を連れて教室を出ていくのを、後ろから静かに見送った遠野。未だどんちゃんさわぎが納まらない学友たちに辟易とするものの、ふと横から声が来た。それは岩戸の、
「そんな嬉しそうな顔をする遠野君、初めてです。遠野君は、一緒に行かないんですか?」
「うるせぇ。そんなもの俺が知るか。お前の見間違いだ。忘れておけ」
「そうだといいですねえ。でも、良いもの見れましたから、今日は嬉しくも良い日です」
「そうか? 外の、無法地帯に住んでいる人にとっちゃあ、およそ良い日とはよべないぞ?」
「またそうやって遠野君は皮肉を付けたがる。でもいいです。私も、昔は空ちゃんみたいに沈んでましてから、ちょっと思い出しちゃいました」
「意外だな。お前は上手い事打ち解けてそうなもんだが」
ええ、と岩戸は頷いた。そして下、自分の模範的な制服の着こなしを眺めつつ、
「ド変態って、よくからかわれてました。私の襲名神、アメノウズメは八百万のいる公衆の面前で、全裸で踊り狂いましたから。下半身露出させた、神話初のストリップなんです……」
岩戸が物悲しそうな、遠い目をし始めた。絡まれると面倒なので遠野は視線を逸らした。
「随分な環境で育ったんだな」
「はい。でも今思えば懐かしい記憶です。逃げたのに、己の居場所を見付けてしまうと、ヒトは弱くなるんですね。ここに来て思い知りましたよ。空ちゃんも、弱くなると良いですね?」
「――そんなもん、アイツが勝手に決めるだけだ。俺がどうこう思惑を立てる必要はない」
そうですか、と言葉を返した岩戸。だが、でもと岩戸は続けた。
「遠野君は、どうなんでしょうね? ――遠野君は、逃げてきたんですか? それとも、何かに挑みに来たんですか?」
問いかけに、彼は目を閉じて肩を竦めてみせた。昔日の、父の言葉を思い出しながら、
「そんな大層な選択、おれにはとうてい選ぶ事なんて出来ねえよ。たぶん、求められたから受け入れただけだろうよ……」
遠野は頭の中で思った。あの時は、出来る事は全てやりたかったからな、と。
だが、
「だが、少なくともここは居心地が良い事は確かだ。波坂の言う通り、ここはそういう奴しかいない。多少目立っても、そのうち普通になる」
だから、俺も、弱くなったんだろう。
*
*
窓が無い、四方十メートルほどの部屋。天井の照明が、室内を明るく照らしている。
一見、会議室を思わせる内装は絢爛ではなく単純で、厳かな雰囲気を感じさせる。
木目の壁には世界地図、それと紋章が描かれた旗が飾られ、床には固い大理石。調度品の類は、半円状の円卓と、細工が散りばめられた執務机が一式あるだけだ。
そこには、二人の男女がいた。
二人とも紅白の制服を身に着けており、少年は執務机を前に革椅子に腰掛けて、少女は静かに傍で佇んでいる。双方、近寄り難い空気を纏っていた。
すると、少女の方が口を開いた。身動きに、肩にかかっていた黒髪が一房流れ落ちる。
「彼女の不始末、如何なさいますか? でしゃばりが過ぎるかも知れませんが、私めの見地からすれば直に邂逅をもって、戒めるべきかと存じます」
「ふん。オレとしてはどちらでも構わぬのだが――、いや、違うな。うむ、その方が存外面白いかも知れぬ。都合良くアイツもいる。見物がてらに行ってみるのもまた一興か」
と、不遜な態度の少年が、おもむろに椅子から腰を上げた。
執務机を避けて、扉へと歩を進める彼は口端を歪ませ、傍の少女を尻目にして声を発した。
「ならば早速赴くとしようか、麻亜奈よ。まずはお前が案内せい」
「――上です、龍也様」
「ハハハハハ、お前は時たまオレをおちょくるから捨て置けぬ。では行くぞ」
「了承しました。まずは上に行きましょう、龍也様。ここは地下です」
黒髪の、少年と少女は、〝生徒会室〟と名の付いた会議室を後にした。
*
*
五時限目の前、遠野は、次の授業の予習を自席でしていた。
魔術科の教科書をはらはらと捲っていると、横に、矮躯の気配を感じた。
「何だ空。落し物か? 言っておくが、ウルフ属のヤツに頼んだ方が早いぞ」
「遠野クン」
やけに平坦な声だった。何だと聞き返そうとした彼は、しかし立て続けにそれを聞いた。
「とトーノくん。――っととととのぉうくウん、くくくくうんうん!」
遠野はゆっくりと顔を向けた、棒立ちになる少女の方へ。いかにもアホウな顔をした空がそこにはいた。もはやバグった機械にしか見えない。彼は、眉間を指で押さえて、
「……波坂のヤツか……」
ちらり、と教室の戸に半目を向ける。にやけ顔を覗かせる波坂の姿があった。波坂はこちらの視線に気付くと、軽やかな足取りで近付き、空の肩に手を載せて後頭部に乳を押し付けた。
「どういうつもりだ? 波坂。主旨が全く理解できないぞ?」
「ふふっ、何を仰いますの遠野・和時。ただ暗示をかけて洗脳しただけですわよ?」
「ならもーちっと上手くやれッ。馬鹿の度合いが増しただけだぞ!? せめて騙しに来い!!」
「あら、騙して欲しかったんですの? 意外と貴方はドMの素質がありますのね!?」
「ちげーよ。コイツの馬鹿がうつったんじゃないのか?」
「ふ。なに、ほんのお遊びですわ。今しがた暗示を解きますから―――」
遠野の眇に、波坂はうそぶくのをさっさと止めた。目線を合わせて空を直視する。が、
「あ……、しくりましたわ。――暗示が、解けませんの」
「何だって?」
「いえこの子、暗示の術中に見事にはまってしまって、上手く外せませんの。容易いとは思いましたけど、まさかここまでとは。どこまでワタクシに心開いてくれたのでしょう?」
「どれくらいで効果が切れるんだ? 五限目まであと五分も無いぞ」
「精神部に一瞬触れただけですから、早くて十分、遅くて半刻だと思いますけど。でもマズいですわね。鬼村先生、旧代から魔術に精通していたと聞きますし、見られた瞬間バレるのは必至。――どうしましょー!」
本気で慌て始めた波坂を見た彼は、少し逡巡した後に短く息を吐いた。
「仕方ない。あの手を使うしかないか」
「え、何ですの? 良い手がありますの?」
ああ、と遠野は頷いて、部屋の片隅に置かれた掃除用具入れに視線を送った。
「あれを、使いますの?」
「そうだ。波坂、空の声の音量、ぎりぎりまで下げれるか? そのままじゃバレる」
「ちょっと待って下さいな。―――ええ、大丈夫。小声くらまでならいけそうですわ」
「よし、なら無理やりにでも押し込むぞ。クラスの根回しも、お前が怠るタマじゃねえか」
「ふふ、運命の共同作業ですわね?」
「悪戯を隠すための偽装工作だけど、な。――そら、いくぞ」
ロッカーの中身をずらして隙間を空ける。二人で空を抱えてロッカーに押し込んだ。周りは全員苦笑しているが気にしない。真面目な岩戸も、こればかりは笑って誤魔化していた。
「……よし、いけますわ!」
波坂は満足げに拳を握る。遠野も、一件落着と息をついた。
が、ややってから、ふと不意に、それはやって来た。自分たちの頂点に立つ、理解の範疇を越えた絶対が、だ。
『…………ッ!』
周り全て。室内から廊下、フロアに至るまでの全てに、突然、息が詰まって窒息しそうなほどの威圧が全員にのしかかってきた。
身体の萎縮で肺はまともに動かず、動悸は増す一方。言動、干渉、身動き一つとれず、辺り一帯は、瞬く間に静寂と化していた。
カツカツ、と二人の足音が重なって聞こえてきた。――来たか、と彼は直感した。
徐々に近づき、そして無音の中に唯一響く二人の足音は、まるで、何かを宣告されているような気分だった。少しすると、廊下、自分たちの視界に、その二人は現れた。
……生徒会会長にして神州機構のドン、蒼衣・龍也! 後ろにいるのは副会長の櫛真か!
全員が息を詰める中、D組の教室に、二人は平然と足を踏み入れた。
先を行く少年は、更に数歩前へ出て、鋭い双眸で室内を睨みつけた。そして、
「会計はいるか!?」
「……は、はいっ! ワタクシは、ここに、おりますわ……」
波坂は屹立して応じた。だが、その声は明らかに怯えており、手足は小刻みに震えていた。
黒の少年は彼女を一瞥すると、しかし踵を返してまた歩き出した。彼は、共に来た少女に、
「麻亜奈よ。後の差配は任せよう。オレは、先に戻っておるぞ」
「了承しました、龍也様」
そう簡素に言い残した彼は、振り返ることなくその場を去った。彼の気配が完全に消えると皆は一斉に、しかし気取られないように小さく息をついて肩から力を抜いた。
まだ〝絶対〟が消えた訳ではないからだ。もう一人、この場には〝絶対〟が残っている。
皆は、その者の挙動に気を張り直した。中でも特に顔を青くさせているのは、立ったまま動けないでいる波坂だった。彼女は、己の許へ歩を向けた寡黙な女生徒を直視できないでいる。
艶の良い闇色の長髪は腰まで伸び、色素の薄い肌に銀瞳が美しい。体幹を一切ぶれさせない見事な体捌きと、少女の無表情が一層、場の緊張感を煽っていた。
……櫛真・麻亜奈。狼属最強の人狼種。神州における狼神マカミを襲名した生徒会副会長。機構では大将である全部長の副官を中将として務める、実質この国の二番手……!
整調な歩幅、波坂の眼前で彼女は立ち止まった。落ち着き払った声で櫛真はこう告げる。
「波坂会計。午前中に起こした不始末に加え、本日、正午に予定していた生徒会会議、無断でサボタージュされましたが、何か申し開きなされる事はございますか?」
ひくり、と波坂の身体は強張って、次に震えと変わった。皆は固唾を飲んで静観していた。
*
*
「――あの、その、ですね……。実は、色々と厄介事がありましたの。手を焼くうちに昼が終わっていまして、その、ワタクシ自身も無我夢中で。ええ。色々とありましたの……」
冷や汗を大量に流しながら波坂は、しどろもどろに、しかし必死に言い訳をした。
……下手に逆撫ですると殺されますわ、絶対。和時さん助けてくれ、ませんわよね……。
生徒会は、腕力か高名かで選出される。現会計と書記は名で、会長と副会長は力で生徒会に選ばれた。つまり、学園における戦闘力で副会長を越えるのは会長のみ、という事だ。
たとえ自分が一騎当千だとしても、櫛真は一騎当万かそれ以上になるだろう。下手に機嫌を損ねれば命が危うい。覚悟を決めねば、と波坂は腹を括った。すると、正面の櫛真が、
「そうですか。色々と、あったのですか」
「え、ええ、そうですの。本当にあったんですのよ?」
「はい、分かっております。ただ何があったのか、私めにも聞かせて頂けますか?」
「――――」
波坂は押し黙った。
上手い答えが見付からず、思わず俯いてしまう。下唇を噛んで脳内を錯綜させる。が、
「どうされました波坂会計? もしかして、ですが、――会議を忘れて遊び呆けていた訳ではないのですか?」
「……!」
万事休す。図星だった。昼休みの殆どを波坂は、空を連れまわしていたのだ。
「いつまでも黙られては困ります。昼に何があったのか、早く申して頂けませんか」
更に一歩、櫛真は距離を詰めようとした。瞬間、背後から金属板を叩く音が響いた。
ちらり、と波坂は肩越しに後ろを見る。すると、雑巾や箒のホコリを頭に被った、濃紺の長髪を持つ少女が、のそのそと掃除用具箱から這い出ていた。
暗示から解放された少女は、眠たそうに目を擦りつつ、とろけた眼差しで静かな教室を不思議そうに見回し始めた。
……また面倒な子が! というか暗示もう解けましたの? 内燃魔力の代謝凄いですわね。
突然の登場に皆が目を見開く中、少女の第一声は、理解の範疇を越えていた。それは、
「――あれ? 麻亜にゃさん? 何でここにいうの?」
などと学園副会長である櫛真を名指しで、それも甘噛みしたのだ。だがこれに、櫛真は、
「おや空お嬢様。姿が見えぬと思えば、そのような場所にいらしたのですか。何故そこに?」
「分かんない。お昼の終わり頃から記憶が……、まぁいっか。こんな事はよくあるもん」
「そうですか。よくあるのならば結構です。私めには別件がありますゆえ、お静かに」
「別件、って、伊沙紀ちゃんに?」
ええ、と櫛真は、空の視線に首肯した。小首を傾げて上目遣いに、空は尋ねた。
「何するの? 悪い事なら麻亜奈さんでも怒るよ、わたし。――い、伊沙紀ちゃんは、わ、私の親友なんだから……」
最後になるにつれて声量が落ちていったが、間近で聞いた櫛真は軽く目を見開けた。
「ほお、親友ですか。――波坂会計、いまの真偽はいかに?」
「え? えぇ、あーいや、――ほ、ホントーですわ!」
一瞬逡巡しそうになったのを堪えて、波坂は首を縦に振って肯定した。
……目が泳いでるかもですけどイイですわ。共に彼を賭けて切磋琢磨、尋常に競い合いましょうとしか言った記憶がありませんけどー、そう受け取って頂けたのならもう構いませんわ!
彼女の挙動を半目で見据えた櫛真だったが、少し間を空けてから口を開いた。
「了解しました。龍也様にもそうご報告申し上げましょう。神州を治める者とはいえ、龍也様も私めも、大切な空お嬢様の、それも初めてのご親友を亡き者にしようとは思いませんので」
敵意を仕舞った櫛真は、ひらりと身を翻し、そのまま教室を後にした。
しばらくの間、教室は無言で氷付いていた。だが、波坂は緊張からの解放に脱力し、空は経緯が呑み込めずにいるようだった。そして最後まで何も出来なかった遠野は、一人教室の隅に立っていた。すると、堰を切ったように波坂が声を挙げた。空に抱き付いて、
「――助かりましたわ蒼衣・空ァー! 貴女のお陰で首の皮一枚つながりましたのォ! おお貴女は心の友、正に〝心友〟ですわァア!!」
「わァああ!? 伊沙紀ちゃん重いよお!」
などと絡み合いつつ、二人は仲を深めている様子だった。
彼は、何も言わずにそれを見守っている。眉尻を下げた苦笑に力無い瞳。自虐に満ちた表情で、眺めていた。
だがその事に、室内の誰もが気付かず、全員が、空と波坂の和気藹々を眺めていた。
「でも蒼衣・空。貴女どうして、会長や副会長と面識を持っていますの? かなり親交が深そうでしたけど。それに貴女の姓、会長と同じではありませんの。分家か何かですの?」
? と波坂のふとした問いかけに、空は不思議そうな顔で首を傾げた。
周囲が息を呑む。まさか、という思いが胸中に沸いて出てくるのを抑え込んで、皆は少女の回答を待った。少女は首を横に振った。
「――ううん。分家じゃないよ。わたしのお兄ちゃんだよ? 麻亜奈さんは侍女」
「ウソだぁあああああああ!!」
周囲全員がそう叫んだ。
頭を抱え込んで絶叫する者や涙を流す者。仕舞には念話を始める者もいた。そして、
『あり得ねえェ! あの絶対王政並みの恐怖政治する会長に、まさかこんなロリキュートで純真無垢な妹様様がいるなんてェエ! ――ちょっと嬉しいけど、でもあり得ねええ!!』
放課後には、学園全域に「会長の妹はロリ美少女!!」の朗報が渡りに渡っていた。
*
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四方十メート以上はある、会議室に似た部屋。室内の照明はやや暗めだ。
室内には男が独り、革の椅子に寄り掛かっていた。頬杖をつく彼は、静かに壁にかけられた地図を眺めている。
と、そこへ、女性が一人入ってきた。彼女は入室してから会釈をし、そのまま彼の許へと足を運んだ。彼の眼前でもう一度腰を折った女性は、静かに問いを投げかけた。
「――それで、如何なさるおつもりなのですか?」
「何の事だ?」
男の声に詮索は無い。ただ思い至る案件のどれを言っているのだ、と聞き返したようだ。
「昨夕の、試験体が撃墜された事についてです。隠蔽は万事終了しましたが、部外者に目撃された危険もあり、かつあの者には確実に見られています。勘付かれる可能性があるかと存じます。――それで、如何なさるおつもりか、と」
「ふっ、そうだな。危険だな。だが問題は無い。手はすぐにでも打つ」
薄笑いを浮かべる彼の物言いに、女性は一瞬だけ眉をひそめた。が、
「――了承しました」
と追いの問いを発せずに男に従った。まるで、それが当然であるかのように、だ。
――ことは静かに、だが、確かに動き出している。